2021年2月、3月に読んだ本たち | ますたーの研究室

ますたーの研究室

英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

俺は繁忙期をSurviveしているけど、お前は?

ぶっちゃけると忙しさを言い訳にして最近はあまり本が読めていないのですが、それでもよければ。

 

・ウィリアム・シェイクスピア『新訳 リチャード三世』(初演:1591年。河合祥一郎訳、角川文庫、2007年。)

2月は『リチャード三世』に取り組んでいた。昨年からずっとゆるゆると続いている「シェイクスピア読もう」キャンペーンである。

 

ここで、堂本光一が手掛ける『Endless SHOCK』という舞台の話をしたい。新型コロナウィルスの影響により途中で全公演中止となってしまった昨年、お客さんを入れずに舞台全幕をひとまず撮ってみるかと撮影された映像をもとに、今年の2月に映画版が限定公開された。ミュージカルを生業としている友人と鑑賞した。大変素晴らしかった。確か2016年に生で観劇したことがあり、本作を観劇するのは2回目だったが、ストーリーのあらすじが大体入っている状態で今回再見したため、ストーリーの細部まで理解が行き届きとても有意義な鑑賞だった。

 

舞台はNYのオフ・ブロードウェイの小劇場。演劇に命を燃やし「Show must go on」を絶対的な信条とする根っからの舞台青年コウイチが本作の主人公だ。コウイチ率いるカンパニーの中で、コウイチへの対抗心を燃やすライバル役(この配役は年によって変わるため注目される。昨年と今年はKAT-TUNの上田竜也演じるタツヤ)、コウイチを密かに慕うリカ、かつては舞台役者で、現在ではカンパニーを見守る劇場の支配人のオーナー、等の面々で物語は進行していく。

 

ある日、彼らの舞台が新聞で大絶賛され、オン・ブロードウェイで公演を行うチャンスを掴む。ずっと夢見ていたブロードウェイのステージについに立てるのだ。

だが、夢の舞台で公演を重ねていくにつれて良好だったはずのメンバーの心が徐々にすれ違っていく。俺がみんなを引っ張っていくんだという思いが強すぎる反面、自分にも周りにもストイックすぎるコウイチがいつしか空回っていく(本人は必死なのでそれに気づいていない)。タツヤはそんなコウイチに反発心を次第に露わにしていく。

 

コウイチとタツヤの不仲が決定的になってしまうのは、舞台(劇中劇)の第一幕のフィナーレ、「Solitary」の一幕だ(これが一番好き。コウイチがあまりにも格好良すぎてもはや笑けてくる)。ちょっとしたトラブルにより生じたタツヤのミスをコウイチがすかさずカバーする。「Show must go on」を貫くコウイチからしたら、仲間のミスを当たり前にカバーして舞台を続けていこうという意図しかなかったのだが、見せ場をコウイチに潰されてしまったと感じるタツヤはちっとも面白くない。幕間の楽屋で二人は直接的に衝突し、コウイチはタツヤに「お前はもう舞台に立つな」と冷酷に言い放つ。「Show must go on」に辟易としていたタツヤは、コウイチの信条を試すために小道具の刀を真剣へとすり替える。その結果何が起こってしまうのかは、まあ有名な「階段落ち」のシーンとかで察してほしい(本作は、「Show must go on」という舞台の魔物に憑りつかれてしまったコウイチの悲劇なのだ)。あのシーンはマジでヤバくて、本当に死ぬんじゃないかと思って毎回冷や冷やしてしまう。あの階段落ちを始め、他にも命がけのシーンがてんこ盛りのやべー舞台を毎年毎年積み重ね、通算1800回以上やっている堂本光一という人は相当ヤバい人だと思う。本当に尊敬する。

 

 

さて、なぜシェイクスピアの感想で『Endless SHOCK』の話をしているかというと、この舞台はシェイクスピアを引用しているからだ。第二幕の最初の場面にてがっつりシェイクスピアのアダプテーションを行っており、『ハムレット』と『リチャード三世』の台詞が多く引用されている。何度も繰り返されるコウイチの印象的なフレーズ「絶望して死ね!」は『リチャード三世』のクライマックスから持って来たんだなというのを今回の読書で初めて知った。コウイチ、リカ、タツヤの三角関係に対して、『リチャード三世』の「君から夫を奪った男は、君にもっとよい夫を与えようとしたのだ」(第一幕第二場)をそのまま持って来ているところとかもうまい。光一さんが本作の脚本を作る上で、シェイクスピアをきちんと読んで自分の舞台に昇華していったんだなと思うと、彼のファンとしても英文の人としてもすごくいいなあと思ってしまう。このようにして現代のエンターテイメントの中に古典は脈々と生きながらえていくんだよな。

