脱皮の痛みを感じることがある。
私は人間だから生涯を通じて皮を剥がれることは無いけれども、精神的に脱皮を強いられることがある。
何だか切なく痛い。苦しい。

こんなことを思いながらテレビを見ていたら
映画監督としての北野武がテレビで興味深いことを言っていた。
何だかわかるような気になって、何だか妙に納得した言葉があった。
それは、北野武という天才と称される人もスランプに陥ることがあるらしい。
その時の様子を語っていたのがこんな感じ。
(再現ではなく、要約なのであしからず)

「…その時の自分はどこに向かうのか、どこに行くのか、何をしようとするのかわからなく不安に思う。その不安は次のステップに進もうとする時の不安でもある。
そして、その時にはなぜか痛みを感じる。その痛みとは、自分で自分の皮を脱皮してようとするそんな痛みなんだと思う」

人間の皮は自然に剥がれ落ちるのではなく、脱皮させないといけないんだとか。
ちなみに、どうでもいいことだけど、私は確実に人生の第3ステージに移行しようとしている事は実感している。いい意味でも悪い意味でも変化の数年を迎えているし、迎える事になる。

きっと何かわからない抽象的なこの痛みは脱皮の痛みなのだろう…と。

今の仕事も今年で10年。10年という節目はあると思う。
だから、動かないといけないんだろうな。

ちょっと話が変わるがこんな話を思い出した。
サスペンションに興味を持っていた知り合いの気持ちが何だかわかるような気がする。

サスペンションと言って体にマグロを釣るようなフックを引っ掛けて吊るという
身体改造の一種というかピアスの延長線上にあるものらしい。


実際に友人がサスペンションを経験したことがあるという。
自分でお願いして、サスペンションをしてもらったそうだ。

友人曰く、抽象的な痛みを想像して耐えるより、サスペンションでより実感できる痛みを感じてみる。
そうすることで、何かあってもその痛みに耐えれたから…という自分への経験に繋がるという。
だから、サスペンションに何で興味があるの?と聞くと「それはスピリチュアルなものだから」と即答していた。

実質的な痛みと精神とのつながる痛み。

この痛みはまさに“通過儀礼”として人を成長させると思わせてくれるんだろう。

でも、私は痛いの嫌い。
ピアスさえ空いていない。
サスペンションなんて無理。
きっと無理。
いやいや絶対無理

でも、私のどこかが痛いのは、知らないどこかが脱皮していると思いたい。