ちょうど16歳の頃、アメリカの高校でアメリカンフットボール2軍で選手としてプレイしていた頃に強靭レベルのメンタルを鍛えられました。2軍は練習時間の大半を1軍選手の練習台に割かれるんです。2軍はそれでも10週間を10試合やるスケジュールあるので不満はないのですが、何せ1軍選手はデカくて体力も尋常じゃない。当時85キロの私が相手していた選手はロレンゾという体重112キロのオールスター級ラインマン。身長も180センチ以上で後に大学進学して1部リーグ(アメリカではかなりの快挙)にて活躍、暫く職業コーチもやっていた人です。

で、ほぼ毎練習このロレンゾと正面衝突伴う練習を1シーズンやっていたんですが容赦全くないのですよ。当然ケガさせない配慮はありましたが、112キロの初動と重さは実感としては毎回交通事故に会う衝撃と同じ。十代の若いころだから「これも宿命か」と思って諦めて対応するようになるのです。逃げ道がないから当然メンタルが強くなるわけです。後年彼にはメールとSNS通し、良い意味でお礼を伝えました。

 

このロレンゾから賜ったメンタルの強さがあって、後の日本での大学アメリカンフットボールや格闘技、あとはケトルベルなどのトレーニングでたいがいのことではへこたれないようになりました。メンタル強いと、例えば同じく強い人たちと意思疎通ができるようになり、様々な人たちとつながるようにもなるのです。

 

ただ弊害はこの我慢強さや強靭な意思は同時に心理的にどこか壊れているという意味でもあります。十代の頃、平日を毎回百キロ強の人と衝突する経験はよく考えると一般の人はやりません。

よく「なぜ体重減らさないんですか」と聞かれた時に内心「ロレンゾみたいなやつと戦うため」と唱えていました。質問者たる普通の体格をした女性管理栄養士にそんなこと言ってもしょうがないのですが、でも大人になっても心理的には子供の頃の経験がベースになる。これは様々な心理学や脳科学の研究で実証されています。

 

なのでメンタルが強靭である必要はない。これが私の現在の持論です。強靭じゃないということが健全であるということでもあるのです。

例えば護身のために武術で強くなりたい、どうすれば良いかという質問。武術を極めている人、ナイフ持った人間に対峙できる人は戦うのがそもそも好きでかつもしかしたら心理的に病んでいるかもしれません。そもそも武術強くなりたい人はこういう客観的な観点で質問してこないので、こういう聞き方する人は基本的に健全なんです。巷の護身術や格闘技ジム行けば健全な形で身を守る方法学べると思います。ここにメンタルの強さ・弱さはあまり関係ありません。

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ケトルベルの認定コース受けるには当時海外行かなければならず、近いからという理由で韓国のアシスタントで資格更新していた時期ありました。コロナ渦にあってはオンライン認定があったので2回ほどそれをやっています。

だいぶ前ですが、ある認定コースのアシスタントとして参加したところ会場に何となく不穏な空気を感じ始めました。明らかに環境と自分が合っていないという感じでしょうか。特にアジア担当のインストラクターとウマが合わないわけではなかったのですが、アメリカやヨーロッパで実施している人たちとウマが合いすぎたため、アジア担当者たちもベテランの私をどう扱うか悩んだんだと思います。

何せ私は東アジア圏でも最初のケトルベルインストラクターだったため、私より後に始めて組織内で昇進した人たちは後輩的な位置づけなのです。私も「あなたのヒエラルキーはここです」と無言で示されているような感じになり2017年を最後にアシスタントとして参加するのはやめました。

状況がわかりにくいかもしれませんが、いってみれば武術経験者が武術未経験者が占めるセミナーに参加するようなものです。つまり「えらい」とされるマスター級指導員の利点も欠点も長い付き合いから知っていて、そこで突如出来上がったヒエラルキーにハマることができなかったわけです。

 

ただ、この最後に参加したコースで許容できなかったことがあります。

私がテクニック面の採点をして不合格にした受講生がいたのですが、コース終盤でこの採点が合格に書き換えられていました。この幹部インストラクター曰く:

「ここで不合格にしたら、私たちの指導責任が問われる。それはまずいから合格にしておいた。そうすれば指導責任は問われないし、彼もあとはスナッチテストさえやれば合格できる」

これは無いよなー。

 

マスターインストラクターのブレット・ジョーンズが書籍 伝説の指揮官に学ぶ究極のリーダーシップ を挙げて全てのことに責任持てと言っていたにも関わらず、その指揮下にいる人間がこうなのかなー。

