矢向日枝神社(横浜市鶴見区矢向4-16-2)
(主祭神)
大山咋命
(相殿)天御中主神、天津神七柱、国津神五柱、豊受比売命
(社格等)
旧村社(旧矢向村の鎮守)
(沿革等)
当神社は、寛永15年(1638)に近郷七ヶ村(注1)の鎮守として日吉大社(滋賀県大津市)から勧請して創建したという(注2)。山王大権現、山王社等と称された。旧別当寺最勝寺が所蔵する棟札によれば文化七年(1810)までは七ヶ村で造営が行われたが、天保期末(1845)頃までには各村は離脱し、当神社は矢向村のみの鎮守となった。
鶴見川・多摩川の洪水により古記録、宝物類を流失。天保十四年(1843)に社殿再建。明治6年日枝神社に改称、明治42年に無格社十二柱神、神明社、稲荷社の合祀。
注1)近郷七ヶ村:矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上・下平間村
注2)風土記稿は、この伝承は「恐くはうきたる(疑わしい)説なるべし」とする
*新編武蔵風土記稿「矢向村」
【山王社】
村の東へよりてあり。六尺四方の社にて覆屋を造れり、前に拝殿あり三間に三間半、語り傳へに往古は社領三千貫文の地ありて、近郷市場江ヶ崎塚越古川平間等の村までなへて当社を鎮守とせしと。此説もし實ならんには昔はことに大社にして、最古き宮柱なるべし。されど此事ただ云傳ふるのみにて今聊蹤跡なきときは、恐くはうきたる説なるべし。或云村内神田と云小名は、当社領の遺名ならんと。さもありしにや。最願寺持。末社【天神稲荷合社】本社に向て右の方にあり。
【十二天社】村ノ南ニヨリテアリ上ニ覆屋ヲタツ村内正楽寺モチ
【伊勢宮】村ノ西北江ケ崎村ノ境ニアリ小祠ナレト社地ノメクリ二囲余ノ古松アルヲ以見レハ古キ鎮座ト見エタリ
(立地等)
鶴見川(左岸)と多摩川(右岸)に挟まれた地域であり、主に氾濫平野からなる平地であり、海抜は2mから3m。鶴見川に近い地域であるが多摩川を水源とする二ヶ領用水を利用していた。多摩川下流域は洪水被害が多く流路も定まらなかった。
当神社は、微高地(自然堤防)上に立地しており、多摩川の旧流路の西岸に面している。最願寺の観音像が多摩川を流れて「矢向の川岸」に漂着したとの伝承もある。
国土地理院地図
(黄色:自然堤防、青横線:旧流路、薄緑:氾濫平野)
明治末頃の測量図
一の鳥居
・鳥居前を手前から向いに横切る道は、二ヶ領用水の町田堀跡ではないか。
二の鳥居(2002年建立)
御神木の銀杏(横浜市指定の名木・古木・樹齢160年と言われる)
社殿(2015年に大改修工事=実質新築)
狛犬(文化二年(1805)奉納)
境内横に並ぶ石祠(十二天在神・天照皇大神)
旧別当寺の最勝寺
・道を挟んで向かいにある。
・最願寺は宗延慶山実相院といい、創立は延慶元年(1308)と伝わる。当初は真言宗だが慶長年間(1596-1614)に浄土真宗に改めた。
最願寺の板碑(鶴見区役所掲示の要旨)
・板碑は、緑泥片岩で碑高165㎝弥陀三尊の種字及び観無量寿経の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と、延慶2年(1309)2月9日の銘がある。
・「新編武蔵風土記稿」には「古碑一基 境内墓所ノ入リ口ニアリ 青石ノ板碑ニテ 長四尺余 幅一尺許ナリ 延慶二年二月九日ト記セリ 寺伝ニ往古真言宗ナリシ時ノ開山ノ墳ナリトイヘリ」














