受験が終わって数年経った今、他の受験親と話していると、妙に思い出すことがある。

 

どの学校に受かったか、ということよりも、子どもと毎日話していた時間である。

 

受験を経験すると、親はどうしても「結果」に目が向く。

 

どの学校に受かったか。
努力は報われたのか。

 

もちろん、それも大事だろうが、今になって強く残っているのは、むしろ当時の日々そのもの。

 

幼い頃の子どもは本当に可愛かった。

 

公園で遊び、キャッチボールをし、一緒に風呂に入り、くだらない話をした。

 

だが男の子は成長する。

 

小学校高学年になる頃には、少しずつ親から離れ始める。

 

中学生になれば、父親とは必要最低限しか話さなくなる家庭も多いだろう。

 

実際、我が家もそうなった。

 

今の息子の部屋は驚くほど汚い。

 

こちらが話しかけても反応は薄い。

 

以前のようにキャッチボールをすることもない。

 

それは正常な成長なのだろう。

 

今振り返ると、子どもの受験の数年間は、少し特別だった。

 

一緒に問題を考える。
志望校を調べる。
模試の結果に一喜一憂する。
時にはケンカもし、励ましもし、作戦会議もする。

 

もちろん、主役は本人で、受験するのも、答案を書くのも本人である。

 

それでも父親は、伴走者として横を走っていた。

 

入試当日の朝の空気は、今でも覚えている。

 

まだ暗い駅までの道。
緊張している子ども。
何もできない父親。

 

受験は、子どもの成長の物語であると同時に、親の子離れの物語でもあるのかもしれない。

 

中学に入り、息子は友人との世界を持ち始め、親より仲間になる。

 

親に見せない顔も増える。

 

父親が深く関われる時間は、静かに終わっていく。

 

いまから思えば、あの頃は毎日、同じ方向を向いていた。

 

父と息子が「同志」になれる、最後の時間だった気がする。