階段を降りて靴をはきかえ、学校裏の林へどんどん進んでいく。西に傾き始めた日が空を茜色に染めはじめた頃、僕は談笑部部室前にたどり着いた。
さて、ここまで来たものの、これからどうしようか。さっき部室に入っていった生徒は女性みたいだったけど、もし彼女一人しかいなかったらどうしよう。
いや、そもそもここは『談笑』部なのだ。一人で談笑できるわけがないじゃないか。だいたいそれじゃ談笑とは言わないし。それに部活動として成立しているわけなのだから、少なくとも3人は部員がいるはずだ。それが学校の規定だったはず。
うーん、いつまでもこうしていても仕方ない。とにかく中に入ってみよう。インターホンはなさそうだ。ノックでいいのかな? こんっこんっ!
返事がない。聞こえなかったのだろうか? もう一度叩いてみよう。こんっこんっこんっ! やっぱり何の返答もない。ドアノブに手をかけてみる。ガチャ。あ、開いてる。
「し、失礼しまーす」
小屋の中に入って、まず最初に気付いたのは、甘い、バニラみたいな匂い。濃厚だけどシルクのように繊細できめ細かいその香りに頭が少しくらくらした。
心なしかその空間までもが白く色付いて見えた、というのは少しおかしいかもしれないが、なるほど確かに、この部屋は白かった。壁紙、天井、本棚、机、椅子、そこにある全てが真っ白だった。
しかし一点だけ、部屋の中のごく一部だけ、そこだけは違った。
黒い。
まるで世界でそこだけが光を失ったかのように……いや、それではどこか語弊がある。まるで……そう、まるで、そこだけが闇を手に入れたかのように黒い。
そんな真っ黒な髪の毛を鬱陶しそうに右手で弄びながら、左手でパソコンのキーボードをカタカタとリズム良く弾く少女が、部屋の隅に置かれた机に向かって腰掛けていた。
後ろ姿だから顔は見えないけど、制服からしてやはりうちの生徒みたいだ。彼女はテーブルに置いてあるコップを掴み、この匂いの元であろう何かを一口飲み込む。そしてなんと、こちらを振り向くこともせず、急に喋りだしたのだった。
「……やはり、来たか」
「!?」
「いずれ君がここに来ることはわかっていたよ」
「あの……」
「まず初めに、幾重にも結界が張り巡らされたこの森を無事切り抜けてきたことを褒めてやらなくてはな」
け、結界!? この林にそんなものが……全く気づかなかった。ここは一体……
「は、はぁ」
「そして、用件は、聞くまでもないな。……加わりたいのだろ? 我が支配下に入れば何かと融通がきくからな。ふふ」
……そ、そうなんだ。この人、そんなに凄い権力を持っているのか。談笑部、なめてかかるととって食われるのはこちらのほうかもしれない。
「いえ、あの、僕は普通に」
「……なに、違うだとっ!? そうか、なら残る理由は一つしかない。これが欲しいのだろ、ふふ」
え、ちょ、なに? なにこの展開? どういうことですか? 「これ」ってなに? 普通に入部しようと思って来ただけなんですけど……
「欲しければ力ずくで奪ってみろ……さぁ、始めようじゃないかっ! 己の持てる全ての力をぶつけてみよ! 今宵の我が魔刀は血に餓えておるぞおおぉ!」
「…………」
そこで彼女は一息つくとまた飲み物を口に運ぶ。そしてまた、
「いずれ君がここに来ることはわかっていたよ。まず初めに、幾重にも結界が張り巡らされたこの森を…………」
さっきと全く同じ言葉を繰り返し始めた。な、何なんだこの人……どうやらさっきの台詞は、僕に向けて言ってたわけじゃないみたいだ…………何で返事してたんだろう、僕……紛らわしすぎる…………
よく見ると彼女は耳にイヤホンのようなものをはめこんでいる。これではこちらの声が聞こえてなくても仕方ない。しかし、このままでは拉致があかない。
「すみませーん」
「欲しければ力ずくで奪ってみろ……さぁ、始めようじゃないかっ! 己の持てる全ての力を…………」
「すみませーんっ!」
「……っ!?」
びくっと彼女の肩が微かに震える。どうやらこちらの存在に気付いてもらえたみたいだ。そしてゆっくりと振り向いたその顔は……見紛うことのないくらいに美少女だった。
目の上でパツンと揃えられた前髪、頬を朱に染めながらもその力強さを失うことのない黒い瞳。上背はそれほど高くないが、すらっと伸びた手足にほっそりとした腰、見蕩れてしまうほど綺麗な体躯。肌の色はその髪の毛の色とは対称的に透き通るような白。完全な美少女だった。
「えっと、その」
「……のか?」
「え?」
「今の、聞いてたのか?」
「…………」
「…………」
ま、まずい。確かに今のは人には聞かれたくない! 林の中にある小屋にこもってわけわかんない台詞を何度も繰り返し復唱してるところなんて、もしそんな姿を人に見られたら……僕なら間違いなく自殺の道を選ぶだろう。
とにかく、なんとかして話の流れを変えないとっ! このままじゃこの人が証拠隠滅のために僕の命を消しにかかってこないとも限らない!