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というわけで2022年を機にケトルベル資格を更新なしで今もケトルベル指導続けております。

 

ケトルベルのクラス進行や指導で一番の懸念は怪我人。特にケトルベルが体の部位に当たる事故はあってならないので細心の注意払っています。

 

クラスやグループで事故の遠因になるのが指導者の慢心が1つ。事故が10年起こらなくても今日起きるかもしれない。これを常に考えています。

ヒュブリス症候群

3年以上同じ立場にいると自己顕示欲が顕著になり、誰も逆らえない立場になるという心理傾向を言います。受講者側にあり得る事で、長くいる事から要領得て人を教えるようになるのが典型例です。

もちろん強制力ない意見交換は構わないのですが、ケトルベル種目実施最中に指導したり、正規指導員と生徒間に割り込むなどあるとケトルベル発端の事故が容易に想像つくのです。

今年に入り

初めての試みだったのですが、クラスに3年以上来てくださる方々に方針を明確にしました。ヒュブリス症候群にならないための措置です。

お知らせしたのは以下の通り。

  • 開始より十数年、クラスではおかげさまで事故や怪我ゼロを継続中。
  • ケトルベルの指導は私や代行お願いした指導員に一任させてほしい。
  • アシスタントの立場にある人はいない。
  • どんなに長年ケトルベル経験あっても、ケトルベルインストラクターコース合格していなければ指導する資格はない。

 

時に意思表示が必要です。メンタル的な課題、体力的な課題は解決する方法たくさんあるのですが、物理的な問題(誰かの頭にケトルベルが当たる)は未然に防がないと非常にまずいのです。

とあるスポーツ指導の本を読んで何気なくそれをケトルベルのスイングに取り入れることにしました。

最初は普通のスイング。肩の高さまで振り上げてもらい、それを体感。

 

次は空いている方の脇にクッション挟んで力を籠める。右手でスイングする場合、左脇に挟んで左手が使えないようにする。さしずめ反対側の手を使わないようにテニスやる。すると右腕や肩など様々な工夫を体内で起こすようになる。これと同じ狙い。

 

次は登坂に立ったスイングやりたかったのですが、登坂がないので、つま先を棒の上に乗せる形でスイングしてもらいました。足裏の変化はすなわち環境の変化に等しいのです。足裏で様々な環境変化を感じ取りながらスイングする。

 

これらをやった後、脇にクッションスイング、棒をつま先で踏んだスイング、普通のスイングを立て続けにやります。結構「脳」が疲れるようです。

 

どの状況も同じ肩の高さまでケトルベルを持っていく。手段が違っても結果は同じ。どういう内容を参考にしたかは下に書いた通りです。

 

世界トップレベルのサッカー、ヨーロッパ圏は幼少期から選手を一流のトレーニング・練習施設で練習させてトップ選手を輩出。対するブラジルにこのような施設がなく、グラウンドがデコボコ、土が露出。つまり足裏の環境にばらつきがあります。おそらくサッカー場も狭く非常に不便。ただ足裏が一定しないことや練習場が狭いことがかえって汎用性を育み、いかなる状況にも対応可能だそうです。

野球のピッチャーが形状の変わったマウンドから投球するという練習もあるらしい。

 

体に制約をつける。これはラケット競技で片腕を胴体に絞る、野球のピッチングで右脇にボールを挟んで右で投球するという練習があります。制約すると選手が自発的に身体操作を工夫し始める、つまり身体的不便さの中に打開策を見つけるというものです。

 

同じ結果、異なる動き。

ラケット競技なら肩主体で使う、肘を使う、手首を存分に使うに関係なく相手へ打ち返すという結果には変わりません。

野球なら二塁手が内野ゴロを様々な場所や態勢で捕球しますが、一塁へ投げてアウトにする結果には変わりありません。100回内野ゴロをアウトにしたとしたら100通りの内野ゴロさばきがあるわけです。

 


ケトルベルスイングの開始姿勢、ここで背骨が一直線になっている事が必要です。

ただ私自身が猫背になりやすい身体しているみたいで、その葛藤が今考えるとケトルベルの執着に繋がったのかなと考えます。


背筋まっすぐにしなければならない、という考えは様々な世界で言われている事です。

まずは武術や戦闘。詳しくは言えませんが基礎の基礎です。

馬術も姿勢悪化を馬が敏感に感じ取るので背筋の意識は大事。つまり騎乗者が前傾すると、馬はブレーキだと認識して止まってしまう。そこで蹴って加速しようにも、馬からするとアクセルとブレーキの指令が同時にきていると捉えて戸惑う。これほどの姿勢矯正はありません。

プロとして歌う方から姿勢正されます。私自身歌うわけではないのですが呼吸という観点から学びました。個人指導受けた中でこの先生の指摘が一番細かかったです。


では姿勢維持には?

