オランダの村で暮してました

オランダの村で暮してました

オランダ南部のお城村で暮らしたお節介からメッセージ
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ここでの政変から2か月以上が経過。先行きが見えなくなっている。

あれほど激しかった反対デモもここの周辺ではなくなった。まさに祭りが終わった後、のようである。

そんな中でバゴ―で100人以上の犠牲がでたとのニュースがあった。

なんともいえない気持ちである、なによりも若者にまず命を守ってもらいたい。

そして、非難を承知で書きたいことがある。

 

バゴ―のこの事変の後で、Mが発表したコメントはこうだった。

「木が育つためには雑草は抜かなくてはならない」

 

この国の(Mの)発展においてデモ隊は雑草だから抜いた、ということだろう。

 

『雑草』、敬愛する女史の党にとってはどうだっただろう。

私の少数民族の友人が2016年以降にいった。

「頭は変わったけれど体は変わらない」

考え方がかわっても行動が変わらない、ということである。つまり、ここの多数派民族が恩恵を受ける体制はかわらなかった。

うちに手づ台に来てくれている女性はインド・タミール系カソリックのシングルマザーで、曾々祖父母の代からここに住んでいる。ところが彼女の子どもたちは自動的にはここの国籍をもつことができず、彼女は親の代に引っ越してきた元の土地から祖父母の出生証明書を取り寄せなければならなかった。戦前の地方都市である。誰がそのころ病院で出生証明などとったか、、、お金でなんとかなる、と彼女はため息をついて、1年以上かけて子たちの国籍をとった。しかしである。ここの国には2つの国籍があり、一つは「正真正銘国籍」、一つは「移民がとる国籍」。うちのお手伝いをしている女性は未だに「移民がとる国籍」しかとれなかった、だから彼女の子どもたちは「移民がとる国籍」しかとれず、その子どもたちも。話によると曾祖父の代までに1人でもここの人の名前でない登録があると、「移民がとる国籍」しかとれない。中国系とインド系が特にイジメられているようだった。これは2016年以降も変わらず、変えようという気配もなかった、敬愛する女史だけは周りの。理解を得られないまま進めようとしていたようであるが。

 

少数民族に関しては私が支援しようと思っていた州でも2016年以降、なにも投資がなかったことでもわかる。難民がもどってきているジャングルの村でも学校ができない、登録されていないから「児童がいない」教育省は投資しない。主産業の農業だって、あきれるほど昔ながらの低生産性で、それに対しての投資もゼロ。2016年から変わったのは、民主化され、自由になったのは多数派の民族と、彼らが住む場所である。

 

今回のデモ隊の犠牲者はほぼすべて多数派民族の若者である。彼らは2016年、自由、経済的という恩恵を受けていた人々であり、命を懸けても守りたい、英雄的な気持ちになるであろう。それに比べて少数派民族は冷めているだろう。敬愛する女史の党が戻っても彼らへの恩恵は少ない。どうせ「頭は変わるだろうけれど体は変わらない」のだから。

 

今回のデモ隊の犠牲である若者がいった。

「今になって少数派民族の立場が理解できた」

Mにとって、自分たちも実は『雑草』だったと、いうことに気が付いたのだ。

 

↑のMのコメントを受けてか、今のモットーは

「木の花がすべて摘まれても春になればまた花は咲く」

である。

 

まずは木の枝はらいをして、風通しをよくして『雑草』も育ち花を咲かせるように、この国の夢、美しさはそんな共生であったはず。