子どもの頃からクラシック音楽が大好きだった私は一つの憧れを抱いていました。自分でバイオリンを演奏し、見事な音色で人を感動させることができたらどんなにか楽しいことかしらと。20世紀最高の物理学者として名高いアインシュタイン博士も自宅に集まる友人らを前にたびたびバイオリンを演奏して皆を楽しませていたそうで、物理学を志す者は芸術にも造詣が深くなければならないのだと、そんな勝手なイメージで憧れの気持ちを高めていました。アインシュタイン博士の腕前はともかく、博士がモーツァルトの楽曲を大変好んでいたこともまた一層共感を覚えた理由でもありました。
さて、バイオリンを自らの手で弾くという憧れを抱きつつも、結局私は一度も楽器を手にすることも専門的なトレーニングを受けることもなく大人になったわけですが、ひょんなことからバイオリンを手にするチャンスを獲得し、20代になって初めて演奏する側へとほんのわずかに足を踏み込むことになったのです。これは実にたわいもない話なのですが、以降数回に分けてそのいきさつと顛末について書き綴ってみようと思います
今となっては昔のことなのですが、自宅アパートのポストに投函されたある商品広告に不愛想に視線を落とすと、立派な専用ケース入りのバイオリンがなんと4千円という破格の値段で表示されていました。バイオリンという楽器は値の張るものが一般的であると思っていた中で、安さ爆発のこの価格にまず衝撃を受けました。さっそく自転車をこいで広告に表記されていた店舗に急行すると、広告通り4千円でバイオリンが販売されている! しかも商品は店頭にうず高く山積みになっていました。一体どういうお店なのかよく分かりませんでしたが、そんな不安をよそにこのチャンスを逃すと次は無いとばかりにためらうことなく購入しました。
初めてバイオリンを手にしたことからくる興奮とともに帰宅すると、胸の高鳴りを抑えつつ、自宅の一室でそろりそろりとバイオリンケースを開けてみました。「おぉっ!」真新しいニスでピカピカと輝くバイオリンが姿を現し、ケースの内側から湧き出る気位の高い香りに頬がゆるむ。
私:「これがホンモノのバイオリンかーっ!」
視線の先にある憧れの楽器をまじまじと見つめる。そしておびえるような手つきで、バイオリンをおそるおそるケースから取り出してみました。とはいうものの、プロの音楽家がバイオリンを演奏している姿をテレビで見たぐらいの知識しかなかった私は、演奏技法も楽器の取り扱い方法も全く見当がつかない。もちろん部屋のオブジェとして楽器を購入したわけではありませんから、美を堪能するためにいつまでもぼんやりと眺めているつもりもありません。テレビで見た演奏風景を思い出しながら、見よう見まねで音を出してみることにしました。
「弦の上で弓をスライドさせたら、きっと音が出るはずだ」と、とりあえずやってみる。しかしどうしたことでしょう。ツルツル、ツルツルと弓が音もなく弦の上で滑るだけでした。
私:「アレ?? 音が出ないな」
私:「テレビでは確かに弓を前後に動かしていたはずなのだが?・・・」
再度トライしてみました。が、ツルツルン、ツルツルン・・・、とやっぱり弦の上で弓が滑るのみ。
私:「んん? おかしい? なんで音が出ないんだ???」
ツルツル、ツルツル・・・、音もなく弦の上で弓が滑る。ツルツル滑るばかりで、全く音が出ない。不可解なこの現象がずっと繰り返されていきました。
私:「おかしい!!」
何かがおかしい、なぜ音が出ないのか、何か秘密があるのか。賢くもない頭をしぼり、弓の引き方に工夫が必要なのではないかと考え、とりあえず弓を引くスピードをグンッと上げてみることにしました。しかし全く効果無し。次に、弓を弦に当てる力を強化してスライドさせてみましたが、これも音が出ません。弓の張り具合を強くしてみても、これも徒労に終わりました。
それで弓のほうはあきらめて、今度は弦のほうに注目することにしました。きっと弦の張り具合に問題があるに違いないと考えました。この発想はバイオリンの演奏とは直接関係ありませんが、おそらく弦の張力による振動は波動関数で記述されるとかなんとか、そういう物理学の知識が念頭にあったからだと思います。それで、バイオリンの先の方に装着されているネジ(「糸まき/ペグ」と呼ばれる、弦の張りの強弱を調節する装具)を力いっぱい回して、これでもかと弦をギュウギュウに締め上げていきました。
ギュギューッ! ギュギューッ! ギュギューッ! ギュッ・・・ブッチーーン!!!
私:「あぁっ!!・・・」
私:「はぁ~・・・なんてこった・・・」
力いっぱい糸巻きを回しすぎたため、とうとうバイオリンの弦が真ん中あたりでぶっちぎれてしまったのです! こんなことがあって良いのでしょうか。バイオリンを購入したその日に、しかもまだ一つとして音を出してもいないのに、バイオリンの心臓部と言うべき弦を破壊してしまった。大変なショックを受けて脱力してしまったのでした。
(続く)