『軍師官兵衛』、最終回まで見届ける。 | 話の種(仮)

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◆父譲りの調略で呼び込んだ関ケ原の勝利

(「歴史街道」2014.11)

◇長政はなぜ家康に接近したのか


 「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援に向かったが、臆病にも戦わなかった」。慶長3年(1598)、朝鮮の役。福原直高、垣見一直、熊谷直盛ら三目付のそんな報告に接した豊臣秀吉は激怒し、長政と家政は窮地に陥った。後にこの報告は誤りであったことが証明されるが、長政は三目付及び彼らと結びつく石田三成を憎み、対立することになる。

一方、秀吉没後もなお朝鮮にあった長政に対し、たびたび労いの書状を送ったのが徳川家康であった。家康は秀吉が逝去すると、無断で有力大名と次々と婚姻を結び、味方を増やしていた。長政だけでなく、父親の官兵衛に対して長政帰国を祝う手紙を送っているのも、その一環であろう。長政は家康に感謝し、ビロードを贈っている。さらに慶長3年12月には、長政は家康の重臣・井伊直政と起請文を交わして、お互い蔑ろにせす、秘密を他言しないことを約束した。長政は徳川家と盟約を結んだに等しく、それは三成らの勢力との対立を前提としていた。

五大老の1人で家康も一目置く前田利家が没すると、翌日の慶長4年(1599)閏3月4日、7人の将が三成を襲った。朝鮮出兵時に不当な扱いをされたことへの復讐のためである。その中心にいたのが長政だった。三成は伏見の自邸に辛くも逃れ、徳川家康が調停に入ったことで7将は矛を収めた。

その2週間後の3月19日、朝鮮の役での蔚山城の一件が再調査され、長政や蜂須賀家政は名誉を回復する。一方、三成は佐和山城に隠退し、政治には今後与らないことに決した。長政にすれば名誉回復と三成の失脚で溜飲を下げたであろうが、一連の中で最も得をしたのが家康であることは疑いない。

では、長政は家康にうまく利用されただけかといえば、必ずしもそうではない。幼少より秀吉の世話になった長政だが、次の天下人が誰かを冷静に値踏みし、家康に接近した可能性がある。官兵衛が、家康と一定の距離を置いたのとは対照的だ。秀吉の天下取りを支えた父親に対し、長政は家康の天下取りを演出しようとしたのだろうか。家康は長政を信頼し、関ヶ原を迎える。

◇調略で呼び込んだ関ケ原の勝利

関ケ原の戦いの帰趨を決したと語られる、小早川秀秋の東軍への「寝返り」。父・官兵衛譲りの調略で、秀秋の西軍からの離反を演出した男こそ、黒田長政であった。

長政は合戦当日に至るまでに、東軍勝利の礎を着々と築いた。具体的な動きを見せたのは、慶長5年(1600)7月下旬の小山評定以降だ。この時、家康は豊臣家恩顧の諸将の動向を気にしていた。中でも不安を抱いていたのが、反石田三成の急先鋒だった福島正則の変心たった。

もし正則が西軍につくと表明すれば、多くの武将が靡くのは確実。家康からすれば、最も避けたい事態である。小山評定後に「内府ちかひの条々」が届くと、家康は懸念を強める。正則と近しい宇喜多秀家が、首謀者に名を連ねていたからだ。

そんな動転する家康を落ち着かせたのが、長政である。

家康は相模厚木にいた長政を、わざわざ小山まで呼び寄せると、「福嶋は何方へ心を属し候や。秀吉にしたしき者なれば、敵方には成るまじきか」と訊ねた。「黒田長政記」によれば、長政は次のように答えたという。

 「左衛門大夫(正則)の事、御方(家康)に属し申すべしと存じ候。殊に石田と中あ(悪)しく候」

長政は正則と固い友情で結ばれており、仲違いから和解した際には、長政は正則から竹中半兵衛所用の兜を受け取っている。そうした間柄だからこそ、「三成をあれほど嫌う正則が、西軍につくわけがない」と見通せたのだ。長政の言葉に安堵した家康は、心置きなく決戦への準備を進めていく。

そして、長政が決定的な役割を果たしたのが、「毛利両川」の懐柔だ。長政は吉川広家と書状のやり取りを繰り返して、関ヶ原での「日和見」を約定させると、小早川秀秋のもとに頻繁に家臣を往復させた。

黒田家と小早川家には、深いつながりがある。秀秋の重臣・平岡頼勝は長政の父・官兵衛の姪婿にあたる。すなわち、長政とは義理の従兄弟の関係である。平岡は古くから小早川家に仕えており、家中で最も発言力を持つ人物の1人だった。また、黒田家臣団の中心的人物である井上九郎右衛門之房の弟・川村越前も、秀秋の家臣であった。

