祝福の向日葵が咲き誇る丘で──『フラ・フラダンス』 | ますたーの研究室

ますたーの研究室

英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

『フラ・フラダンス』はあまりにも素晴らしい映画だったので、日本に生きる全ての人に観ていただきたいという気持ちが強い。だから、本論を書いている。

 

(C)BNP, FULITV/おしゃれサロンなつなぎ

 

東日本大震災から10年の節目となる2021年、岩手県・宮城県・福島県の3件を舞台とするアニメ作品を制作するプロジェクト「ずっとおうえん・プロジェクト 2011+10...」の1作として制作された本作は、福島県いわき市にあるスパリゾートハワイアンズを舞台に、フラガールとして就職した5人の女の子たちの日常を描くお仕事青春ストーリーである。

 

 

繰り返し強調するが、とてもいい映画だった。

公開後わりとすぐ木曜日の19時半の回を観に行ったが、業後平日の夜に観るチョイスとして最高の映画だった。思わずパンフも買ってしまった。翌日の仕事のパフォーマンスがあまりにもよかったのは、完全に『フラ・フラダンス』の余韻で生きていたおかげだ。

いいと思ったシーンがたくさんあり、端的に言って挙げきれない。脚本の完成度の高さたるや、さすがに吉田玲子は信頼の置ける作家だという感じである。また、総監督の水島精二の仕事も丁寧で、どのシーンを切り取ってもキャラクターたちへの暖かい目配りを感じることができ、とても優しい空気感が映画全体を支配しているのも流石である。

 

 

本作の魅力を一言で表すとしたら、そのリアリティの高さである。

スパリゾートハワイアンズの描写とそこで生きている人々、5人のキャラクターの関係性の進展、どこを切り取っても無理のない自然な展開で、本当にこの現実世界のハワイアンズで生きている人々なのではないかと思わせる温度感と親密さを感じられる。

加えて、ポスト震災の物語として、災厄の後を生きる人々を描き方のその誠実さを僕は高く評価している。

 

 

災厄の後の世界を生きること

本作は、福島県いわき市に暮らす高校生・夏凪日羽(なつなぎひわ)の回想から物語が始まる。

10年前のハワイアンズにて、当時8歳の彼女は両親と共に、フラダンサーとして勤める姉・真理(まり)のステージを観に行っていた。そして、ショーの途中で大きな揺れを感じることとなる。

 

開始数分にして、我々は10年前の震災の記憶を呼び起こされることとなる。回想の後に現在の彼女が暮らす場所の風景が描かれるのだが、大きくえぐられた地面は未だに震災の影響が根強く残っていることを示唆している。

 

卒業後の進路に悩む日羽は、「スパリゾートハワイアンズ」のポスターを見て衝動的に、新人ダンサー=フラガールの採用試験に応募し、未経験にも関わらず見事に採用されることになる。彼女は、憧れだった姉と同じ仕事をして生きていくことを選んだのである。緊張と不安が織り交ざった表情でハワイアンズへと向かった彼女は、同期の鎌倉環奈、滝川蘭子、オハナ・カアイフエ、白沢しおんの4人と出会う。

 

 

メインとなるフラガール5人に並んで重要なのが、日羽の姉・真理である。

彼女はもうこの世にはいない。明言はされていないが、あの震災の日、ステージ上の事故で亡くなってしまったと推察される。

彼女の死から10年が経った今でもキャラクターたちにとっては大きな存在となっている。夏凪家の面々はもちろん、真理と同期入社であった先輩ダンサーの塩屋崎あやめ、真理と深い関係にあったと思わせる先輩社員の鈴懸涼太など、彼女を失ってしまったことはまだ生々しい傷として残っていることを伺わせる。彼女が不在であるからこそ逆に存在感が大きい事態となっている。すなわち、本作において、真理は正しく亡霊なのだ。

 

 

本作は震災から10年経った今だからこそ描ける物語という感じで、震災が文脈の1つになっていることの意義は大きい。そして、震災が物語の重要な文脈になっているけれども、それだけではなく、本作の主眼はあくまでもフラガールを仕事に選んだ女性たちの日常にあるということがポイントである。

