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between two stools

between real and fake

毎日書いてみようと思う、などと言いましたがなかなかそうもいきません。
この前書いた2回分は休日に電車の中で書きましたが、平日は眠たいのでなかなか文章を書く気になれず。
でも今日はいろいろ頭の中が渦巻いているので吐き出したいと思います。



独り身になって過ごしているのが落ち着いてきて、別のステージに入ったような感覚があります。変な気分です。親が良くしてくれてるのでしんどさはないのですが、うっすらと、後ろめたさなような感覚がずっとある。恥ずかしい、というような気持ちもあります。

つまり、なんとなく不幸せな感じなのです。
また結婚したいな、ということはまだないのですが、ここは居場所ではないな、という感覚はあります。もともと仮の実家暮らしのつもりではありましたが、なるべく出れたらいいな、という気持ちになってきました。

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最近、ある一つのことに囚われています。囚われている、って英語で何ていうのかな。そういうジャズスタンダードはたくさんありそうだけど。取り憑かれていると言ってもいいです。
自分は良く取り憑かれます。これは習慣というかクセだと思います。
これだ!と思うとそのことばかりになって、他を捨てようとします。
雑にいえばバカなんでしょうね。盲信してしまう。

いまは、とにかくそのことしか考えられない状況です。恥ずかしいので具体的には書きませんが。

そう、数日前に描いた「気持ちの持続性」の問題です。自分の一生のテーマなんだな。これ。

このことを誰かに相談したいけど、相談できません。悲しきかな。友達はいっぱいいるのにね。

いったん眠ります。

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朝の特急で死んだように眠りました。

夢の中でも同じ特急に乗ってて、
隣にはなぜか森七菜が乗ってました。
後ろの席では小中学校の同級生の小竹くん(別に仲良くなかった)がスノボに向かっていました。
夢の中でも眠くて、目を開けたくても開けられず、一種の金縛り状態でした。

さすがに終電帰りで朝7時の電車だと、身体にこたえてくる。
これから1件、法廷で仕事です。


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法廷前に時間があるのでドトールでコーヒーを飲みます。
今日はこの実況スタイルでいきます。

そういえば前回のブログタイトルにした「パラサイト」、トラウマ級の最高の映画でした。
メンタルズタズタにされて頭痛がしました。そういう映画を待ってました。素晴らしい映画は現実に侵食してくる。つまり虚構が現実を侵食する、この体験が芸術の1つの醍醐味だと思います。そうして現実に感染した虚構は、もはや現実の一部です。こうして芸術は、社会の、人の、構成要素となり得るわけです。

今でもあの映画の登場人物のことを思って胸が痛みます。映画でなくてドラマでも漫画でも歌でも、同じことが起こります。
パッと国内のもので思いつくのは、ドラマなら坂元裕二の「最高の離婚」、漫画なら石黒正数の「下天楼」、歌なら堀込高樹の「一度きりの上映」、いずれも登場人物やその世界に、ふと思いを馳せてしまいます。
自分の演奏で人にそんな体験をさせる、というのは1つのゴールな気もします。

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不倫を認めた東出昌大の事務所のコメントが批判されてて、一番つらいのは奥さんのほうだ!とか言われてるけど、結局は他人事なのになぁ、と思う。ニュースには完全な他人事と、そう思ってはいけないことがある。
不倫とか家族がらみのスキャンダルは完全に前者で、もともとが消費されるためのネタとして書かれている記事である。それに対していちいち憤ったりするのは違うと思うし、ニュースとしての価値は低いからもっと別の話題をやるべきだと思う。
当然だけど、政治がらみは後者だし、とある事件であってもそれに対する公権力のあり方が問題になっている場合は完全に後者になる。伊藤さん事件とかは典型的にそうだ。
単なるゴシップと、そうでないものをまず見分けたうえでコメントしてほしいものだ。

ちなみに当事者として思うことは、夫婦問題、離婚問題は多面的すぎて、一部の目立った事象だけを切り取っても、当事者の感情とか実体には迫れないということ。機微がありすぎる。
一部の目立った事象だけから人を断罪したり擁護するのはやめておくべきだし、慎重になるべきだと思う。というのは思考停止なのかもしれないけどね。

