父が、ついに逝ってしまった。1/24、84歳だった。
 
もう、私のことを認識する訳でもなかったのに、老人介護保健施設で、起きて食べて出して寝るだけの毎日だったのに、面会も月1回、30分会えるだけだったのに、それでも寂しい。
 
父が生きていたら、「こんな状態で生かしておくなよ!」と激怒しただろう。私だって、自分だったら嫌だ。それでも、ただ生きて温かい体で存在してくれているだけでいい。そう思うのは私のエゴだったけれど、それだけ父のことが大好きだということでもある。最期までそんな気持ちにさせてくれた父には感謝しかない。
 

 

親が亡くなった直後から、悲しむ間もなく押し寄せる山ほどのタスクの一つに、遺影のための写真探しがある。随分探したけれど、結局この、温泉宿でアイスクリームを目一杯よそって嬉しそうにしている写真を選んだ。これが一番良い笑顔だったから。

 

 

今年は、年始に起きた能登半島地震に始まって、公私共になんて年明けだろう。

正直、まだまだいつもの気力が出ない。でも、後でしみじみと振り返るために、この半月に起きたことをしっかり書き留めておきたい。

 

 

父が脳梗塞で倒れたのは2020年2月末。あれから約4年、本人なりに頑張って回復もしたけれど、脳梗塞が再発してからはどんどん衰えていった。去年末に老健で面会をした時も、殆ど目を開けることはなかった。でも、握った手をくすぐってみると眉間にしわを寄せて顔をしかめるのが面白くて、何度もやってみた。

 

1/12、誤嚥性肺炎等で急激に具合が悪くなり、横須賀の病院に緊急搬送された。多臓器不全で危篤状態と言われ、HCUに入ったのでもうダメだと思ったのに、私は家に帰されたので驚いた。危篤状態にも幅があるらしい。その後じわっと回復して一旦一般病棟に移るまでになったので、去年のコロナ禍での脱水症状の時と同じ様に、父なら蘇ってくれるだろうとちょっと楽観視。家での待機状態を解除して、私の生活も元に戻した。

 

1/23、奇しくも同じ「齋藤さん」という名前の担当医師の話を聞きに病院に行き、今後のことを話し合った。呼吸は良くなったけれども腎臓の数値が良くない、元に戻っても誤嚥性肺炎は繰り返すのでもう経口の食事は難しいだろう、でもダメ元でリハの先生に相談しよう、もしダメでも父の意思で胃ろうはやらない、だったら看取りはどこでするか…云々。最期は老健ではなく、我が家で看取ってもいいかも、その場合はどういう体制を組むのか、そんなことまで相談していた。

 

その日の夜遅くに、「血圧が下がった」と再度呼び出し。電話口で、危篤だから病院に居させてもらえると言われて、念のため泊まれる様な支度をして病院に着いたら、「血圧が元に戻ったから家に帰ってくれ」と言われてビックリ。コロナ禍オペレーションでは本来面会は15分だけなのだ。

 

もう電車も無いし、帰りたくない、これで何かあったらどうするんだと後ろ髪をひかれながら、ヨレヨレとタクシーで帰宅。

 

結局寝たのが2時過ぎでその後爆睡。4時半頃にまた電話で起こされたが、スマホの画面を見て血の気が引いた。なんと3時半から電話はガンガンかかってきていたのに、私が疲れ過ぎて起きられていなかったのだ。その間に2番目の連絡先になっていたおサルにも電話がかかっていて、おサルから私にも山の様に電話がかかってきていた。おサルは、翌日は添乗の仕事だが、今既に病院に向かっているという。

 

慌てて取るものもとりあえず病院に向かったが、私の方が家が近いのでおサルも私も殆ど同着。そして、着いた時には既に、父は息を引き取っていた。母の時は看取れなかったので父の時は必ず・・・と思っていたのに。なんたる間抜け。おサルには、「きっと、最期苦しんでるところなんて見てるだけで辛いから、おじいちゃま的には見なくていいよ、寝てろってことだよ」と慰められた。

 

