私が学生だった頃、まだ平日夜の集会が週に2回あり、そのうちの一つは教団信者の自宅に少人数で集まり教団発行の出版物を学習するという形式をとっていました。。忙しい毎日を余儀なくされていると、その合間を縫って平日夜の集まりに2日も参加するというのはなかなかハードルが高いと感じる社会人は少なくなったのではと感じます。職場での社会的責任ばかりでなく家族に対する責任もまた大きい。学生だった私はそういう責任は無かったのですが、それでも研究室での実験を一時中断して、夜の集会に出席し、また研究室に戻って実験・研究に邁進するというハードな生活を送っていました(ある意味では充実していたとも言える)。
今日は、そんな私が大学の低学年生だったとき教団幹部の自宅で行なわれていた平日夜の集会での出来事をお話ししようと思います。
ある集会の日、集まった信者たちと一緒に教団の出版物に基づいた質疑応答を通してイエス・キリストの歩みについて学んでいました。用意された質問に対し文書中から答えを探して回答するという台本通りのプログラムなのですが、皆まじめに取り組んでいました。プログラムが終了し、信者の多くが集会後の和やかな時間を穏やかにくつろいでいるところでした。そのころ私は、イエス・キリストの完全性とは具体的にどういうものなのか、罪が無い、老いることもない、死ぬこともない、そんな身体的完全性について頭の中であれこれと反芻していました。とくに「老いることも無い」、この点に少しひっかかるところがあり、ちょうど集会でイエス・キリストについて学習したタイミングだったので、イエス・キリストの持つ完全性について私が思ったことを教団幹部に尋ねてみたのです。
私:「ちょっと質問があるんですが・・・」
幹部:「なにかな?」
私:「イエス・キリストって完全な人間だったわけですよね?」
幹部:「そうですよ」
私:「ですよね、じゃあ30歳を越えたイエス・キリストの顔にはシワとかあったんでしょうか?」
幹部:「いや、ふつうにあったんじゃない? でもどうして?」
私:「二十歳と30代ではお肌のハリが全然違いますよね。その年齢になるとシワができるのも普通ですし、でもそれって一種の老化現象ですよね。完全な人間なのになんで老化するんですか? 矛盾してません? 完全な人間は老化しないんじゃないんですか?」
幹部:「あ・・・、き、危険だ! キーボード兄弟の考えは危険だっ!」
私:「(えーっ!?なんでそうなる!?)」
「いやいやいや、年齢と肌との関係を学問的に追及すると・・・」
幹部:「もうアナタとはいっさい口を聞かないっ(怒)!!!」
「*n☆2?¥,%$;!!!」
最後には気色ばんで叫んでいました。強制的に会話もストップ。他の信者が一部始終を観察している前でこんな振る舞いはあまりに無礼で非常識だと思いました。中傷ですよね。実際、部屋全体が冷たい空気でキーンと張り詰めたのは言うまでもない。しかしこんな取るに足らない大学低学年のボウズに軽く論破されてしまうわけですから、本当に薄っぺらい人物でした。この出来事に限らず、この幹部は言葉と行動で批判的かつ挑戦的な姿勢で絡んでくるのでいい加減に辟易としました。
教団に恭順する信者にとって教団発行の出版物に掲載されている教団の見解以外に思考様式の選択肢は無いのだろう。だから、そこからはみ出すとこういうふうに簡単に危険人物のレッテルを貼られることがある。先の幹部に限らず、答えにくい質問をぶつけたり、矛盾点を突きつけたりしようものなら背教的な人物として糾弾のターゲットになってしまう。その結果、不本意な経験をすることが本当に多かった。自分の考えが教団の指導や見解と食い違う場合、よほど信頼できる友人信者に個人的にこっそり打ち明けることはあると思いますが、少なくとも公に話ができる土壌は存在しない。そんなことはないと言うなら教団の指導や見解をくつがえす説を演壇の上から披露してみたら良いだろう。教団というフレームの中にいると、聖書の真理・真実の探求を実行するのは土台無理なんじゃないか、そういう空気に異様な窮屈さを感じたのでした。私は気心の知れた仲間の信者が身近にいなかったので、一人で格闘していました。
出版物から学ぶ、これはこれで良い一面は確かにある。世に存在する様々なキリスト教系の宗教グループの一つによる一解釈とはいえ、聖書が描くイエス・キリストのざっくりとした輪郭を知る手掛かりになることがある。それを出発点として聖書の真理・真実の深み(あるいは、至高者、創造者、全能の神でも良い)を探究する歩みへの動機付けが与えられるきっかけとなることがある。少なくとも私にとってはそうだった。しかし現実には、その動機に基づいた自由な意志を教団のフレームを越えて発動すると衝突と摩擦は避けられない。参考にする程度にとどめておくべき教団の一解釈に思考も心理も行動も翻弄されているのでは、それは単に教団の出版物にコントロールされているだけであって、真理を探求する姿勢からは程遠いのではないだろうか。そんな真摯な探究の姿勢などとうの昔に忘れてしまったのだろう。以前の記事で言及した通り(「20250110-大学進学の苦闘と葛藤」)、教団の指導と自由意志の発動とが激突する場合、信者自身が非生産的で非人格的な心理的葛藤を抱えることがある。心ある人はその事実によく注意を払うことが肝要ですね。