 

 

長々と『リチャード三世』の感想ではなく『Endless SHOCK』の感想を書き連ねてきたが、本作は典型的な悪漢小説(ビカレスクロマン)なので、ダークヒーローのリチャード三世がただただ悪行を尽くす様子をぽけーっと読み進めているだけで気づいたら終わってしまった。キャラクターが多数出てきて人物相関図は結構ぐちゃぐちゃしているんだが、それほど問題にならない。だってみんなリチャードが殺すか勝手に死ぬかして退場していくから。

 

そんな解像度の低い読書をしていたのだが、クライマックスの直前、これまで悪行の限りを尽くしてきたリチャードが、今まで殺してきた人物たちの怨念に悪夢を見るというシーンがなんだか印象的だった。前述の「絶望して死ね!」はここで訪れる。リチャードは冒頭の長いモノローグで言うように、根っからの悪人なのだが、その悪人が悪夢で動揺しているところに少し違和感を感じた。リチャードはガチサイコパスの系譜だと思ったんだけど、そうではないということなのか。ハムレットしかりリア王しかり、シェイクスピアはときたま強烈なキャラクターを造形しており、彼らは物語作品を飛び越えて現代においても一つのキャラクター造形として生き残っているのだけれども、リチャードも間違いなくその系譜の一人だ。ただ、リチャードが最後の最後に少し人間らしいところを垣間見せるところが、今回一番「なるほどね」となったところだった。

 

 

・夏目漱石『虞美人草』(初出:1907年。新潮文庫、1951年。)

3月は『虞美人草』にずっと取り組んだ。久しぶりに漱石先生が読みたくなって近所の古本屋でまだ持っていない漱石を買ったのが『虞美人草』だった。ここ最近のフィクションはずっと翻訳されているものばかりを読んでいるので、久しぶりに日本近代文学を読みたくなったというところもある。

 

正直に感想を言うと微妙だった。本書を通じて『こころ』がいかに優れているかを再認識してしまった感がある。『こころ』はプロットが洗練されているため、圧倒的にわかりやすいのだ。あと、『こころ』で展開される悲劇は今の自由恋愛の価値観でも「読めて」しまうのがミソだと思う。だから高校生はこぞってみんな読まされるんだよな。それに対して『虞美人草』は当時の結婚の価値観と家督制度がわかっていないと読めない。登場人物紹介や各章の展開を細かくまとめてくれており、大いに読解の参考にさせていただいたとある個人ブログが、(すごく細かく登場人物や場面をまとめてくれているにも関わらず)「なんで結婚相手を乗り換えるのがそんなに悪いことなの?」ともっともな感想を提示して「いまいちでした」という感想で締めくくられているのを見てちょっと残念な気持ちになった。そら、100年以上も前の日本の話だからな。男も女も結婚相手を顔とかスペックとかで自由に選べる時代であったら、この小説が書かれることはないだろう。それができない封建的な社会だからこそ、本作が悲劇として成立し得るのだ。

 

主観的な感想を抜きにして、客観的に本作を捉えてみると、まず漱石が東京帝大の講師をやめて職業作家として小説に専念し始める最初の小説という事実が重要になってくる。なので、職業作家の第1作として相当な気合いを入れて書いているのがよくわかる。意欲的にシェイクスピアを引いているのもその一つで、複数カップルがわちゃわちゃして最終的に元鞘に収まっていくというフォーマットはシェイクスピアの喜劇を意識しているのではないかと思った。だが、ヒロインである藤尾は宗近と結ばれるのではなく、たった一人だけ死んでしまい世界からいなくなってしまう。ここに元鞘に収まっていくハッピーエンドの喜劇ではなく悲劇である所以があって、それを踏まえての「此処では喜劇ばかり流行る」(387)という有名な締めくくりの1行につながっていくのではないか。こういうことはすでにどこかに比較文学の研究者が言っていることだろうと思って軽く調べてみたが、本作とシェイクスピアの関連を考察している論文の中でここまで踏み込んだことを言っているものは見つけられなかった。この場合、俺の新規的発見というよりもただの適当な思い付きである可能性の方が高いので、まあそんなにまともに受け止めないでほしい。

 