そんなおサルは、私が先に起きていたら病院に来ることはなかった。無理やり前向きに、父が最後に呼んだのかな、と思うことにした。5時半、当直医師による臨終の儀式を二人で見守った。

 

病院にとっては、父は患者の一人でしかない。体のお清め、着替えなどが手際良くさっさと進められ、看護師さんは申し訳なさそうに私に葬儀社リストを渡した。逗子は1社しか載っていなかったので迷わず電話をして車を手配。おサルを添乗出勤に送り出し、公私の関係各所へ連絡。昨年の母に続いて立て続けなので、皆とても心配してくれた。私も自分で心配だったけれど、悲しんでいる暇がないくらい、考えなければいけないことも、やることも、沢山あった。

 

8時過ぎに病院に迎えに来てくれた葬儀屋さんの車に一緒に乗り込ませて頂き、逗子に一緒に戻った。

こういう時こそ・・・と運転手さんに「音楽をかけていいですか?」と聞いたら「どーぞどーぞ」と言われ、車中で父の大好きだったカントリー&ウェスタンをかけた。老人介護保健施設でも、病院でも、ずっと聴けなかったもんね。「もっと、音量を上げていいですよ」と優しい言葉をかけてもらった。

 

逗子の葬儀屋さんは、おサルの保育園の通園で毎朝毎夕前を通っていたところ。あの時は、まさか自分がお世話になる日が来るなんて思わなかったけれど。

 

私の担当になってくれた方は朴訥として、絶妙な距離感で、フランクで温かみのあるコミュニケーションを取る人で、助かった。家族葬に決めたが、この時期はとても混んでいるそうで、父を長く待たせることになってしまった。体が傷むのが心配なので、待っている間は冷蔵庫に入ってもらわねばならない。

 

そこで、亡くなった初日だけ、霊安室で夕方まで父と過ごさせてもらった。ソファのあるこじんまりとした部屋で、近所に住む、父のことを良く知っている私の朋友Aが駆けつけてくれ、二人でしみじみ話しながらお線香を灯し続けた。Aはものすごい美人で、父が大好きでフルネームで名前を憶えており、「Aは元気か」と時々聞かれていたくらいだったので、これまた父が呼んだのかもしれない。

 

Aが帰って父と二人になってからは、父の髭を剃ったり、髪を切ったりして整えた。鼻毛も気にして時々手入れをする人だったので、同じ様に整えようとした。でも、上手く切れないので、出ている分は全部引っこ抜いた。生きていれば1本だって涙が出る程痛いはずだけれど、もう大丈夫よね~、ごめんね~と声をかけながら。

 

お通夜は1/28(日)、告別式は1/29(月)だった。それまで父のことだけをやるのも辛いので、気分転換も兼ねて半日ずつ仕事をした。

 

お通夜の日も告別式の日も、数時間前から来て良いと言われたので、誰も来ない間は父の大好きな音楽を大音量でかけ続けた。和風の葬儀の支度がされている部屋に、バンジョー速弾きのブルーグラスをかけていたら、後から来たおサルが、「なんでディズニーランドみたいな音楽がかかってんの?自由過ぎるだろ!」と大笑いしていた。でも、吉田拓郎をかけてみた時は歌詞が沁みて、余りに泣けてしまって困った。

 

 

棺の中に入れるものも、あれやこれやと集めたら大量になった。果物に、大好きだった肉まんやあんまんに、お酒のおつまみに・・・人の3倍は食べる人だったので、ここ4年間の食事ではさぞお腹が空いただろうと思ってね。本当はアイスクリームも入れたかったが我慢。本も大好きで活字中毒だったので、文藝春秋100周年記念号も。料理をする人だったので料理本も、絵を描く人だったので色鉛筆や画用紙も、西洋画集も。分厚い本は空気を入れて燃えやすくする様に、少しずつページを折って入れる様にとご指導を頂いた。

 

 

お経をあげて下さったのは、昨年お墓を造った鎌倉上行寺の野中お上人。お通夜の時、お経をあげ終わった後にお上人が

 

「お父様は、お世辞を言うのも言われるのも嫌いな人だったみたいだね。後は、『積極』と『譲る』の両方を持っている人」

 

