between two stools -6ページ目

between two stools

between real and fake

このブログのジャンルを「アラサー」にしたら、アラサーブログランキング1331位になっていた。

アクセス数。ランキング。「いいねがつきました!」。雑念である。

もっとこう、吐き出したいのだ。ただそのままに、言葉を。
でもそれは不可能だ。言葉にした途端にまず自分が読み手になる。カッコつけてしまう。

人は見られることを意識すると無意識に演技するらしい。ドキュメンタリー監督の森達也が確か言っていた。カメラが回ると必ずその人はいつもと違う行動をするらしい。完全に純粋な日常を撮ることは不可能。それと同じ現象である。

おそらく即興演奏でも同様の問題があるはずだ。
純粋な表出としての表現なんてあるだろうか。

こういう話になってくると既存の研究がありそうなのだが無教養のためわからない。

このテーマについて考えるのは疲れるし自己言及的過ぎて無意味に思えるのでしばらく書かないようにしようと思う。

**********

という文を朝書いて、今読んで、心底どうでもいいなぁと思う。
こうして僕は昔mixiで日記を書かなくなった。
自分ってなんてくだらないんだろう、と。

せっかく名前を出さないでやってるのだ。
好きなことを気にしないでもっと書こうと思う。

とりあえずここまでで公開します。




昨日はいわゆるファスティング(軽い断食)をした。朝はイチゴ牛乳、夜はコーンスープのみ。酒も当然飲まない。そしたら朝の腹の不快感が全くなく、日々おかしな食生活になっていたことを思い知る。

もともと朝飯は食べない生活だったのが、実家では祖母から味噌汁だけでもと懇願され、食卓に座るとおかずに手が伸び、結局も飯も食べてしまう。そうすると1日普通に3食。しかも夜は10時以降で酒も飲んでいた。その結果、慢性的な満腹状態。飽食の時代だ。

きちんと食べるべきという保守派と、なるべく食べないほうが良いという急進派の議論は決着がつきそうにないが、人それぞれというなら絶対に私は後者のはずだ。体を動かさな過ぎというのもあるかもしれないけど、運動量に合った量だけ食べればいいのではないかな。
腹がスッキリするまではもう少し断食して、その後も「腹が空くまでは食べない」をやろうと思う。定期的に思うのだが実践できないことのひとつ。あと、「よく噛んでから食べる」も。

**********

こうして公開のブログを書くことのメリットは確実にあるんだけど、何日かやってみて、やはり読み手を意識せざるを得ない。結局自分は自意識から逃れることはできない。このブログのことを一部の友人に伝えた、ということとは無関係である。

すなわちこのブログでは、まだ自分に向き合いきれていない。それこそファスティングをするように、腐った胃の中を全て空にしたい。人はなぜ、かくも業が深いのだろうか。




会社の関係で嫌々行ってきたセミナー。
教育論、人間関係論だけど、内容は自己啓発セミナー的でもあった。
その中で、「自己肯定感」(self esteem)と「自信」(self confidence)の区別の話があった。
両者の区別は意外と難しい。ただ現在の自分にはどちらかというと前者が欠けているのは明らかだ。

自己肯定感は絶対的。自信は相対的。という表現もできるかもしれない。
自信は差異と結果で決まるから、ズルや嘘があっても成立する。自己肯定感は騙せない。ともいえる。

自分は仕事で成果も出している。力がついてきて、1人で出来ることも増えてきた。
それでもなんだ。この疲弊した心は。

離婚してから、うっすらした罪悪感、羞恥心、その他いろいろ、集約するならば「自己否定感」にとらわれている。自己肯定感が足りない、というより、積極的に自分を責めて否定している。

離婚して苦しみから解放された。だから正しかったんだ。そう思っていた。でも少し時間が経ってから、「離婚した自分ってダサいよな」「離婚した自分は哀れに見えるだろうな」という感覚がもやのようによぎっている。

しかもこの感覚、人といるときは忘れている。そのときは自分というものに意識が向いてないからだろう。

どっちがいいんだろう。

人となるべく過ごしていたらいいのかな。
それとも自分ともっと向き合ったほうがいいのかな。
まあ答えは明らかで、どちらも必要なんだろうな。

でももう少し、人に自分のことを話してみよう。もちろん予定調和で、大抵の人は肯定してくれるし、励ましてくれる。でも、予想外の観点から有効な助言をしてくれることもあるかもしれない。

俺はこれでいいのかな。いいはずなんだけどな。
今日はよくがんばったよ。とりあえず。