平成の終焉に――『輪るピングドラム』における虚構と現実の交渉 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

(注:『輪るピングドラム』は、何も前情報がない真っ新な状態で観なければならない作品です。本記事はネタバレに配慮しません。

本放送から7年が経った2018年に今更という感じですが、もし未視聴の方でこれから観るかもという方は、一通り作品を観てから閲覧することを強くお勧めします。)

 

 

 

『輪るピングドラム』(2011. 7-12月)、超面白かった。久しぶりに物語に没頭した。

全24話を3日間で完走した。ここ数日はわりと全てのリソースを割いてこの作品と対峙した。

幾原邦彦作品にドはまりした自分がいる。『少女革命ウテナ』を頑張る前に『ユリ熊嵐』に行こうかなと思う。

 

 

本作を批評するにあたって「フィクションの倫理の問題」を素通りするわけにはいかず、本記事の目的は『輪るピングドラム』において虚構が現実とどのように交渉しているかについて論じることである。

しかし、本記事の主題について語る前に、軽めな感想を2つ書いておきたい。

 

丸ノ内線と「生存戦略」の中毒性

 

一つ目。

個人的に、本作を経て得られた一番の成果は、東京メトロ・丸の内線への愛着である。

本作で登場する「Tokyo Sky Metro 荻窪線」は、荻窪と池袋の間25駅を結ぶ路線であり、要は現実世界での丸ノ内線である。

 

 

この丸ノ内線という路線、改めて路線図を見ると不思議な路線で、荻窪から東に出発したかと思えば、銀座で北上し、いつの間にかまた西に向かって池袋に到着する。

 

そして、荻窪から池袋に行くのに丸ノ内線一本で行こうとする人はおそらく誰もいない。

乗換案内検索アプリで荻窪から池袋に行くルートを検索したが、丸ノ内線一本で行くルートは提示されなかった。

この路線は、始発から終点までを乗る路線ではなく、目的地に行くために円滑に乗り換えするための路線である。

しかしながら、第1話で高倉家の3人は荻窪から池袋まで荻窪線1本で行っている。彼らは乗り換えをしないのである。

 

個人的な話になるが、筆者は数年前まで週に何回も丸ノ内線を利用していた。渋谷から銀座線で赤坂見附まで向かい、赤坂見附で丸ノ内線に乗り換えて本郷三丁目に向かう。駒場から本郷に行くにはこれが一番スムーズだと思う。両路線は同じホームの両側を通過するため、乗換が非常に便利である。ちなみに、東大には恋人を次々と乗り換えていくことを意味する「赤坂見附」というスラングまである。

 

 

佐藤俊樹は「『ピングドラム』は輪らない――幻想第三次の反転鉄道」(『ユリイカ』2017年9月臨時増刊号 所収)では丸ノ内線への印象から論を書き起こし、なぜ作品が<円環>や<回転>を強調するにも関わらず、円環をなすJR山手線ではなく丸ノ内線を作品のモチーフとして採用したのかを論じたうえで、『輪るピングドラム』は運命の円環の成就を放棄するという作品解釈を提示しているが、筆者は佐藤の解釈は的を得ていると思う。

不遜を承知の上で佐藤の議論に補足するとしたら、丸ノ内線は乗り換えをするための路線として非常に便利な存在であり、そこに丸ノ内線がモチーフとして使われるもう一つの必然性がある(※1)。「乗り換え」は作品の根幹に関わる重要な概念であることは言うまでもない(※2)。

 

 

 

二つ目は、「形式への希求」である。私は、作品の内容よりも形式の方がはるかに気になり、何度も反復される「何か」に強く惹かれる。

このことは『ポプテピピック』を論じた時に取り上げた。『ポプテピピック』はAパートとBパートで全く同じ内容を声優を変えて再放送するという形式を一貫して採用していたが、この<反復>という形式に視聴者は取りつかれていたのであり、そのことに自覚的になることが重要だという議論を行った。

内容と形式をどのように分けるのかは非常に難しく、正直私は恣意的に分けていると思う。韻文と散文の違い、程度に捉えてほしい。韻文、つまり詩は語る内容よりも語る形式――韻律や語数――を重視する。私の本業は詩であるから、どうしても語る内容よりも語られる方法、つまり形式の方に目が向いてしまう。

 

 

前置きが長くなった。『ピンドラ』において反復されていたものは「生存戦略」のバンクである。

毎話「生存戦略」のバンクがいつ来るか、いつ来るかと期待しながら作品を追いかけていた。

『輪るピングドラム』複数話より。(C)ikuni chowder, pengroup.