簡単なのは壁に後頭部と肩、尻、踵をつける。床に寝てやってもいいです。

あとは胸郭の方が腹部より出ている方限定(つまりお腹が出ていない方)はうつ伏せで寝る。顔は完成に床につけます。これで深呼吸5分やれば姿勢整うでしょう。

2007年~2022年まで、正式なケトルベルインストラクター資格を保有していました。2年おきに更新するのですが、時折それを待たず次の年に受講しにいって更新したり、2011年に至っては2度更新しています。

2007年から今に至るまで何をやってきたかは書ききれないので省略します。ただひたすらケトルベルを教え続けたことは確かです。他の人たちとのコラボもありますが、私自身がそういう柄でもないためかあまり長続きしませんでした。中には周囲にご迷惑をおかけするほどのいわゆる不適合者との連携や、数年かけて実施する予定の企画が4か月ほどで撤退された等様々な失策もしましたが、そのうち自分中心でやることが良いと考えて今に至っています。もちろん中島章夫先生や日貿出版のように全面協力していただいたり、ここ17年スタジオプログラムとしてやらせていただいているクラヴマガ・ジャパンのような存在もあります。

そういえば直近10年でその人となりを見て判断する能力もつきました。これが最近の成功と、業務上人的な失敗がなくなった理由かもしれません。

ストロングファーストのケトルベル認定レベル2を最後に更新したのが2020年、オンラインでパベルが編み出したプログラムを3つほど受けてそのタイミングでオンライン更新をしました。

ただ、オンラインでの更新にほぼ人間味を感じることがなく、2007年初回のコースに比べたらなんとも寂しいものがありました。ここでもういいかな、と思いそのまま更新せず終了しました。それでもケトルベルの指導は今も継続しています。

やはり人と会って色々感じることが必要なんですよね。

 

 

松下タイケイの経歴 ケトルベルとの出会い

1989年にアメリカンフットボール練習中に膝をケガして以降、日常生活で立つにも支障きたしていた。電車で立つとなれば必ずどこかに寄りかからないと膝に痛みが走り、かといって膝を鍛えようとすると痛みが増すばかり。

そうしているうちに2002年暮れクラヴマガを始め、国内でケトルベル販売予定を知らせるパンフレットを見た。

クラヴマガはしばらく続き、その過程で2004年頃のゴールデンウィークに12キロケトルベル2つを入手。雑誌アイアンマンが出していたケトルベルの冊子を買って見様見真似でトレーニングしてみた。記憶している限り2005年くらいまではスイングすらおぼつかなかったと記憶している。

同時にパベル・ツァツーリンのロシアン・ケトルベル・チャレンジというVHSフォーマットのビデオを購入し、少しずつやり方を覚えていった。そして2005年中ごろだっただろうか、パベルの2つ目のビデオで紹介されたケトルベルのフロントスクワットをやったところ、膝の痛みが次第に引いてきた。これだと思い、スクワットに加えてスイングやスナッチを自我流で始めていた。この時点で20キロ、24キロを入手、2006年頃には32キロも持っていた。

32キロのケトルベルは持ち帰ろうと考え、当時神保町にあった店舗へカート付きのカバンを持っていき、中にクッションとしてパンチミットを持って行った。店舗で32キロを購入し、そのまま半蔵門線の神保町駅へ向かったところでまずカバンの車輪が破損。しかたなくそのままカバンを引きずって数駅ある最寄り駅まで電車で行ってそのまま帰宅した。

カバンはそのまま破損、クッションにしていたパンチミットは1/5くらいすり減ってこれも廃棄処分。

いよいよ32キロ使おうと思ったが次第に体があっちこっち痛くなってきた。この頃ミリタリープレスも32キロで右側だけできてたと記憶していて、スナッチも24キロで回数稼いでいた。