とまあ、ちゃんど読んでいたらもっと面白味がわかるのだろうが、いかんせんあまりにもメロドラマっぽくてちょっと苦しかった。

それから小野さんの企みがあまりにもあんまりすぎて全く共感できなかったというところもある。詩人だったんならもっと想像力働かせてどうなるか考えろよ。学業成績が褒められて銀時計をもらったために調子に乗ってしまっている感じが辛くて、院生の時に読んでいたらもっとつらくなっていたと思う。あと「勧善懲悪」だと今も昔もボロクソに言われている結末はやはりいただけない。「なんで藤尾さん死ななければならなかったん?」と、これは当時の読者も今の読者も共通して思うに違いない。だが、リッチな日本語を読みたいというのが主目的だったので、小説の筋自体はそれほど重要ではなかったりもする。

 

 

・村岡晋一『名前の哲学』(講談社選書メチエ、2020年。)

大分前に読んだので結構忘れているのだが、なかなかよかった。勉強になった。

この本は紀要論文をまとめたものとして構成されており、「このようにして論文が単行本になるのね」と内容よりもそこが印象に残った。

 

哲学の問題系の中で「名前」はずっと厄介なものとして存在し続けていた。人間も動物も植物も物体もみんな持っている「名前」というものはありふれているし身近なものではあるが、その本質とは何か。なぜあらゆるものに名前がついているのか。名前はどういった働きをするのか。本書はヴィトゲンシュタイン、ローゼンツヴァイク、ベンヤミンという3人のユダヤ系思想家の系譜を描きながら名前の哲学を展開していく。

 

個人的には本筋に入る前段階の部分、それまでの伝統的な哲学において名前はどのような問題としてあったのかをまとめていたところが一番面白かった。名前は指示機能に過ぎないよ(「これ」「それ」とかと同じ)。いやいや、名前は説明機能だ(第44代アメリカ大統領はバラク・オバマという名前によって説明される)。どちらも「確かにそうですね」という印象を受けるが、でも本当に名前はそれだけなのか?という物足りなさもある。この流れの中で最後に登場するのが分析哲学の大物、ソール・クリプキだ。

 

リチャード・ファインマンという物理学者がいる。現在の我々はリチャード・ファインマンという名前によって「ノーベル物理学賞を受賞したアメリカ出身の物理学者」を認識するが、彼はこの世界に産み落とされ、リチャードと名づけられた時点から物理学者であったわけではない。また、彼は物理学者ではなく、ただの無名な人間で生涯を閉ざしたとしても、リチャード・ファインマンであることには変わりはなかっただろう。だから、「リチャード・ファインマン=物理学者・ファインマン」であるような事態は、ファインマン自身の問題であるというよりもむしろ、ファインマンをそう名指して呼ぶ私たちの言語共同体の問題として捉えた方が正確である。

 

ファインマン自身に辿り着く伝達の連鎖は、彼が次から次へとその名前を受け渡す共同体の一員であることによって確立されたのであって、彼が自分の書斎でこっそりと、『「ファインマン」によって私は、これこれしかじかのことをした男を意味しよう』という儀式を行うことによって確立されたわけではない(109、『名指しと必然性』からの引用)

 

このようにして、クリプキは名前の問題を(呼ばれる)対象vs.(呼ぶ)言葉という問題の構図から、名前を互いに受け渡し、受け継いでいく言語共同体の問題へと転換させたのである。自分はイギリスの人文界隈出身のくせして「分析哲学って何をやろうとしているんだろう」とずっとよくわからなかったのであるが、なるほど、こういう頭の働かせ方をするのかと初めて腑に落ちた感じがあった。

 

さて、本書はクリプキからヴィトゲンシュタインへと流れていき、ユダヤ系思想家の系譜へとつながっていくのだが、なぜユダヤ人は名前の問題に向き合わなければならなかったのか。それは、ユダヤ人たちに与えた国民国家および国語の成立のインパクトと関連がある。

長いヨーロッパの歴史の中で、ユダヤ人は常に不遇な位置を強いられてきた。18世紀末のフランス革命によって、ナショナリズムの嵐がヨーロッパ中に吹き荒れる。高校世界史でも習うドレフュス事件を筆頭として、帝国主義の時代では「ユダヤ人」という「人種」を標的にする反ユダヤ主義に社会が揺れる。

そんな中、ドイツではユダヤ人たちに寛容な立場を見せる。ドイツ人と同様な権利と地位をユダヤ人たちに与えようとした。ただし、そのためにはドイツ人と同様にドイツ語を話しドイツ語の名前を名乗るという条件つきであった。ユダヤ人への寛容的な政策は、同化政策でもあったのだ。このようにして、ユダヤ人は自身のアイデンティティか社会の中での位置かという二者択一を迫られる。その中でも名前の問題はクリティカルで、名前を聞くと「ああ、あなたはユダヤ人ですね」と一発でわかってしまう自身の名前を、捨てるか保持するかという過酷な選択を強いられるようになるのである。

 