長政はこうした人脈から、秀秋に東軍に与するよう働きかけ、その動静を逐次家康に報告していたのだろう。家康からすれば、長政を通じて毛利家の動きを把握することができた。そして秀秋は、西軍のふりをして布陣するが、頃合いを見て東軍として旗幟を鮮明にすると約する。こうして東軍は、万全の態勢で天下分け目の合戦当日を迎えたのである。

さらに言えば、長政は戦場でも出色の働きを見せた。石田三成を支えた名将・嶋左近を討ち取ったのも黒田隊だった。長政は若い頃から勇猛さを謳われており、決して調略だけの男ではない。これで東軍の優勢は決定的になったのである。
◆軍師官兵衛

http://www1.nhk.or.jp/kanbe/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B

(最終回)

https://www.youtube.com/watch?v=YjksV3pbuJs

◆拙稿

http://ameblo.jp/key-sb-bridge/entry-11846244854.html

http://ameblo.jp/key-sb-bridge/entry-11854265552.html

http://ameblo.jp/key-sb-bridge/entry-11869825297.html

大河ドラマ『軍師官兵衛』最終回まで見届けた。1年通して楽しめた。

クライマックスの関ヶ原の戦い。結果は分かっているものの改めて見て迫力があった。

豊臣秀吉政権を創った黒田官兵衛(如水)と、徳川家康政権を創った黒田長政の父子・・・物語のメインは官兵衛だが、早くから徳川家康に接近し、家康の養女を正室に迎え、関ヶ原では、福島正則を東軍に引き止め、吉川広家、小早川秀秋と通じて西軍の勢力を削ぎ、本戦でも石田三成勢と戦って、名将島左近を討ち取り、石田勢を潰滅・・・調略、戦闘いずれにおいても東軍勝利の最大の功労者であり、黒田家を大大名に成長させた長政の役割は極めて大きいと思った。

軍師官兵衛、ホークスの優勝・・・福岡は大いに盛り上がった一年だったのではないだろうか。









官兵衛の兜は「赤合子」(あかごうす)と呼ばれる。正式名称は「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」。

http://www.rekishijin.jp/kurodakanbei/sudou/%E7%AC%AC%EF%BC%94%E5%9B%9E%E3%80%80%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%AE%E8%B5%A4%E5%90%88%E5%AD%90/

↑最終回シーンにもあったが、「赤合子」は筆頭家老の栗山利安(善助)(くりやま・としやす)(濱田岳)に与えられた。利安の子栗山利章(大膳)(-・としあきら)に伝えられたが、利章は長政の子忠之の代に「黒田騒動」と呼ばれる御家騒動を起こし、盛岡藩南部家に預けられ、「赤合子」は南部家に献上された。現在は、福岡ではなく盛岡の「もりおか歴史文化館」所蔵。

長政の兜は「福岡市博物館」所蔵

http://www.rekishijin.jp/kurodakanbei/sudou/p35109/

双方ともぜひ見てみたい。





(参考)関ヶ原の戦いの戦後処理・加増(10万石以上)

(単位:石)

結城秀康(徳川家康次男)
下総結城101,000→越前北ノ庄670,000(+569,000)
松平忠吉(徳川家康四男)
武蔵忍100,000→尾張清洲520,000(+420,000)
蒲生秀行(徳川家康三女振姫の夫)
下野宇都宮180,000→陸奥会津600,000(+420,000)
池田輝政(徳川家康次女督姫の夫)
三河吉田150,000→播磨姫路520,000(+370,000)
前田利長
加賀金沢835,000→加賀金沢1,192,700(+357,700)
黒田長政
豊前中津181,000→筑前名島523,000(+342,000)
最上義光
出羽山形240,000→出羽山形570,000(+330,000)
福島正則
尾張清洲200,000→安芸広島498,300(+298,300)
加藤清正
肥後熊本250,000→肥後熊本515,000(+265,000)
田中吉政
三河岡崎100,000→筑後柳川320,000(+220,000)
細川忠興
丹後宮津180,000→豊前小倉399,000(+219,000)
山内一豊
遠江掛川68,000→土佐浦戸222,000(+154,000)
小早川秀秋
筑前名島357,000→備前岡山510,000(+153,000)
浅野幸長
甲斐府中225,000→紀伊和歌山376,000(+151,000)
藤堂高虎
伊予板島80,000→伊予今治200,000(+120,000)
堀尾忠氏
遠江浜松120,000→出雲松江240,000(+120,000)
武田信吉(徳川家康五男。甲斐武田家の名跡を継ぐ)
下総佐倉40,000→常陸水戸150,000(+110,000)
加藤嘉明
伊予松前100,000→伊予松山200,000(+100,000)
奥平家昌(徳川家康長女亀姫の長男)
無禄→下野宇都宮100,000(+100,000)