決して、決して「尊い」とは言わせない――『やがて君になる』 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

I. 

 

留学中も視聴をずっと心待ちにしており、帰国後真っ先にとりかかった2018年秋クールの作品は『やがて君になる』(2018. 10-12)だったが、本作はその期待に違わず丁寧かつ繊細に作られた素晴らしいアニメだった。

 

 

しかし、というよりも、であるから、幕切れが非常に惜しかった。最終回を視聴しているときに「あ、そこで終わるのか……」と落胆の色を隠せずにはいられなかった。

もちろん、投げっぱなしで終わってしまったわけではない。そこはさすが花田十輝と言うべきで、第1話から一貫していた水のモチーフをうまく活かしながら、綺麗かつ腑に落ちる着地をきちんと見せてくれた。それでも、やはり中盤辺りから本作は生徒会劇で終わるのだろうと予測していたから、水族館のデートで終わったことは純粋に意外だった。ただ、第12話くらいまで合宿をやっていたからこのペースだとやはり生徒会劇は厳しいかなあと薄々感じてはいたが。

 

 

少なくとも、本作は生徒会劇の件までは描かないと物語を終えることができない。だから、本作は起承転結の転で終わってしまった感がある。あるいは、これはフィナーレを残したまま交響曲が第3楽章で終わってしまった物足りなさである。

 

 

最終話「灯台」では、侑が燈子の手を引っ張り、水族館の出口、光差す方へと導くシークエンスがある。

 

『やがて君になる』「第13話」(C)2018 仲谷 鳰/KADOKAWA/やがて君になる製作委員会
 

 

侑が燈子の手をとって光差す方へ、という流れは幕切れでも繰り返し現れる。電車が終着駅に到着し、「先輩、そろそろ乗り換えですよ」と優しく燈子を起こそうとする侑の台詞は、燈子にとっての終着駅である生徒会劇のさらにその先で、今までの<私>とは違うアイデンティティをやがて獲得していく(新しい<私>へと「乗り換えていく」)ことを示唆している。確かに燈子の言う通り、姉がやりたくでもできなかった生徒会劇は終着駅かもしれないが、その後には乗り換えが待っている。そして、もうすでに<特別>の光を知りつつある侑はきっと燈子を適切に導いてくれる。

 

『やがて君になる』「第13話」(C)2018 仲谷 鳰/KADOKAWA/やがて君になる製作委員会

 

 

生徒会劇が終わったあと、燈子はきっと<君>になることができる。<君>とは具体的には(作品内では4番目の選択肢と名指しされていたが)お姉ちゃんのように完璧な<私>、引き出しにしまい込んだ元の何もない<私>、そして侑が大好きな<私>、これら多様な<私>の1つを選ぶのではなく、全てをうまく統合できた新しい<私>、つまり、見る人によって変わりうる多様な側面を持ち、時には矛盾する<私>のことを指す。劇の中の記憶消失の「少女」も、クラスメイト、弟、恋人が語る三者三葉のかつての<じぶん>のどれか1つを選んで成ろうとするのではなく、「今の私」のありのままを生きていくことを決意する。かつての自分も、今の自分も、多様な要素をなす自分の一部であることに変わりはないし、どれか一つを選択しなければならないわけではない。

 

 

ぜひ燈子に勧めたい本である『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書、1996年)のなかで、著者・鷲田清一はこのように述べる。

 

このような問い[<わたしはだれ?>という問い]にいったん囚われたら、ひとは一からじぶんで「じぶん」という存在のストーリーを紡ぎださねばならなくなる。あらかじめじぶんの属性を確定してくれるような財産なしに――ほんとうにない場合、奪われている場合もあれば、あるのにそれを拒絶する場合もある――、じぶんでストーリーを紡ぎだすしかなくなるのである。だから必死だ。これと決めた一つのストーリーにぐいぐいのめり込んでいく。そのことで、それ以外の可能性を忘れることで、じぶんをじぶんで支えるのだ。

