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 今日は、四苦八苦して子どものころから目標に向かって挑戦してきたことで、結局たどり着いた現在の心境についてつづってみたいと思います。公にするといろいろと面倒なことが出てくるので、具体名を避けている点については何卒ご了承ください。


 一口に教団2世と言いましてもいろいろですから、単純に一括りにすることはできないのですが、私は自分の直感に頑固に固執してきた、そんなタイプだったようだと分析しています。高等教育に対するネガティブキャンペーンの直撃にも耐え続けたこと、ようやく大学進学を果たしたことは、その後の自分の歩みの原点だと言って良いと思います。学部卒業後、さらに上級のレベルで学問を修めるチャンスを掴んだことは実に幸運なことでした。宇宙や物理の勉強、実験、研究に没頭した当時を振り返ると、思ったように事態が進まず実際のところは苦しいことの連続の日常だったはずなのに、夢のような時代だったと懐かしく映ります。社会人になってからも自分の身の丈を考えず仕事上の目標に向かって絶えず挑んできたわけですが、自分の意志を超えて思いがけないところで絶妙なチャンスに遭遇したり、跛行的であっても自分の歩みが理想的な姿で進化していく有様を実感できたときはとても大きな感動を覚えました。無論それらの取り組みが楽だったことは一度たりともなく、凡人のくせによくもまあ頑張ったもんだとその健闘ぶりを称えたいというぐらいに感じています。


 そういった挑戦が奇跡的にうまくいったことがあったとはいえ、一方で耐えがたい挫折を味わったことは幾度もあります。とくに時限的なプロジェクトのような働き方・生き方になりますと、自分の雇用関係をかけて、ミッション達成のために知力・体力・気力を総動員し全身全霊を傾けるわけですから、失敗に終わったときの反動と敗北感はそれはもうエゲツない、本当にハンパなかったですね。言葉ではとても表すことはできない。その都度、ホントにボロ雑巾のようにポイ捨てされますからね、怒り、悔しさ、惨めさによる激情のカオス。そんな屈辱的な感情がグッチャグチャになり、正常な精神状態を保つことさえ難しく感じていました。そういう状況からどうにか這い上がることができたわけですが、挑戦と挫折、この点において私は生ぬるい感情を一つも持っていません。


 「お題目を唱えるだけで救われる」という仏教のお話を聞いたことはありませんか? 子どもの頃、私はそんな話を軽く考えていたんですよね。太平洋戦争で南方に出征した日本兵が地獄のような戦場でジャングルに追われ、上空から飛来する米軍の圧倒的な機銃掃射や破壊的な爆撃で、死と隣り合わせに追い詰められたとき、みんな「神さまー!助けて―!」と必死で神仏にすがっていたと聞いたことがあります。極限状態に追い詰められると(極限状態の境界線は人によって異なると思う)、普段は潜在意識下にある宗教心が一気に噴き出してくるのではないか、そんな絶望の中では「神さま!助けて!」だけの真っすぐな言葉しか出てこないんじゃないか、「お題目を唱えるだけで救われる」という教えが最後の拠り所となって心救われたという人はたくさんいる、今はそんな心境がよく分かります。私の場合はそれが「聖書の神」だったわけで(宗教団体ではなかったことはお断りしておきます)、本当にしがみつくような感覚で自己の再生に努めました。挑戦して成功する→信仰心の爆上がり(「20241014-宇宙開発の面白さ~私の個人的な宗教的な見地から~」の記事に既出)、挑戦して挫折して這い上がる→これまた信仰心の強化、こういうプロセスを辿ったところが自分でもなかなか感慨深い。


 どんな年齢でも挑戦できる、そう思います。やってみないと分からないことがある、そう思います。しかし、成功と思えるもの、自分が納得するものを勝ち取るためにはリスクを取らなければならないことがある。全身全霊を傾けた挑戦が幾度も無慈悲に打ち砕かれたという経験があると、自分と共感する分野において新しいことに挑戦しようという人を応援したいという素直な気持ちがある一方で、安易に激励することを躊躇する自分がいるんですよね。ですから、成功、失敗、挫折、今まさに挑戦中の人、そんな人たちのいろいろなお話しに耳を傾け自分の内側で整理し、少しづつ決意を固めたら良いのではないかと思います、お茶を濁すような言い方になりますが。私自身も今もっていろいろなところに足を運んで話をしたり聞いたりして、相変わらず宇宙・物理・信仰など、子どもの頃からずっと大切にしてきた内面世界の調和と融合を図るべく、活発な意見交換と情報交換に努めています。いづれそういった取り組みが良い実を生み出すことに結び付けば本当に申しぶん無いと思っています。