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韓国映画のパラサイトを観に行く。
いい年して実家で暮らしている今の自分もパラサイトと呼ばれるのかなと思ったりした。

 

「みんな愛の歌に背つかれて
与えるより多く奪ってしまうのだ」

と堀込高樹が「drifter」で言っていることの真意はわからないが、自分には心当たりがあり過ぎる。
なるべくなら今後一生、人を傷つけないで生きて行きたいと思っていたのだが。
自分の気持ちに正直に行動するとそれが不可能だ。

「心が割れる音 聴きあって
ばかだなぁって 泣かせあったり
つけた傷の向こう側 人は笑うように」

と星野源が「くだらないの中に」で歌うように、
傷の向こう側で、本当に笑ってくれるだろうか。

同じく星野源は「Family Song」で、

「ただ幸せが 一日でも多く側にありますように
悲しみは 次のあなたへの橋になりますように」

とも歌っている。ここでも「幸せ」は永遠でないことを前提として歌われている。1日でも長く続くに越したことはないのだが。

同曲のラストでは、

「涙の味は 次のあなたへの橋になりますように
遠い場所も繋がっているよ」

と歌われている。「遠い場所」は「次のあなた」がいる場所のことを言ってるようにも聞こえるけど、自分は「人は因果から逃れらない」ことを歌っているように思える。
過去の経験の全て、昔に共にいた人、全ては現在にリンクしている。いい意味でも悪い意味でも。

離婚なんて良くあることだけど、やっぱりこれはこれで取り返しのつかないことなんだな、と改めて思う。というか取り返しのつくことなんて、なかったことにすることなんて、人生ではできないんだな、と。

前出「drifter」では、

「お金が全てだぜと 言い切れたなら
きっと迷いも失せる」

とも歌われている。
「お金」の対立概念は「情け」だろう。
情に囚われるから、人は迷う。

次に進むには、まだ時間を置いた方が良さそうだ。ゆっくり引き篭もって、しばらく心の旅をしていたい。
それまでにおばあちゃんは元気でいてくれるかな。

今日は10時半の電車に乗らなきゃいけなかったのに11時半に起床しました。こんな大寝坊したのは数年ぶりです。
離婚して実家に戻ってきてまだ間も無く、往復4時間の通勤をする生活にまだ慣れていないのかもしれません。あとは、朝になっても全く明るくならない部屋の環境とか。

ここ半年間で、妻との別居、離婚と人生の転機があり、そのなかで、「気持ちの持続性」というものが1つのテーマになっています。

「気持ち」というと曖昧だけど、少なくとも「感情」ではない。「意志」に近いけど、理性でコントロールできない部分だから、少し違います。

結婚とは、この人と共にいたいという気持ちが永続することを前提にしたシステムであるはずだけど、実際にそんな一貫した「気持ち」であることなんてあるのでしょうか。

それでも、5年間弱はその気持ちが途切れることなく続いていた、というだけで、なかなか貴重なことだったように思えてしまいます。

親は次の人が見つかることを期待しているようだです。でも次は、自分の気持ちに一番に向き合って、決断したい。

自分はおそらく、気持ちが続きにくいタイプです。何事もです。一生!と思っても数日後には変わってしまうことがあります。そういうものと出会ってないだけなのかもしれないけど。

違うかな。続きにくいというより、「一生!」と思い込むのが早いタイプかもしれない。裏を返せば、飽き性で、答えを出したがりで、安易なところがあります。

そんな自分の人生に他人を巻き込んでしまうことに、申し訳なさを感じています。この人、前と言ってること違うな、と思われてるかもしれません。

結婚生活や離婚には色々なテーマには、切り口がありすぎて、全く総括できていません。
総括して矮小化してしまいたくはないけど、忘れたくない、という気持ちは間違いなくあります。
決して無駄ではなかったし、全部良かったと思っています。
ときどき苦しくなりますが、でもそうでなければならないと思うし、まだまだ生きていきたいです。