世田谷区の烏山神社の住所の旧表示は、旧烏山村の小名「泉澤寺」である。
世田谷吉良氏は、戦国時代に世田谷城と蒔田城を有し、泉沢寺(川崎市中原区)は砦として整備されたとされている。
歩いたコース
大戸神社(川崎市中原区下小田中1-2-8)
(主祭神)
手力雄命(天岩戸を開けた神、信濃国戸隠神社の祭神)
(社格等)
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(沿革等)
・永正年間(1504-1521)、内藤匠之助(世田谷吉良氏の家臣内藤豊前の舎弟とされる) が吉良氏の支配地であった当地(下小田中村)に移住した際、信濃国戸隠大明神を勧請し創建した。
・寛永16年(1639)社殿建立・再興(新編武蔵風土記稿によれば棟札あり)。
・明治39年に下小田中にあった稲荷社・天神社等を合祀。
(立地等)
北原街道沿い。JR武蔵中原駅近く。
*小田中
・多摩川低地(沖積平野)。北部を中原街道が東西に走る地区で要衝。
・かつての稲毛庄の一部で中世以前は「小田中郷」と呼称。支配者の交替が多いが戦後期は世田谷吉良氏の影響下にあった(支配下となった経緯は不明)。当時の世田谷吉良氏は世田谷城と蒔田城を有していた。
・江戸期はほぼ天領。内藤氏は帰農し名主。将軍の鷹狩りなどに用いられた。
中原街道とは
・戦国時代の東海道は中原街道がメインルートであった。1590年の徳川家康の江戸入府の際も中原街道を通過したと言われている。
・江戸時代の東海道整備後、虎ノ門と平塚中原とを結ぶ脇街道「中原街道」と呼ばれた。小杉、下川井、中原に御殿が作られると、将軍の駿府往還や鷹狩などにも利用
社殿と狛犬
大砲の弾を抱える狛犬
(日露戦争の戦勝祝いに従軍兵士が奉納)
社殿
・寛永16(1639)年に建立。関東大震災倒壊したが3年有余を経て復興。
拝殿には、龍などの立派な彫刻がみられる
泉澤寺(川崎市中原区上小田中7-20-5)
*烏山神社は泉澤寺の旧寺地の鎮守という関係にある
(宗派等)
・浄土宗(知恩院末寺)/本尊:阿弥陀如来
(沿革等)
・1491年、武蔵国多磨郡烏山(世田谷区)に世田谷吉良氏の菩提地として創建。
・1549年に焼失。世田谷領主吉良頼康が当地(上小田中)へ移転・再建。世田谷吉良氏は世田谷城と蒔田城を持ち、泉澤寺は砦であったという。
・江戸期の寺領20石、近隣に多くの末寺を擁した中本寺格の寺院であった。
(立地等)
・小杉村の境に接する神地にある。北原街道と二ヶ領用水が交差する場所。
・泉澤寺は砦であったがその遺構はほぼ消滅。二ヶ領用水の一部が旧水堀とされる。
・神地の市として有名(参照:世田谷ボロ市)
本殿〔安永7年(1778)建立)
文化財。仏像は彼岸期間は拝観できるようだ
門前の石仏たち(銘文は判読困難)
北原街道の名物クランク(小杉御殿のカギ道)
・小杉御殿の防衛のためあえてクランク化
・新道建設中で早晩開通しそう。
大正11年測量図
西明寺(川崎市中原区小杉御殿町1-906)
*安穏寺(世田谷区上祖師谷)は当寺の末寺にあたる。
(宗派等)
真言宗智山派(京都智積院の末寺←江戸末期以前は醍醐三宝院の末寺)
(沿革等)
・創建年代不詳(奈良時代とか鎌倉期とかの説もある)
・元は有馬村(川崎市宮前区)に所在していたが移転。
・江戸時代は小杉御殿の隣接地であり徳川家の崇敬を受けた。
・大正13年に本堂消失した際に古文書も失われ古来の由緒は不明となった。
(立地等)
・北原街道の小杉御殿脇。多摩川南岸、丸子の渡しの近い場所。
・寺号碑の奥に「大師遍照金剛」と刻印され塔上に智拳印を結ぶ大日如来の坐像を戴せた石塔(高さ3m)が立つ。江戸期のもの。
・寺号碑が立ってしまい正面からの撮影が困難となってしまった。
仁王門(新しいそう)
山門
本殿(昭和9年新築、大正14年に焼失)
(要約)世田谷吉良氏の流れ
・吉良氏は、清和源氏で鎌倉幕府御家人の足利義氏(1189-1255)の庶長子を祖とし、所領は三河国幡豆郡吉良荘。吉良家は足利氏に次ぎ、今川家を上回る格式を有する
・吉良家は、三河吉良家(本家筋、更に東西に分かれる)と奥州吉良家(のちに武蔵吉良家、世田谷の吉良家)に分かれた。三河吉良(西)は戦国時代に滅亡、同(東)は赤穂事件で改易。奥州吉良家は世田谷と蒔田を本拠としたが北条氏敗北後、世田谷城を放棄。蒔田氏として徳川幕府の旗本(高家)として幕末まで存続した。
・奥州吉良家が小田中を支配していた経緯は不詳。
