 が、がんばったひとは不幸になる。このストーリーがいつか破綻してしまったり、あるいは完了してしまったときに、空白しかのこらないからである。[……]

 <わたし>とは、わたしがじぶんに語って聞かせるストーリーであるという考え方はしかし、わたしたちを救いもする。というのも、同じ人生でも、語りかたによって、解釈のあたえかたによって、ちがう相貌をしめしてくれるようになるからだ。わたしたちは物語を変えることで、ぎりぎりのところで生き延びることもできるのだ。」(174-5)

 

ここで述べられる鷲田の<わたし>観は、まるで燈子のことを語っているようである。突然いなくなってしまった姉に成り代わろうとする燈子は、姉のように完璧な人物をひたすら演じることで、自我を保とうとする。しかしながら、姉がやりたかったけどできなかった生徒会劇をやることによって、皮肉なことにも、燈子はようやく姉の模倣とは違う自分を獲得できるかもしれない兆しが出て来る。それは、燈子から見えていた完璧な姿だけが姉ではなかったこと、人は対人関係や社会的状況に応じた様々な貌をもつこと(キャラと言ってもよい)を、演劇を通してようやく燈子がわかってきたからだ。

 

そして、燈子が燈子でいるためには何よりも侑の存在が大きかったことは指摘するまでもない。燈子は侑に好きであることを積極的に伝えようとするが、それは「好き」ということで安心できるからである。「ほかが全部にせものでも、侑のこと好きな部分は私だって言い切れる。だから安心かな」と燈子は語るが、「恋愛」とは相手に認めてもらうことで自分を保つことのみならず、相手を好きになることで自分を認める行為であるということもここからわかる。

 

自分がとにかく不安定である燈子にとって、侑は救い主となる存在なのだ。それは、侑が<好き>を知らない、<特別>がわからないために、ありのままの自分をひたすら受け入れてくれる「世界で一番優しい存在」だからである。

 

 

侑のおかげできっと燈子は「やがて君になる」ことができる。しかし、最終回の場面で提示されたその後の時間は、「やがて」で明示される感覚よりは少し長いように思えて、「恐らく、そのうち君になる」という印象を受けた。だから、私は、物語の続きを心待ちにしている。

個人的には二期も当然嬉しいが、生徒会劇の挿話を中心に映画化してくれるといいなあと思う。

 

 

II. 

カナダの作家・Casey Plettは「トランスジェンダーのキャラクターについて書く前に、読みなさい」 

(https://www.cbc.ca/arts/before-you-write-about-a-transgender-character-read-this-1.3919848)というエッセイの中で、創作物でトランスジェンダーのキャラクターを描く際の注意点をまとめている。彼女はトランスジェンダーのキャラクターが物語を進める要因にすぎないような作劇の方法を否定し、当該キャラクターをもっときちんと人間らしく描いてほしいと主張する。そして、「私はシスジェンダー(身体的性別と自分の性同一性が一致する人)の作り手に、複雑なトランスジェンダーのキャラクターを書いてほしい。それは可能だ。」と力強く宣言する。

 

 

また、彼女はフィクションでトランスジェンダーの人物が描かれることの意義を以下のようにまとめている。

 

視認性はこのような議論の中で多数聞かれるバズワードだ。それらに通底する議論は以下のことを示唆するようである。もし、あなたが雑誌の表紙や映画の役柄にトランスジェンダーのキャラクターをより投入するならば(そしてそれらはシスジェンダーの人々によって演じられることになるのだが、それはまた別の議論だ)私たちの福利について考え、その結果トランスジェンダーの人々の実際の生活がより良く扱われることを、広く社会的に強いられることになるだろう。

 

フィクションの中でより生き生きとしたトランスジェンダーのキャラクターが盛んに描かれるようになると、オーディエンスはそれらの作品を通して新たなイメージを形成する。それが積み重ねられると、やがて現実世界に生きるトランスの人々への認識も変わっていくのではないか、と彼女は述べる。