 

本作の中盤、曇天のある日、日羽はスーパーでチョコレートがたくさん売っているのを見かけ、もうすぐバレンタインであることに気がつく。何気なくスマホで日付を確認すると、今日は2月11日だった。

この場面の静かな重たさに思わず唸ってしまった。鑑賞している自分もまた、日羽と全く同じタイミングで「ああ……」と嘆息してしまったし、日羽と同じに自分もまた震災が完全に過去になってはいないことを痛感させられた。

 

彼女は月命日であるこの日に姉の墓参りに行くことにするのだが、鈴懸さんが先客としていた。彼は、「真理がよく話していた小さかった君がハワイアンズに就職してきて、本当に嬉しかった」と言葉をかけ、近々ハワイアンズを辞めて実家の酒蔵を継ぐことを伝える。彼に淡い恋心のような憧れを抱いていた日羽は、「鈴懸さんもいなくなっちゃうんですか?」と言葉を荒げてしまう。しかし、彼にとっては、ハワイアンズを去って実家を継ぐという選択は、震災から、そして真理の死から10年が経って、ようやく前に進めることができるという実感のある決断だったのである。

 

 

真理は、幼き日に日羽が買ってもらったハワイアンズのマスコットキャラクター、CoCoネェさんのぬいぐるみに憑依する。

 

(C)2016 Joban Kosan Co.,Ltd.以下URLより。

 

 

ぬいぐるみが急に喋り出すというところで、日羽は怯え、CoCoネェさんの口にガムテープをしてポリ袋に詰め込み、押し入れに閉じ込めてしまう。

物語終盤、日羽がもう一度CoCOネェさんと向き合ったとき、日羽は真理であることに気がつき最後の言葉を交わす。

仕事と出会い、仲間と出会い、日々を紡いでいく中で、日羽は成長を遂げる。始めは自信がなく失敗続きであった彼女はやがて、笑顔で人を感動させられる立派な職業フラダンサーとなっていく。同時に、彼女は仕事に生きる日常の中で姉の死を段々と乗り越えていくのだ。「もう私がいなくても大丈夫だよね」と最後に成仏していくところはやっぱりベタなのだが、ベタで何が悪い?と言わんばかりに突き抜けていくのはあまりにも良いし、その依り代がハワイアンズのマスコットキャラクターであるCoCoネェさんなのが素晴らしい。

 

 

これは今年の『トロプリ』映画の感想とも通じるのだが、亡くなった後でもあなたは私の中で生きています(名前、仕事、記憶)というのもベタなのだが、やはり復興というのはそういうことなのだろう。震災と震災の後を生きる人々を描く目線として、本作は間違いなく誠実で丁寧だったと思う。

 

多面的なスパリゾートハワイアンズという場

本作の主たる舞台であるスパリゾートハワイアンズが、実に丁寧に描写されているのは言うまでもない。加えて、ハワイアンズという場が多様な場として表象されることは、震災の復興の物語かつお仕事青春ストーリーの両面での強度を担保することに寄与している。

 

 

物語中盤、鈴懸さんは閉館後のハワイアンズを日羽に案内する。館内整備や清掃などの閉館後の業務の一例として、浮き輪の空気を抜く人の様子が描かれる。ハワイアンズでは、日々大量に発生する(であろう)忘れ物の浮き輪──中には、浮き輪を捨て置いていってしまう迷惑な客もいる──を保管している。しかし、そのままの状態だとかさばり保管が難しいため、閉館後に全ての浮き輪の空気を抜く必要がある。この作業はとても地味だが、指摘されると確かにそういう問題が日常的に発生していそうで、かつ想像するだに面倒臭くて大変な仕事だ。でも、仕事は仕事なのだ、と、あそこは本作の仕事に対する価値観が凝縮されていると受け取った。

 