 

もちろん、物語の吸引力が強いために貪るように追いかけたのだが、それを上回るくらいバンクの中毒性にやられていた。

このバンクの凄さは文字にすることができない。とにかく見てとしか言えない。

繰り返しになるが、毎回「早く生存戦略始まらないかなあ」と思いながら見ていた。なので、後半に行くにつれて「生存戦略」がなくなっていったことに飢餓感を感じ、そこは少し残念だった。

 

 

ところで、前掲した『ユリイカ』の幾原邦彦特集号に収録された数編の『ピンドラ』批評の中で、『ピンドラ』のセクシャルな表現について本格的に言及しているものがないのはちょっとあれ?と思った。

性的なものは本作を語るうえで非常に重要な要素だと思う。シンプルに考えて、「生存戦略」は性交渉の婉曲表現であろう。

第1話の最初の「生存戦略」の提示において、「生存戦略、しましょうか!」の宣言の後、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルとなった裸体の陽毬と冠葉が交わる。

多蕗の子どもを孕もうとした苹果。苹果をレイプしようとした(といっていいと思う)ゆり。レズビアンのゆり。父親から性暴力を受けていたことを暗喩的に示していた第15話の幼少期のゆりの描写。

性交渉。「家族」がテーマとなる本作において、子供を作る行為の位置付けは大きい。

 

 

 

些か話が脱線したが、本記事で強調しておきたいのは「変身バンクがすごい」ということであり、今話数ではいつ出て来るのかなあと期待している自分がいた、ということである。そういう視聴者は多かったのではないか。

これが、自分が言う「反復される形式の虜になる」ということである。

 

 

<運命>の語り方

『輪るピングドラム』第11話より。(C)ikuni chowder, pengroup.

 

本題に入りたい。繰り返しになるが、『ピンドラ』を扱う上でアニメの社会的倫理の問題を素通りすることはできない。

「アニメが現実の問題を扱うときに、どのような描き方をすればいいのか」という問題である。

 

 

第11話のこの不気味なカットは、本作の特徴を端的に表している。

地下鉄と思しき空間で、赤い輪に彩られた「95」という数字がぐるぐると廻っている。

この場面に至るまで、「1995年3月20日」に発生した「事件」について何度も言及される。

 

 

本作は、地下鉄サリン事件を直接的に引用している。

作品世界ではあくまでも「爆発事件」ということになっているが、視聴者は否が応でも地下鉄サリン事件を想起する。

 

 

幾原邦彦は「作品を作ることが時代にコミットすることと無関係であるというのが耐えられない」(「愚者の讃歌」、前掲『ユリイカ』所収)と述べており、国文学者の千田洋幸は「千田が勝手に選ぶ『日本アニメベスト10』」において、幾原のこの発言を踏まえたうえで「本作はその意志が直接反映している」として、本作をベスト1に選んでいる(http://chidahiroyuki.seesaa.net/article/456035921.html)。

実際、その通りなのである。本作は1995年の地下鉄サリン事件と、1997年の少年A事件という現実世界の歴史的文脈を、何の躊躇いもなく虚構世界に召還してしまっている。

 

 

幾原はまたこのようにも語っている。

今の世の中を見ると、負のエネルギーのようなものが若い世代に塵のように積もっている、ように若干見えるんです。その原因を探っていくと、'95年のさまざまな現象について、このジャンルがまるで語ろうとしなかったことに愕然としたというか……。(中略)

[学生運動の時代が団塊の世代にとっては未だにタブーであるということを受けて]同じように'95年のできごとに関しては、僕たちの世代はほとんど語る言葉を持たない。いや、持てない、語れない、語り口をまだ見つけることができない。明らかに罪を共有しているからだ、無自覚に。だって僕らは未だに「超能力」や「未来のロボット」の話が大好きなんだよ?その感性は毒だね。その毒に、ほんの少しだけ近づいてみたかった。例え誰かが傷つくとしても。