まったくその通りだと思う。結局のところ、フィクションの役割は虚構を通して本質を知ること、それに尽きるとも思う。

 

 

さて、私は本論のタイトルに「決して、決して『尊い』とは言わせない」とつけた。なぜ「尊い」と言わせないのかというと、本作の恋愛描写は端的に言って「尊く」はないと思うからである。

 

 

プレットの議論を援用するために、本記事では便宜上LGBTQ+と一括りにしてしまうことをご了承願いたい。マイノリティのキャラクターを描いた作品群をきちんと取り扱う際には、マイノリティのイメージがマジョリティたる大衆文化の中で生産・消費されるということを常に意識する必要がある。だから「尊い」と呟く自分はシスジェンダーのヘテロセクシャルである(つまりマジョリティの一員である)ということに留意しておかねばならない、と思う。

だから、思考停止的に「尊い」という感想を漏らしてしまうことは、それこそ、(まるで物語初期の侑のように)本作で描かれる恋愛は映画や本の中で読む恋愛の形態であり、自分には関係ないと思っていることを暗に示す、断絶の言葉となってしまうように思えてならないのだ。

 


かつて『HUGっと!プリキュア』のえみるとルールーの初変身の話を扱った時に、自分が「尊い」を連発していたことを思うとはなはだ厚顔無恥な指摘だと思う。一貫性がないと非難されても仕方がない。しかしながら、侑を好きな気持ちは燈子の<私>に関わる重要な問題と常につながっており、それは彼女の内面で巻き起こっている苦闘でもあるということを意識すると、とても「尊い」と称揚することができないのだ。

それは、たとえ燈子が侑に夢中になっている姿がどんなに可愛らしくても、である。

 

III.

『やがて君になる』は規範的な異性愛を脱構築する。

 

 

「規範」 とは「それが普通」と世間一般に認知されているためにそれが支配的な力を持っている概念を指す。異性愛もこれにあたる。「男は女を好きになるし、女は男を好きになる。それが当たり前である。」そして、その「当たり前」から零れ落ちてしまった人は、社会的に抑圧されることになった。「女の子が女の子を好きになるなんておかしい」と。

 

 

だが、「規範」は本当に自明のものであるのだろうか。本当に異性愛が「自然」なのか。そもそも、「性別」を男と女の二分化で捉えることは適切なのか……等々、我々が「当たり前」と捉える規範の自明性に挑戦し、ジェンダー論やクィア理論はこれまでに様々な成果を上げてきた。

 

 

『やがて君になる』も、このような自明視されている異性愛規範に揺さぶりをかける。それは、ただ本作が女性の同性愛を扱った百合作品にカテゴライズされるということのみを意味しない。

 

 

『やがて君になる』が面白いのは、物語の構造的には必ずしも女性の同性愛を要請しないということである。これはきちんと説明する必要がある。

冒頭でも書いたことを今一度確認しておくが、なぜ男女に関わらず誰ともつきあわないと公言していた燈子が侑のことを好きになったのかというと、侑が<特別>を知らない、<好き>を持たない人間であるために、世界で一番優しい人に思えたからである。ここでのポイントは、侑が<好き>を持たないということが燈子にとって決定的であるということで、侑のそのパーソナリティさえ持っていればジェンダーはどうでもいいということである。ここでのジェンダーはあくまで副次的なものにすぎない。つまり、『やがて君になる』という作品はたとえ侑のジェンダーが男性であったとしても理論上作品が成立しうる、ということが言える。

 

 

『性同一性障害の社会学』の著者である佐倉智美は、本作が百合ジャンルの要素を満たし、身体的な関係性についても踏み込んだ表現がなされているのを認めながらも、本作の主眼が<好き><恋愛><特別な気持ち>に真摯に向き合って解きほぐしていくことにあると指摘し、「むしろ『やがて君になる』は、それらについて再考しやすくするために『性別』をいったん取っ払ったフィールドを用意してみたらソレが結果的に百合ジャンルと親和的だったと言ったほうが、もしかしたら正確なのかもしれ」ないと述べる(https://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/)。