「……え、えっと、その、ここは談笑部の部室であってるんですよね?」
「……入部希望者か?」
「いえ、まだ決めかねてますが……」
今ので完全に入りたくなくなった、とは口が裂けてもいえない。というか、もし仮にそんなことを言ったら、この人に僕の口を裂かれることになりそうだ。
「……そうか、新入部員か。考えたこともなかったな、うん。一応ここにも学校の部活動というルールは適用されているわけだからこうなる可能性はあったわけだ。私としたことが…不覚だった」
何か物凄く落ち込んでる。いやまぁそりゃあんなところ見られれば誰だって落ち込むだろうけど……その後数分にわたり、うんうん唸り続けた彼女の口から出た言葉。
「君、名前とクラスは?」
「……し、霜月 氷柱です。霜に月、氷の柱と書いて氷柱。クラスは1-Cですけど」
その後また少し考えるように小首を傾げる女生徒。知的な印象とその仕種がぴったりマッチしてとても魅力的だった。と、思えたのだろう。さっきの事件さえなければ……
「よし、決めた!」
「何を、ですか?」
「君の入部を」
「……え?」
「君、鞄をよこしなさい」
「ちょっ……」
有無を言う暇もなく鞄を奪い取られてしまった。
「入部届けの記入用紙はっと……お、あったあった! 名前とクラスは、1-C 霜月 氷柱と。入部希望は『談笑部』と。よし、あとは……サインか。君、ここに名前を書いてくれ。」
「えっと、その、僕まだ入部するとは……」
「却下。君の入部は決定した。というより確定した」
「な……! 何であなたが勝手に決めてるんですかっ!?」
彼女はぴしっと人差し指で僕を指し示しながら嫌らしい笑みを浮かべる。
「そんなの、決まってるだろ。さっきのを見たからだよ」
「そ、それとこれと何の関係があるっていうんですかっ!」
「君がこのことをばらさないように私が見張るためだよ」
「誰にも言いませんよ!」
「ダメだ。別に君のことを信用できないわけじゃない。もし仮に君を放っておいたとしても、君は誰にも話さないだろう。だが私と君は初対面。まだ信頼できる関係にはない。だから私が君を信頼できるようになるまで、君にはこの部にいてもらうことにする」
「そんな……」
「ということで、ここにサインしなさい」
そんなの無茶苦茶だ……何でこんな危ない先輩がいる部に入らないといけないんだ。それに、この部って……
「嫌です」
「何で?」
「この部の部員は何人ですか?」
「質問に質問で答えるのは卑怯だぞ」
「いいから……何人ですか?」
「……私一人だが」
「つまりは、そういうことです」
「?」
彼女は顔に「?」を浮かべ本当に意味がわからないというような目でこちらを見てくる。
「独り言は談笑とはいいません。僕はそんな危ない部には入りたくないです」
彼女は納得したように手をぽんっと叩き破顔した。くっ、口論の途中でこんな笑顔を見せるなんて卑怯だ。攻め入るスキが見つからない。
「うん、なるほど。君の言うことはもっともだ。ただし、何点か間違いがあるけどね」
「どういう……ことですか?」
「まず第一に、私のさっきの言葉は独り言ではない」
「え?」
「これだよ」
そう言って彼女はマウスをカチカチっと操作する。そしてパソコンのディスプレイを指差し、僕にそれを見るように促す。画面には、黒いマントを纏った女性と、勇者のような格好をした男性がアニメ調のCGで描かれていた。
そして、再生ボタンをクリックすると、画面の下のほうに吹出しが現れ、それをなぞるように音声が流れ出した。
『……やはり、来たか。いずれ君がここに来ることはわかって…………』
「こういうことさ。つまり、私はゲームに使う音声を録音してたんだ」
「え……」
いまいち状況が理解できない。
「ようするにだ、このゲームのこのキャラ、黒いマントをつけているキャラの声優を担当しているのだよ。この音声データを知人のパソコンに送信して、そいつがゲームに声を組み込むってわけだ」
「せ、声優?」
「そう、声優。おっと、勘違いしないでくれよ。別にこれは私の本業じゃない。たまたま知人に頼まれてやっているだけだ。もちろんこのゲームも公式のものじゃないよ。同人ソフトだ」
「そう、だったんですか」
驚いた、こういうゲームは引きこもっていた時に何作かプレイしたことがあったが。まさかこんな身近に同人ゲームのネット声優をしている人がいるなんて。
「ちなみに他にも色々やってるぞ。例えば絵を描いてみたり、歌を歌ってみたり、写真のモデルになってみたり、商品の宣伝をしたり、捜し物をしたり。とにかく、私は頼まれたことをしないことはない」
何だか、この人、ほんとはすごい人みたいだ。マルチな才能を持ち合わせた美人、なんて現実に存在するんだなぁ。と、危うく感心させられそうになってしまったが本題からそれている。
「じゃあ、別にさっきのことを話しても問題はないでしょ! もちろん、そんなことはしませんけど。それに、部員があなた一人であることにかわりはないじゃないですか!」
「ん、何か問題があるかな?」
「も、問題って……」
「そもそもだ」
そう言って彼女はまたコップを手にとり飲み物を口にする。
「君は『談笑』といえばどういうものを思い浮かべる?」
「そりゃあ、数人、二人以上で同じ話題について心置きなくおもしろおかしく語り合うことじゃないんですか?」
「うむ、概ね合ってるよ」
「じゃあやっぱり──」
「君が間違っているのはそこなんだよ」
「それってどういう……」
「『談笑』が、『二人以上の人物が、同じ空間に同時に存在しないとできないもの』だと誰が決めたんだい?」
「え?」
そこで彼女はパソコンの上にぽんっと軽く手を置いて、愛しげに優しく撫でた。
「こいつだよ」
そこで僕はやっと合点がいった。そもそも、もっと早く気付いてもよかった。いや、毎日チャットをしていた僕だからこそ気付くべきだったんだ。
「インターネット、ですか」
「うん、正解だ!」
彼女は今日一番の笑顔でそう答えた。屈託のない笑みに思わず心臓がドキドキする。そして、この胸の高鳴りは決してそのことだけに対してのものではなかった。
何か、物凄い世界に自分が入り込んでしまいそうな、そんな感覚に襲われたのだ。まるで不思議の国に迷い込んだアリスのように。
「チャットだよ」