と言われたので驚いた。私は何も説明していなかったのだけれど、まさにその通りの人だった。

 

 

 

私も、そういう気質を父から引き継いだと思う。私の人生観も、人間観も、仕事観も、多分に父の影響を受けている。父は歴史、政治など社会のことに熱心で、勉強を続けていて、訓戒めいたことを随分言われたものだ。

 

「無愛想は犯罪だ」

「孤独を恐れるな」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

 

上司の愚痴を言ったら

「どうしてもダメな上司だったら死んだフリしてろ。どうせいずれは替わるんだから短気は起こすな、その間に勉強でもしてろ」

 

私は真面目でも親孝行でもなく、随分自分勝手な娘だったけれど、少しくらいは父から学んでいると思いたい。

 

 

火葬場は、昔からお化けが出ると有名な小坪の火葬場。学生の頃、心霊スポットツアーに行こう、と大騒ぎしていたものだが、ついに本当にお世話になることに。

ただ、葉山・逗子・鎌倉の3市町を全て引き受けているそうで、相当込み合っており、何でも特急で進んで行った。家族がお骨を拾うのも、なんと一度だけ!後は係の方がざざーっと骨壺に入れていった。そうと知っていたらどの骨を拾うか、もっともっとじっくり選んだのに・・・将来、小坪の火葬場を使われる可能性のある皆さん、お気をつけて下さい。

 

 

父の骨は、骨壺にギリギリ納まるくらい、量が多かった。この4年間は栄養摂取量を絞っていたので、さぞ骨も脆くなっているだろうと想像していたのだけど。超のつく早歩きでどこまででも歩いていく健脚だったからか、骨太体質は最期まで健在だったようだ。

 

ちなみに、火葬料は現金で納めると聞き、前もって用意しておいたはずが、現地に着いた時に何処にやったか全く記憶が無くて慌てた。おサルに「今お金ある?」と聞いたら「奇跡的にある!」というので借りて、私の財布の中身もかき集めてなんとか払い終えた。家に帰ってから何処にやったんだろうと一通り探してみたら、お寺様にお通夜の時にお渡ししたお布施と一緒に渡してしまっていたことが、後から頂いた領収書で判明した。告別式の時にもお渡ししようと思ったお布施を「そんなに頂く訳にはいきません」とお断りされてしまったのだが、結果的にちゃんと納めさせて頂いた様で良かった。おサルは、後になって「普段、あんなに現金を持っていることは無いからホントに奇跡だよ」としきりに言っていた。

 

 

父の葬送記はここまで。

 

 

ここからは、父を偲び、父の人生を写真で振り返ってまとめてみたい。

父の病院の呼び出しを待っている間、他のことをする気力が湧かず、実家から引き取ってきた山の様なアルバムの写真をひたすらデジタル化していたのでね!

 

 

父は、1939年、東京にて、呉服屋の齋藤昇と石屋の娘であったきよ子の元で、2人兄弟の次男として生まれた。

いずれも、右側が父。

終戦近くは埼玉に疎開していて、食べるものにとても困ったそうだ。その経験から、食べ物を頂けることに感謝しないこと、粗末にすること、好き嫌いを言うことは絶対に許さなかった。

アルバムの中には、学級委員の任命証が何枚もあった。私自身、小1から高3まで学級長をやらなかったことは無いけれど、それは父譲りだったみたい。父はそんなことは一言も教えてくれなかったけれど、密かにニヤニヤしていたのかも。

中学高校時代は化学研究部だったらしい。

高校時代の皆勤賞の賞状も見つけた。私は中学が皆勤賞。丈夫な体のDNAもバッチリ引き継いでいる。

大学では広告学研究会に入り、葉山の長者が崎の大浜海岸で、「キャンプストア」と称した海の家の運営をやっていた。長い合宿生活の中で、唯一生野菜サラダを作ることが許されていた、清潔な人だったとのこと。あだ名は「チャカ」、せっかちなのでそう呼ばれていた。

木登りの写真は、一番下が父。こういうおサルの様な男子達のはしゃぎっぷり、いいよね。

中学から大学時代の友達とは、おじいちゃんになっても定期的に一緒に旅行に行く程仲が良かった。

「友良」(ともよし)の名の通り、良き友に恵まれ、友を大事にしていた。

 

