明治41年に新羽杉山神社に合祀された熊野神社と皇大神宮はどこにあったのか
国土地理院地図(昭和41年)
・熊野社、皇大神宮の旧社地らしき場所が地図記号に残っている。
・北から熊野社(字中ノ久保)、神明社(字おい塚)、皇大神宮(字南)
現在の国土地理院地図
・熊野社は新羽小学校と中学校、皇大神宮は農地か林地、おい塚は現存
熊野社(字「中之久保」)
・風土記稿「除地、一段四畝、字中の久保にあり、本社三間に三間、拝殿三間に二間巽に向ふ、神體本地彌陀の石像にて長一尺許、例祭は七月二十三日」とあり、かなり立派な神社であったという。
・現在の新羽杉山神社の本殿は熊野社の本殿を移設したものであり、また境内社には熊野社の石仏等が残されている。
・旧社地については、現在の新羽中学校の校門付近であることはほぼ確実と言ってよいのだが、唯一、迅速測量図が当該場所に「大神宮」と記している(江戸時代の地図、「新羽史」の記述等からして、迅速測量図は誤記だろう)。
新羽杉山神社に残る旧熊野社の石仏等
風土記稿「神體本地彌陀の石像にて長一尺許」というがこれかどうか不明
県道13 号(横浜生田線)専念寺入口交差点を西に入り少し進むと北向きにこの道がある。この道は迅速測量図(明治初中期)にも見える。
この階段も古く、どうも裏参道の一部だったかもしれない
左が新羽中学校、右が新羽小学校。丘陵を造成して昭和50年頃に開校。造成時に専念寺裏遺跡が発掘された。このあたりに熊野社が鎮座していたようだ。
反対側の道で県道13号線に降りると「中久保」の中心地
皇大神宮(字「南」)
・風土記稿によれば新羽村には次の2社があった。
「神明社 除地、一段、村の南にあり、一間半に二間坤向なり」
「太神宮 除地、三畝、東の方おい塚と云地にあり」
・合祀した神社について県神社誌や新羽杉山神社HPでは単に「皇大神宮」とする一方でwikipediaでは「太神宮ー字おい塚にあった」とする。字面だけみればwikipediaの説が正しいように見えるが、神明社、太神宮、皇大神宮の名称だけで区別は困難である。「おい塚」の神社は現存し邸内社に近いこと、および新羽杉山神社の境内由緒書では「天照皇大神 (南 皇大神宮)」とあるのが決定的で、合祀されたのは風土記稿「神明社・・・村の南にあり」と確定できよう。
旧太神宮の社地は近づけない
おい塚(旧「神明社」)
・県道13 号(横浜生田線)から見える「おい塚」
・大炊塚(おおいづか)とも。旧家小山家の個人所有物で同家の先祖小山大炊之助の墓だという。江戸時代に塚上に神明社が祀られたために「神明塚」とも呼ばれる。
有料駐車場からフェンス越しに見える鳥居と石階