(『Newtype』2013年3月号、藤津亮太「『社会派』としての幾原邦彦 講座『僕はこんな作品を見てきた。』より」から引用)

 

幾原は『輪るピングドラム』を通して、1995年の歴史的文脈、ひいては90年代末の閉塞的な空気感を2011年に再現してみせた。

再現したのみならず、きちんと向き合って語ろうとしていたと思う。それは、本作品の思想的強度の高さが証明している。

 

 

物語世界のあらゆるキャラクターが、「きっと何者にもなれない」自らの運命に抗い、もがき苦しみながら、懸命に願いを叶えようとする。あるいは、失ったものを取り戻そうとする。

 

冠葉・晶馬・陽毬の3人は懸命に家族の形を守ろうとする。

晶馬・冠葉は事あるごとに「すべては陽毬のため」とつぶやき、妹の命を助けようとする。

苹果は亡くした姉・桃果の残した「運命の日記」に従うことで、失った家族の形を取り戻そうとする。

ゆり・多蕗は幼少期の自らに<ピングドラム>を与えてくれた桃果を取り戻すべく、家族になることを選択する。

真砂子は兄とマリオを取り戻すべく、冠葉の周りを暗躍する。

物語の黒幕たる眞悧は、桃果に邪魔をされて断念した16年前の<革命>を成就すべく、呪いとなって生者を翻弄する。

 

 

それぞれの運命が交錯した結果もたらされたものは、運命の「改変」ではなく運命の「乗り換え」だった。

冠葉と晶馬の行動によって運命は乗り換えられ、新たなるテロ事件を未然に防ぎつつ、陽毬の命が長らえる未来を手に入れることができた。

しかし、その代償として兄は二人とも消滅し、陽毬の家族は全く別の形になってしまった。

それでも、ぬいぐるみからあるはずのない「お兄ちゃんの手紙」が見つかり、陽毬はわけもわからず涙を流してしまうのである。

 

 

選ばれた運命の外には、選ばれなかった無数の運命がある。

「あの時、こうしていれば」という思いは、どうしようもなく個人を苦しめるが、それでも運命は続いていく。

しかしながら、ピングドラム(愛、罰、痛み)を分有することで、運命を乗り換えることができる。

ただ、運命の乗り換えで全てを好転させることはできない。何かを手に入れることは、何かを失うことも含意する。

『輪るピングドラム』は、そのことを提示している。

 

「忘れる」か「語る」か

2018年7月6日、麻原彰晃を始めとするオウム真理教の元幹部ら7人の死刑が執行された。

残る6人の死刑囚の執行も年内になされると推定されている。

(「週刊朝日」https://dot.asahi.com/wa/2018071500004.html?page=3)

 

 

この日の報道の雰囲気は異様だったと思う。というよりも怖かった。まるで公開処刑のようだった。

平成が終わるまでに、次の時代に持ち越さないために、急いで忘れてしまいたいかのように見えた。

 

 

1994年に生まれた自分にとって、1995年の出来事は実体験としてはほとんど有していない。

しかし、『輪るピングドラム』という作品を通して、'95年の空気を追体験し、共有することができたように思う。

1995年と2011年をつなげてしまった『輪るピングドラム』は、平成の終焉にあたってもう一度参照されるべき作品だと思う。

 

 

フィクションが現実と交渉を持つときには、非常に繊細な配慮が要求されるだろう。

しかし、「忘れる」よりも「語る」ことの方が、はるかに良いのではないかと考えるのである。

覚えておくべきことを忘れないこと、それが物語の重要な務めではなかっただろうか。


 

 

 

※1:「もう一つの」と書いたのは、丸ノ内線は地下鉄サリン事件の現場となった路線の一つであるから、という必然性が当然ながらあるためである。

※2:2017年の夏学期に東大で行われた千田洋幸「文学部特殊講義」(通称:文学部オタク講義)のハッシュタグを遡る限り、千田が講義で本作を取り上げたときに、丸ノ内線に関して同様の言及をしたと思われる。