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 今日もまた、私がまだ若々しい青年時代のときに体験した出来事を振り返りたいと思います。お時間の許される方はお付き合いください。


 私が子どもの頃から関わっていた教団が輸血拒否を教理としていることについて前回の記事で触れたところですが、輸血拒否に限らず、献血もダメだと教えられてきました。しかし教えられたからといって、輸血拒否の教理の細部についてはともかく、献血禁止について子どもの頃から納得していたわけでもなく、たえずモヤモヤとした感情を抱いていました。第一、受け入れることが許される血液の微小分画成分は一体どこに由来しているのか。もちろん「献血」された血液から作られている。献血された血液が無い限り、輸血用の微小分画など存在しない。ですから、血液の微小分画成分を受け入れることと献血を容認することは論理的にワンセットになっているわけです。


 当時、ある平日の夜の集会でのこと、

「イスラエル人は、血の抜かれていない死んだ動物を食べませんでしたが、それを外人居留者に与えたり異国の者に売ったりしてもよかったのはなぜですか。(申命記14:21)」

という討議がなされました。


 私はその討議にリアルタイムで出席していたのですが、集会で用意されたテキストには無輸血医療に関する記事が隣り合うように大きく扱われており、これは「献血については良心上の決定事項であるということの示唆だ」と感じました。ロジカルに考えても、聖書記述を見ても献血を禁止にするほうが聖書の教えと整合しないことは明白であり、この記事を足掛かりに献血禁止もようやく解禁の方向に向かうんだなと感じたわけです。それで、週末の布教活動に参加した際、教団の信者たちが集まってくつろいでいる休憩中に、平日夜の集会での出版物の取り扱いに基づいた献血解禁についての自説を一通り披露したんですよね。


 「なるほど!」「そうだ!」「さすが!」とみんな感心してくれるだろうと期待していました。ところが・・・。「そんなはずがない!」「勝手なことを言うな!」と火が付いたように激しく反発してきたんです。思いがけない反応にギョッとして一体何が起きたのか一瞬その状況を飲み込めませんでした。結局、私が勝手な考えをあちこちで触れ回る要注意人物のように見なされ苦しい立場に置かれることに・・・。私自身は聖書に関連したまじめな会話の一環として捉えていたものですから、この思いがけない反応にひどく戸惑ったことを記憶しています。


 聖書的にも論理的にも間違っていないはずなので、全く釈然としない。それで、後日この件について、子どものころからよく知っている別の集会所の教団幹部に詰め寄ったのでした。


私:「そもそも輸血用の血液微小分画はどうやって製造されているか分かってます?」

私:「献血された血液から製造されているんですよ?」

私:「献血がなければ血液微小分画の輸血という選択肢など存在しないじゃないですか?」

私:「だからなんで献血禁止になるんですか!?」

幹部:「他人にはあげないけど、自分たちはもらうもんだけもらっとくと?」

私:「そうですよ! だからそんな理屈が通用するとでも思っているんですかっ!!(怒)」

幹部:「言いぶんは分かるんだが・・・ゴニョゴニョ」


 呆れた、本当に呆れました。当時、私は一応現役の教団信者として末席で活動していたわけですが、その立場であっても強い苛立ちを感じたぐらいです。事情を知らない一般世間の人にしてみたら、一体どのように評価すると思っているのでしょうか。そればかりでなく、医療に関する自分たち教団の都合だけは受け入れてほしいと要請するのは虫のいい話だと感じました。教団の幹部たちもこういう矛盾があるという事実を知らないのでしょうか、それともつじつまが合わないと承知していながらケロっとして一般信者を指導しているのでしょうか、もしそうならなお始末が悪い。私が詰め寄った教団幹部はその事実を理解しているふうでした(むしろ分からないというほうが致命的だと思います)。末端幹部から上層部に意見を具申できるシステムになっている気もしないし、お粗末な結果しか見いだせず、結局、心にかかった雨雲が晴れ渡ることなど全く無かったというわけです。