言うの忘れたか、この時にはアメリカでRKCインストラクター資格の取得を考えていたのだ。それも当時東アジア圏では誰もまだやっていなかった。

インストラクターコースのドラゴンドア社が掲示板を当時開いていて、そこへ「日本で誰かおしえてくれる人いませんか?」と問いかけた。

すると公認インストラクター1名から

「来月日本行くよ。ぜひ会いましょう」

長年交友関係にあるケン・ブラックからの返答だった。

ケンとのトレーニングはこのブログで書いているが、そもそもこのブログ始めるきっかけもケンとの出会いから始まった。

ケンとの交流を書いたブログ投稿

天理 | ケトルベルブログ  松下タイケイ

 

 

 

松下タイケイ経歴 IT企業に入ってその後

 

当時一部上場で、2025年時点で大人気女優がCMに出ていた企業に勤務。創業者が亡くなった時に長者番付2位という金が鳴る会社にみえたが、わりと薄給だった。そこで会社内でアメリカンフットボールのチームを作る話に乗ってしまい、8年ほど選手ではなくスタッフとして関わった。人数揃わないところから数年で全勝優勝飾ったという実績は遠い記憶でしかなく、あまり覚えていない。

特筆すべきことは:

  • アメリカンフットボールの書籍を当時のアマゾンアメリカやアメリカの通販サイトから大量に購入し、日本語訳してみた。配布先はチーム内に加え、当時斬新だったホームページにも掲載。和訳を何年もやったことがのちに生きてくる。
  • 大学時代ケガした左膝が痛く、医師の「膝周辺の筋肉を鍛えるしかない」というアドバイスに従って自宅のマシンでレッグカールやレッグエクステンションをやった。すると解消するどころか悪化し、電車内で立つのも一苦労になるほどになった。
  • 公共ジムなどでマシントレーニングもやったが、体のバランスが悪化していくのを実感。
  • アメリカンフットボールは試合数が減少するにつれて飲み会>試合数となったのでスタッフとしての役割を終了し、辞めた。
  • 2002年にケトルベルが販売されるというパンフレットを見て直感で「これだ!!」と思い、店舗に問い合わせたが入荷がまだ先だと言われた。
  • 2001年~2005年の間藤沢にある格闘技ジムでブラジリアン柔術とグラップリングをやっていた。試合出場拒否したため、3年の間ずっと白帯。試合は親善ワンマッチで1勝0敗、生涯格闘成績はこれだけ。
  • 2002年暮れ、日本に入ってきたクラヴマガ(イスラエル軍式護身術)のクラス受講。てっきり2か月の限定コースだと思いき、延長に延長重ね、以降腐れ縁が続くことになる。
 

松下タイケイの経歴 大学アメリカンフットボール

 

ヒューストンの高校でアメリカンフットボールやっていたが、帰国して大学入るとそこにアメリカンフットボール部があった。選手30人前後で監督やコーチがいない、首都圏の大学同好会とリーグ戦を競うチーム。

当初は大学の剣道部に入ろうと考えたが、日本国内で剣道部のメンバーが「大学で始めたメンバーで構成されている」と知ったので、であれば自分の経験が伝えられるアメリカンフットボール部に入ろうと、9月から入部。

既にリーグ戦開始直前だった中、9月入学メンバーは私を入れて4名。うち2人はアメリカとカナダからの1年交換留学生。1年の時は数試合出させてもらったと記憶している。

で、2年の時にチームが春と秋全敗。その時には高校時代の経験も生きて全試合出場したが、要は練習に手抜きがないくらいきつくけが人続出する中で試合に挑んだのが祟って見事に全敗。

3年になってヒューストン時代のネタを披露してチーム強化していこうと決め、そこから私はいわゆる「キチガイ」になった。温厚な先輩たちの中で、私は練習や試合でかなり暴れまわった気がする。知恵を提案している身にあってチーム内役職なし、最初は幹部ミーティングにも呼ばれなかったが少しずつ試合に勝てるようになっていった。

今あの当時の自分に会っていたら引っぱたいていたか、距離を置いていただろう。あの頃の先輩・同期・後輩たちにはずいぶんとご迷惑をおかけした。あとはマネージャさんスタッフたちも私のキチガイぶりを目の当たりにしてどう思ったか。

平成元年の春に私は練習中に膝をケガした。無気力なまま練習に参加し、膝に人が入ってきたために内側靭帯を部分損傷。病院では自然治癒任せで直すことになり、膝プロテクターつけてシーズンを迎えた。膝ケガしたことがのちにケトルベルに執着するようになるキッカケとなったが、その詳細は後日に。