 

 

私もこの指摘は正しいと思うし、『やがて君になる』は百合というジャンルの中でさらにもう一段階進んだことをやっている、とそのような印象を私は受けた。ところで、これを突き進めると本作は百合というジャンル自体も脱構築してしまいかねないが、それが結局のところ規範的異性愛に戻ってしまうのか、それともまた新たな姿を見せてくれるのか、それは私にもよくわからない。

 

 

もう一点。規範的な異性愛を脱構築していく例として、佐伯沙弥香もよく当てはまる。

第7話において、彼女は中学生の時に女子の先輩に告白されたことをきっかけに女性を好きになったことが明かされるが、先輩には「一時の気の迷いだった」とあっさりと否定され、振られてしまう。

第8話で偶然先輩と再会した沙弥香は謝罪を受ける。しかし、先輩は彼女を一方的な言葉で振って傷つけたことではなく、私のせいで沙弥香を女の子が好きな女の子にしてしまった、つまり、異性愛という<普通>の規範から逸脱させてしまったということを謝るのである。「もしも今も沙弥香ちゃんが女の子を好きになる人だったら私のせいだから……。沙弥香ちゃんも普通の女の子に戻ってくれてたらいいんだけど……」と。先輩のこの「謝罪」は、沙弥香を無自覚にもさらに傷つけることになる。なぜなら、今燈子が好きな沙弥香は<普通>ではないと言われてしまっているからである。<普通>という言葉はいともたやすく人を傷つける。

 

 

だからこそ、その直後に燈子と腕を組む様子を見せつける沙弥香は最も効果的な形で先輩に反撃を加えることができた。沙弥香の行動は、言葉でなじるよりもはるかに先輩に衝撃を与えたはずだ。そして、もしかしたら、<普通>という言葉で沙弥香を傷つける先輩は視聴者である私のありえた姿かもしれない。だから、本作の恋愛描写を見て軽々しく「尊い」と言うことは、どうしても私にはできないのだ。

 

『やがて君になる』「第8話」(C)2018 仲谷 鳰/KADOKAWA/やがて君になる製作委員会
 

 

IV. 

繰り返し述べるが、『やがて君になる』は印象深い作品だった。完全に余談だが、恋愛が個人の実存に絡む話は個人的に物凄く苦手意識があり(「大好きなあなたがいるからこそ今私は生きていけるの!」という感覚が全くわからない)、結局のところくっつかないと終わりを迎えられないラブストーリーという話の型自体がそれほど好きになれないのだが、それでも本作はたくさんのいい印象を残してくれた。百合というジャンルであったからこそ、本作は当たり前と捉えがちな一方、実はよくわかっていない<好き>の本質を浮かび上がらせることができたのである。

 

 

『やがて君になる』は、百合ジャンルの枠組みにただ押し込まれるべき作品ではなく、二人の少女が恋愛を通じてかけがえのない<私>を獲得していく成長物語として捉えなければならない。

 

 

本論では燈子のことばかりを述べて侑のことをあまり論じることができなかったし、まだまだ本作には考察の余地がたくさん残っている。だからこそ、物語のこの後をきちんと追っていきたいし、新作を心待ちにしている。

 

 

最後に、個人的にすごく好きな挿話を挙げて本論を締めくくりたい。それは、第10話Bパート「逃げ水」である。侑の中学時代の友人・菜月が語る「侑が愚痴るくらいいっぱいいっぱいになっているところ、初めて見た」という証言に、燈子との関わりを通して侑が変わってきたところが端的に明示されている場面が非常に印象に残った。

私は、人が変わることは大きな困難を伴うし、ましてや人を変えることは到底不可能であると思っている。しかしながら、恋愛はそのようなとても難しい「変化」を起こしうる強力な手段であると言えると思う。

 

 

燈子と侑の恋愛は、二人のこれからの人生に大きく関わる重要な恋愛であることは、少なくとも間違いない。