「したがって、ユダヤ人にとって『名前』はたんなる言語学的な関心の対象ではないし、自分たちの宗教や歴史の独自性を理解する鍵であるだけでもない。それはむしろ、同化か民族的自立か、ディアスポラかシオニズムかといった、自分たちがこれからどう生きていくべきかを左右する大問題だった。だからこそ、二〇世紀のユダヤ思想家たちは『名前』の問題を避けて通れなかったのだ。……ユダヤ思想家たちは、『名前』が対象に貼られる外的なレッテルや、ましてや差別を生みだすような識別標識ではなく、共同体のうちでこそ生きて働くものであることを、いやそれどころか、共同体を不断に生みだし、<われわれ>をはじめて可能にするような言語装置であることを、どうしても証明する必要があったのである」(92)

本書の主題は名前に対する哲学的考察であるのだが、個人的には現代の社会でも禍根を残している問題系を見つめられたことの方が有意義だったように感じる。とかく日本に住んでいるとこういう問題とは無縁だと思いがちだが、全然そんなことはない。日本人っぽくない名前だけを見て「あなたは○○人なんですか?」と迂闊に聞くのはあまりよくない(日本生まれ日本育ちかもしれないし、他の複雑な事情があるのかもしれない)。自分の何気ない・他愛無い言動が、どうしようもなく他者を傷つけることもあるかもしれない。多様性を認めていくということは、この世界に生きるみんなが自分ごととして考えなければならないということとしてある。

 

 

・椋木ななつ『私に天使が舞い降りた!』(9)

『私に天使が舞い降りた!』9巻表紙。(C)椋木ななつ/一迅社

 

なんだかんだでずっと追いかけている『わたてん』。本ブログの代表作は「『わたてん』論」だと思っているので、ぜひ読んでください。あれは我ながらよく書けていると今でも思っていて、さすがに国会図書館の試験真っ只中だっただけある。

 

さて9巻。前回の8巻が結構おとなしい構成だったこともあってか、今回の巻数はかなり盛り上がっていた。個人的には「行きたくない」とあまり強くは言わずに普通に5人を動物園に連れて行ったところにみやこの成長が見られてよかった。

 

今回も乃愛ちゃんは相変わらずひなたへの結構ガチっぽい恋心を燃やしていて、一歩間違えると『荒ぶる季節の乙女どもよ。』になりそうな趣もあるが、まあこれから彼女はその未分化な自分の感情と向き合っていくことになるのだろう。その一方でみやこと花の方は当初よりも順調に進んでいるというか、花が「お姉さんのプリン食べたいなあ」とぼそっと呟いている(これはお母さんさぞショックだったろう)ところとか、みやこの時々出る普通にいいお姉ちゃんムーヴが花に炸裂するところとか、なんかよかったですね。みやこがプレゼントした花の髪飾りを家でもずっとつけているところもいい。すごいよな。これが「まんがタイムきらら」じゃなくて「コミック百合姫」というレーベルの力だ。

 

 

・原悠衣『きんいろモザイク Best wishes.』

『きんいろモザイク Best wishes.』表紙。(C)原悠衣/芳文社

 

『きんモザ』が完結してから早くも1年が経ってしまった。再び桜が咲いたこの季節に出たのが、完結後のアフターストーリーである『Best wishes.』の単行本だ。こうして、『きんモザ』は本当に完結していった。端的に言って寂しい。だが、作品がきちんと完結するということはとても尊ぶべき大事なことだと思うから、これでよかったのだ。

 

 

『きんモザ』11巻のイギリス旅行編が一番好きだったのだが、巻数全体としては今回が一番好きだった。タイトルに用いられた"Best wishes."という結句を踏まえて、本作では「手紙」という形式を用いて、過去の思い出と現在の様子が自在に行き来する。各挿話の終わりには、キャラクターたちの考えていることが手紙に書かれて提示される。久しぶりに再会した最後の段では、各自が友達たちに手紙を書くという挿話で締めくくられる。

 

 

個人的には翻訳者という夢に向かってまっすぐ進んでいる忍がすごくいいと思っているのだが、なんだかみんなから軽く扱われていて気の毒に感じる。立派にイギリスで暮らしているし、そこそこ英語も話せるようになっているし、めっちゃすごいと思うんだけど。まあそういうところを感じさせないのも彼女の魅力ということか。あと妹大好き勇お姉ちゃんも好きなんだよなあ。妹愛が爆発していてたいへんよかったです。

 

 

やっぱり『きんモザ』いいんだよなあ。定期的に読み直したくなる。早く自由にイギリスと日本を行き来できる社会情勢に戻ってほしいですね。