私の知恵というわけではないが、それを発端に3年目シーズンは少しずつ試合に勝てるようになった。

4年目は私の大活躍シーズンとなるはずが、私のキチガイぶりと怒りっぽさが災いし、自分で自分の精神を蝕むような行動が次第に多くなってきた。プレイはしたいが頭のぶつけすぎによる頭痛と膝のケガで春は練習にも出ずサポートにまわっていた。この頃から後輩たちがチーム整備の知恵をつけ始め、私がいなくてもチームは何とかやっていけていた。一方私とその同期は互いにバトルロワイアル方式で喧嘩ばかりしていた記憶がある。言い争いはしょっちゅうで、飲み屋でもふざけ半分の小競り合いあり、一方で後輩たちはそれをよそにチームを少しずつ形成していった。

4年のシーズン直前まで部を辞めるか否かを考えたが、結局とどまりシーズン迎えた。

結果ギリギリ勝ち越し。キーとなった試合で私が要所で相手の得点を阻止するなど、私がいたために結果が出た場面もあった。しかし今振り返ると色々と後悔が残るシーズンだった。コーチや監督など抑制する人がいなかったのもあったが、成長過程で何かしらの人格形成に問題あったものと、最近になって知ることとなる。むやみに暴力振るったことはないし、犯罪歴もないが、とにかく人に厳しかったことが残念だったように思える。

 

4年のアメリカンフットボールシーズン終えてその後なにしたかは記憶定かではない。ただ就職活動でIT企業から内定もらったのと、卒業論文を書くため図書館通いしたのも覚えている。卒業旅行は同期とイタリアへ行った。子供の頃以来のローマにフィレンツェ、ミラノ、ベルガモと3週間ほどだったと記憶している。

 

卒業は6月、しかしIT企業の入社がその前の4月という、ここでも年齢や学歴の不一致があった。そういう宿命なのだろうか。卒業も難なくというわけではなかったが、本当ギリギリで卒業できた。

 

IT企業の入社後もアメリカンフットボールに関わるわけだが。。。。これ本当にやってよかったか未だ疑問でもある。大学と社会人のアメリカンフットボール経験はやや黒歴史だったのではないかな。

 

ただ、大学チームはその後体育会登録され、私の1年下世代が監督やコーチを続けている。チーム戦績も年々良く、自分の行動や態度を顧みるとやや恥ずかしいくらいの思いがある。

 

 

松下タイケイの経歴 ヒューストンから

中学1年はアメリカのヒューストンでいう7年生。しかし父の仕事任期が限られていて高校卒業前に帰国してしまう算段から8年生の3学期に繰り上げてくれた。9年生から12年生が高校なので14歳誕生日には高校生になっていた。

ちなみに高校は受験なし、近隣の公立校に行く。

担当の英語先生はテキサス州最優秀教師としてホワイトハウスに招かれた。つまり決して悪い学校ではなかった。生活はさしづめ日本でいう北関東の地方都市に住んでいた感覚だろうか。観光地と呼ばれる場所はなかった。

高校のスポーツは授業単位、ただ選抜があったので、それがないアメリカンフットボールしか入れなかった。備品やユニフォームは貸し出し、新人チームや二軍で試合に出させてもらった。3年目のシーズンはスタメンにしてチーム成績も7勝3敗と良好。4年目は一軍の末端控え。しかし人生にあってこの頃が一番まともだった。


アメフトは強豪だった。私が卒業直後チームは全米級。監督はテキサス州殿堂入り。

そのアメフトのディフェンスシステムを体験できた。後に日本で生きてくる。

3年目の練習相手が112キロのオールスター級選手。毎日交通事故に遭っているような肉弾戦の毎日。メンタル強化に加えてトラウマも背負った。

授業全部英語だったので母が口を出さなくなった。ある程度自分のペースで勉強できるようになった。

ベンチプレス等のウェイトトレーニングを14歳で始めた。アメフトまわりではウェイトやってるか?が元気ですか?並みの挨拶だった。


5月に17歳で高校卒業して翌年日本の大学に入るのを目指す予定だった。ところが願書提出が一番早い東京にある大学へ願書とアメリカで受けたSAT TOEFL Achievement Testの結果を送ったら合格通知が来た。それも9月入学だから、18歳誕生日直後の入学になる。ここで私の受験が終わった。両親には他も受けろと言われたが、今でいう教育虐待のような圧を母から受けた反動あって「いや、言われたことはやったからもう受験はしない」

日本のアメリカンフットボール事情知らなかったので、大学では剣道やるかなと漠然と考えていた。

8月に東京帰ってきて大学入るが、それからの事はまた別機会に。