 

昔のアルバムには、ウクレレやギターを弾いている写真も結構あった。ギターが弾けるだなんて知らなかったけれど、ウクレレは大橋節夫の孫弟子だと自称していた。

海岸やプールにまでウクレレを持ち込んでいるなんて、ちょっとキザッたらしい。加山雄三や石原裕次郎などの影響もあって、そういうのが流行っていたんだろう。
私の音楽好き、海好きのDNAも、まさに父から。そんなことを野中お上人にお話したら、戒名に「海」と「音」の字を入れて下さった。しかも、「音」は母とお揃い。自分が亡くなって、1年以内に父を呼びに来た母と一緒に、きっと喜んでくれているはず・・・と勝手に思うことにした。
こんな写真もあった。実は脱ぎキャラだったのか?
海に音楽にと一緒に遊んでいる友達の会社の同僚だったのが、母。二人のデートにも海と音楽が欠かせなかったみたい。
母は「私はモテた」と自慢していたので、父もそれなりに頑張ったのだろう。めでたくゴールインして・・・
新婚旅行は宮崎へ。
この写真はなんとなくおサルに似ている、(ウォーリー+トライくん)÷2てな感じ。でも、優しそうな風貌の様でも、確固たる自分を持っていて、時々激しい人だった。
なのに、新婚時代から既に、母に振り回されていたみたい・・・こちらは「女性自身」の取材を受けた新婚生活の1シーン。
そりゃ無理な話だわ。後年、母も諦めがついたのか、「ほら~お父様、加山雄三さんに似てるでしょう?生え際が」とかましていた。
 
1967年、兄が誕生、1971年、私が誕生。
この頭ぐちゃぐちゃな、朝青龍みたいなのが私。
既に、この頃からふてぶてしく図太いムードを醸し出している。
 
私は、全然優しくなかった兄の仕打ちに耐え、転校によるイジメをくぐり抜ける度に凶暴化していったので、母はなんとか自分の様に女らしくなって欲しいと願い、「由里子ちゃん、女性の幸せは男性にいかに可愛がられるか、なのよ」と常々言っていた。
 
でも、父は違った。私には「女性らしく」などではなく、自立してしぶとく、したたかに生きることを望み、私はその期待には十分応えた。
父自身も、高度成長期を支えた企業戦士の一人として、仕事に打ち込んだ。
工業機械を売る営業マンで、アジアや北欧を飛び回っていた。
でも、母が病弱だったので、仕事も激務だったはずなのに、家のおさんどんも引き受け、私の女子校のイベントにも、PTAにも、フットワーク良く一人で乗り込んでいた。以下の写真は運動会に来てくれた時のものだが、自分で作ったお弁当をほおばっている。

当時、PTAは母親が出るのが普通で、男性は一人だったので父は有名人だった。友達の家に遊びに行くとその家のお母さんに「お父さん、いつもお仕事でお忙しい中頑張っていらして、あなたのことを自慢して帰られるのよ。素敵なお父さんね!」と言われて半分恥ずかしく、半分嬉しかった。
 
それが、当時の企業戦士の中でどれだけ珍しいことだったのかを知ったのは、社会に出て、自分が親になってからだった。
 

病弱な母や、一筋縄ではいかない兄に苦労した分、私と父は同志の様に仲が良かった。毎週末の食品や日用品の買い出しも、夏に海に遊びに行くのも、一緒に出掛けた。父が建てた家は、急な坂を上らねばならない葉山の山の上にあって、何処に行くにも遠かったが、父はペーパードライバーで、とにかく歩くしかなかった。父は私を甘やかさず、買った荷物を運ぶ時は、私に根菜やお米を持たせた。海で遊ぶ時には、大人4人乗りのゴムボートをオールにぶら下げ、私が前、父が後ろで、おサルの籠屋の様にエッサホイサと一色海岸まで片道30分以上の道を担がされたりもした。