この流れの中で、鈴懸さんはフラガールとハワイアンズの来歴について語る。震災後、営業ができなくなってしまったハワイアンズにおいて、踊る場所が無くなってしまったフラガールたちが日本全国を行脚しパフォーマンスを行った。その結果、営業再開をしたハワイアンズには、フラガールを一目見ようと日本各地から人々が遊びに来るようになった。こうして、ハワイアンズは「東北のハワイ」としての南国リゾートだけではなく、復興の象徴の場としての意味合いも帯びるようになった。「乗り越えられるよ。ここは、あの時、だれもが乗り越えたんだ」という彼の言葉は、仕事が上手くいかずにつまづいていた日羽を励ます台詞として、とても説得力がある力強い言葉だ。

 

 

スパリゾートハワイアンズという場が、お客さんにとっては楽しいアミューズメントパークで、そこで働く人たちにとっては毎日を過ごす「職場」(ただし大切な職場)で、かつ震災の復興のシンボルとしてもあるという多面的な場として描かれているのがいい。

 

 

物語序盤、新人フラガール5人が迎えた初ステージでなかなかなやらかしをしでかしてしまう。

日羽は衣装にハンガーが付いていることに気がつかないままステージに立ってしまい、ステージに落ちたハンガーを後ろ足に蹴っ飛ばしたらステージ上部にひゅーんと飛んでいってしまう。思わぬアクシデントに会場は大爆笑に包まれる。その日から日羽はハンガーちゃんというあだ名が付けられ、「今までで、一番ざんねんな新人たち」という悪評まで付いてしまう。

 

この一連のシークエンスは、いいギャグシーンであると同時に、「この初ステージで犯した大失態の汚名を返上していくのだ」というこれからの展開の軸となる重要な場面でもある。だが、自分はもう1つ別の意味を見いだせるように感じた。それは、震災の日の真理のステージと対になっているということだ。先述の通り、本作は日羽の回想シーンである、2011年3月11日のハワイアンズのステージから始まる。日羽と両親がステージを見守る中で、震災が発生する。あの日は残念ながら真理の最後のステージとなってしまった。

 

その10年後、日羽は姉と同じステージに立つ。彼女の初舞台で、ハンガーのアクシデントが発生し、満杯の客席は爆笑に包まれる。

真理のラストステージ、日羽の初舞台、どちらも何らかのアクシデントが発生している。しかしながら、そのアクシデントの意味合いやもたらしたものは、明らかに正反対だ。そして、10年前の悲劇が今喜劇に書き換えられていることに、復興の希望を見いだすことはできないだろうか。当然のことだが、真理は二度と生き返ることはないし、震災の記憶を消すことはできない。だが、今起こっている楽しい記憶で上書きし、新しい希望や笑顔で未来を紡いでいくことはできる。それは、決して震災の過去を無効化することを意味しない。

 

ひまわりのような笑顔で

いいなと思ったシーンはまだまだあり、本論は全く網羅的に書けてはいない。

3DCGで描かれるダンスシーンはどれも相当気合いが入っており、フラダンスの動きと表現力を思う存分満足することができる(中でもやはり、フラの全国大会のアイドルステージが一番好きだ)。

 

 

何と言っても温度感がいいというか、やはり仕事は仕事だからという厳しさ(日羽の査定が最下位だったところとか)と、それでも仕事で青春を見いだしていく健全な働き方の感じが同居していて心地よかった。この温度感は友情・努力・勝利でひた走っていけちゃうフラダンス部活ものでは出ず、やはりお仕事ものだからこそという味わいだ。

 

 

本論は当然ネタバレを含んでいるし、印象に残っているシーンを中心に踏み込んだことも書いている。

だが、本当に肝心なシーンだけは、あえて言及をしていない。それはなぜかというと、まだ間に合うのでやはり観ていただきたいからだ。震災から10年が経った今だからこそ、描ける物語がある。そして、そのような物語を僕は1人でも多くの人に劇場で鑑賞してもらいたい。

 

 

僕は本作を通してスパリゾートハワイアンズに行きたくてしょうがなくなったのだが、恐らく聖地巡礼とは少し違う。キャラクターたちが生きている空間、本作で描かれている舞台に実際に行きたいというよりは、この現実世界でフラガールとして生きている人々のパフォーマンスを観に行きたいのと、(まだ物語化していない)復興の現実を感じ取りたいと思っている。