『輪るピングドラム』の方がスキ、という話――『ユリ熊嵐』雑感 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

幾原邦彦監督作品『ユリ熊嵐』(2015. 10-12)をようやく観た。前作『輪るピングドラム』が自分にとってあまりにも衝撃的だったからかもしれないが、『ユリ熊嵐』は『ピングドラム』に比べたら精彩を欠く、凡庸な作品であったように思えてしまった。

 

『ユリ熊嵐』第12話。(C)2015 イクニゴマモナカ/ユリクマニクル

 

特に同性愛にまつわるスキャンダラスな表現、幾原的な独特な世界観、すぐには明快に理解されない難解な台詞表現などを考慮すると、普通に考えて本作が「凡庸な作品」であるわけがないのだが、本作で伝えたいメッセージ自体は良く言えば普遍的、悪く言えばありきたりのように感じたのである。

 

本作の主題は「透明な嵐に負けることなく、自分のスキをあきらめるな」という一言に集約されると思うが、あまねく同属意識の集団(=透明な存在)から排除されても(=透明な嵐に巻き込まれる)、自分のスキを諦めない(=スキに代表されるような個人の主体を捨てない)ことによって、誰かと新たな共同体を作りだすことができる。それは、透明な存在たちによって構成される個が否定される抑圧的な集団ではなく、互いに個を認め合い、尊重し合う相互理解の共同体である。

 

 

本作はクマとヒトという二つの相異なる・互いに交わらない存在を軸として、「個人は種族の断絶を超えることは可能か」という大きな問いをめぐって、愛の物語が展開される。クマはヒトを食べる。ヒトはクマを撃つ。二つの種族は互いにわかりあえないから、断絶の壁を築いて互いに世界を棲み分ける。しかし、その本能を超えてクマとヒトは愛し合うことができるのではないか。だから、「私のスキが本物」であることを示すことによって、クマは、ヒトは、時にその断絶の壁を超えることができる。本作のあらましは大体これで語れたと思う。

 

 

「透明な嵐」についても説明がいるが、これは割合わかりやすく、要は学校のいじめである。

ヒトはクマから身を守るために群れをなす。群れを維持するためには、空気の読めない個人は悪として排除されなければならない。「透明になる」とはこの集団の同調的な空気に溶け込むことであり、「透明な嵐」とは透明な存在たちから排除された結果、個人に引き起こる非情な行為の総称である。ここでのポイントは、透明な集団にとっては、ある個人を異端として排除すること自体ではなく、その行為を通して集団の連帯感を高めることに大きな意義があるということである。この集団の論理はもう本当に世界中のいたるところに見受けられるわけで、「透明な嵐」とわざわざ比喩的に言わなくてもいいのではとさえ思えてしまう。

 

それから、クマとヒトの分断の結果「ヒトが群れをなす」という表現は、どちらがヒトでどちらがクマかわからない感じがして興味深かった。つまり、ポストモダンの動物化のことを多かれ少なかれ暗示しているような気がして面白かったのである(のちに、クマの世界でも分断があることが明らかになるので、結局のところヒトもクマも分断しあっているその内部でも分断していることがわかる。なんだか世知辛いですね……)。

 

 

さて、自分にとって本作の何が一番しっくりこなかったのかというと、主人公・椿輝紅羽とメインヒロイン・百合城銀子の関係性の変移がいまいち読みとれきれなかったところにあるのではないかと思う。物語冒頭・紅羽は母親をクマに殺されたために「私はクマを許さない」を振りかざし、銀子は紅羽を捕食対象としてしか見ていない(デリシャスメル)。物語が進むにつれ、両者は幼少期にともに暮らしていた「友だち」であったことが判明し、その関係性を回復・あるいは清算していくことが大きな流れになっていくのだが、この変化がどの時点から始まったのかが摑みきれなかった。

両者はそれぞれの本能(クマはヒトを食べる、ヒトはクマを撃つ)を克服して、愛情に基づく関係性を作ろうとする。でも、その本能はどこに行ってしまったのか。辛うじて、紅羽の変化は友だちである純花の手紙を読んでからと解釈することはできる(いま、目の前にいる人が新しい友だちです)。しかし、銀子の変化はやはりよくわからない。銀子は紅羽を食べたかったんじゃなかったっけ。いつ幼少期のことを思い出したんだ。

 

 

あとは、「クマショック!」を始めとして表現がポップであるために忘れてしまいがちだが、本作ではあまりにも命が軽々しく扱われているところも引っ掛かったのかもしれない。クマはヒトを食べる。この「食べる」という言葉が、文字通り捕食するのか、それとも性的な意味を暗示するのかがいまいちぼやかされていたのは、おそらく幾原邦彦が本作に「百合」を持ち込んだ戦略的意図と捉えるべきなのだろうが、それにしても物語展開に合わせてヒトもクマも退場しまくっていた。「透明な存在」の「ハイジョの儀」をあれほど露悪的に描いていた反面、物語上の役割を果たすとキャラクターがぽんぽん退場していたのは、作り手の「排除」が横行しているように感じられて意義が薄まってしまった。その点、『ピングドラム』を想起すると、とにかく陽毬を生き延びさせることに奔走する兄弟たちを始め、死とすぐ隣り合わせの残酷な運命と常に果敢に戦っていた弱い人間たちを真摯に描いていたことを思うと、うーんとなってしまう。

 

 

それでも、幾原邦彦はやはり嘘を書く作家ではない。最終話において、幼少期の紅羽が銀子をヒトにするよう願ったという過去を傲慢であると自覚し、紅羽は銀子への「スキ」を貫くため今度は自分がクマになることを選ぶ。この結末はやはり誠実であると評価しなければならない。運命を変えるためには、他人を変えるのではなく、自分を変えなければならない。運命を変えることには多大なる犠牲を伴う。『輪るピングドラム』において、冠葉と昌馬の二人が<いま、ここ>に生きる自己の身体を差し出すことでしか、愛する陽毬の運命を変えられなかったように。世界は変わらず残酷だが、それでも決して諦めてはならない。個人が選び取ることによって、多少なりとも運命を良くすることができるかもしれない。『輪るピングドラム』も『ユリ熊嵐』も、その姿勢においては全くぶれていない。おそらく『少女革命ウテナ』もそうなのだろう。早く観なければ。

 

 

さて、今年の春クールには4年ぶりの幾原監督の新作『さらざんまい』が控えている。ようやくリアルタイムで幾原作品を追いかけられる機会に恵まれるのだ。とても楽しみでならない。きっとこれからも、「作品を作ることが時代にコミットすることと無関係であるというのが耐えられない」(『ユリイカ 幾原邦彦特集号』より)という言葉を裏切らない、鋭く、毒々しく、センセーショナルで、全体として悲観的でありながらも、どこか暖かい人間的眼差しをたたえた素晴らしい作品を作ってくれると信じている。