私が嫁に行って家を出てから間もなく父も引退し、母と二人で、あちこちを旅した。ヨーロッパが好きで、随分出掛けた様だ。
夫婦生活は難しいことも山の様にあったはずだが、アルバムの中に第二の新婚生活の様な軌跡を見つけることが出来て、私もとても嬉しかった。
 
私がシングルになってからは、私が出張などの時には、おサルの面倒も随分見てもらった。我が家の場合、こういう時に頼るのも、母ではなく父だった。父は何でもできる人なので、本当に安心だし気を使わなくて済んで、助かった。
 
父は我が家に来て、泊りがけでおサルの面倒を見てくれたのだが、より健康になる様に・・・と山ほどニンニクを入れた料理を作り、おサルに山ほど食べさせた。私が後から帰っておサルの寝ている部屋を覗くと、部屋が余りにニンニク臭くて倒れそうになった。
食事中には「リンゴが赤くなるとお医者さんが青くなる」なんてドイツの格言を教えたり、杜甫や李白の漢詩を説明したりして・・・私の時同様、余りに子ども扱いをしないので、おサルは聞き流すことが上手くなった様だ。
おサルが大きくなってからは、年末一緒に温泉に行くのだけが家族の恒例行事だった。冒頭の遺影も、その時の写真だ。
 

父が、毎年10/1に気合を入れて宿を取ってくれ、2泊して大晦日に別れるのがいつものスケジュールだった。

私が12/30に宿で年賀状を書きあげ、それをポストに投函しに行くのに父に付き合ってもらい、二人でああだこうだ話しながら散歩をしたものだ。途中でアイスクリームを食べられるところがあると、必ず立ち寄った。

その間、母とおサルは部屋でゴロゴロしているのがお約束。でも、父が75歳を過ぎてからは、昔転んで割ってしまったひざのお皿が古傷になり、歩くのが辛くなって、段々一緒に行けなくなってしまった。

余りの髪の毛の無さに剃り上げた頭はずっとピカピカで、時々道端でお坊さんに間違えられて拝まれると言っていた。2019年末、父が80歳の傘寿のお祝いにと、私が初めて奢った温泉旅行が、父が元気だった、そして家族で行った最後の温泉旅行となった。

 

このツーショット写真はその数年前に撮ったものだけれど、父と私の関係性、二人のムードををよく表していると思う。父と娘というより、師弟の様だ。信頼関係は強かったものの、私も無精で忙しく、殆ど電話をかけることもなく、ベタベタする様な父娘関係ではなかった。
 
 
実家からアルバムを引き取ってきた時、葉山の実家のダイニングで使っていた、父と母が座っていたひじ掛け椅子も一緒に引き取ってきた。家に置いてみると思った以上に部屋にしっくり馴染んで、まるで二人が居てくれるみたいで落ち着く。生きている間には全然会わなかったのに、むしろ面倒くさく思っていたのに、死んでからこんなに恋しくなるとはね。
でも、1/29に告別式が終わって帰って来た時、片方のひじ掛け椅子の座面にひびが入っていた。
恐らく、倉庫みたいな部屋からいきなり太陽がガンガンあたる部屋に出してきたからだろうと思うけれど、父の死と符号している様な気もする。もう少し落ち着いたらしっかり直して、大事に使うつもり。
 
 
そんな訳で、怒涛の1月も終わり。
最後に、今月、私の心の栄養になったもの。
 
 
父の実家のお墓参りの後の、おサルと、朋友Eとの恒例行事。この時は、まさかこんな展開が待っているとはつゆ知らず。

父が亡くなったので、仕事や旅行など、幾つかの用事はキャンセルせざるを得なかったが、自らがキャリアコンサルタントとして主宰しているイベントだけは無事に決行できた。神様と父の差配に感謝。

 
父が倒れてからのこの4年間は、自分がいかにファザコンかということを思い知った時間でもあった。
今日で、父が亡くなってちょうど1週間。いつも以上に長いこのブログを書いて、少しだけ気持ちを整理できた。
心優しいおサルも、友達も、同僚も支えてくれている。
まだまだここから、やることは沢山あるけれど、父のためなら頑張れる。
 
こんな状況の私ですが、今年も1年間、どうぞよろしくお願いいたします。