行徳街道

・江戸時代に整備された街道。現在の今井橋付近と行徳橋付近を結んだ。

・行徳塩田*からの輸送手段として「行徳船(航路)」を整備(1632年)。日本橋小網町の行徳河岸から隅田川を横断、小名木川、新川、江戸川で行徳に至った。
・貨客の定期航路であり、成田街道や木下街道に向かう旅客も乗船した。

・木下街道へは、現在の行徳橋付近(当時は陸続き)から稲荷木を経由して八幡宿で合流。木下は、利根川沿いの村(印西市)で銚子、香取、鹿島、成田の中継点。

・成田街道までは、伊勢宿あたりで東に曲がり、田尻を抜けて海神で合流した。

 

*行徳塩田:江戸時代は関東最大の塩田で幕府直轄領。明治以降は台湾の低廉な製品に圧され衰退。1917年の高潮被害もあり政府による整理対象となり農地転換が進んだ。戦時中に一部復活したが、戦後のキティ台風で壊滅した。
 

河原春日神社(市川市河原6-20)

(主祭神)天児屋根命

(社格等)村社

(沿革等)1527年創建、江戸川放水路工事に伴い1914年に当地へ遷座。

(立地等)行徳街道および集落は旧江戸川の自然堤防上にあり、周囲の低地は水田として利用。現在の当社は行徳橋手前に立地。江戸川放水路建設以前は「行徳町大字河原58番地西側鎮座」。古い地図で江戸川放水路で消滅した神社を探すと、行徳橋北側の河川域(河原と大和田の間)に見つかるので、たぶんこれであろうか。

 

 

 

 

船の墓場:旧江戸川左岸の河原水門の船溜まり

・行徳街道から旧江戸川沿いの緑道を歩くとみられる

 

下新宿の廃団地 不思議ときれいに廃墟化している

 

行徳神明(豊受)神社(市川市本行徳1-10)

(主祭神)豊受大神

(社格等)村社(江戸時代は総鎮守)

(沿革等)16世紀初頭、山伏の金海法印が伊勢神宮外宮を勧請して江戸川対岸(中州・現在の篠崎あたり)に小祠を造立。1635年に当地に遷座にあたり大社に。欠真間より高谷に至る14または15ヶ村の総鎮守。現在は5地区の鎮守。

(立地等)行徳街道沿い。この近くの交差点(寺町通り)を進むと成田街道に至る。

 

境内入口

・行徳街道沿い。行徳街道は交通量が多いが狭い。

 

神明鳥居

 

扁額

 

狛犬

・古そうだが奉納年月などは読めず

 

 

石灯篭

・文政二年の文字あり。1819年。町人文化が発展した年代。

 

 

拝殿

 

本殿

 

江戸名所図会より抜粋

・意外と現在の配置と同じである。

 

旧江戸川に、数か所の小型船の造船所がある

 

王子マテリアル江戸川工場

・現在は古紙再生による白板紙を生産。

・元は本州製紙の江戸川工場(1922年創業開始)。1996年新王子製紙と合併。
・1958年、本州製紙江戸川工場から放流された黒い排水により漁業被害を発生させた(「江戸川漁業被害」)。製造過程で生じた水質汚濁がかねてより問題となっていたが、1958年に導入したケミカルパルプ製造装置から大量の黒褐色の排水が発生。漁民は漁業被害を訴え排水停止を要求。一方で、工場長は中性。無害として放流継続。
・漁民は抗議行動を行い工場に押し掛けたが警察と衝突。漁民側には重傷者が出るなど事態は激化。抗議行動が大規模化し社会も注目するに至る。

・千葉県及び東京都が試験をしたところ、酸性度が高く使用した魚が全滅した。

・国会で問題となり、旧水質二法が改正された。江戸川下流の再生事業も開始。

 

旧江戸川の下流方面

 

常夜灯(市川市指定有形文化財第1号)

・1812年に江戸日本橋西河岸と成田山参拝講中の人々の航路安全を祈願して建立。
・行徳船(航路)は1632年に16隻で運航開始、1848年時点で62隻あった。

・高さ4.31mの石造り

 

 

江戸名所図会「行徳船場」

(左下)常夜灯(→次の画像で拡大) (右上)名物ささやうどん

 

拡大

 

笹屋うどん跡(建物)

・1854年建築。行徳街道の通行人や行徳船場の乗降客が立ち寄る繁盛したうどん店。干しうどんを土産にする人も多かった。明治時代には廃業。

・十返舎一九も立ち寄ったとか。源頼朝との深い関わりが伝わる(?)。

 

市川市行徳ふれあい伝承館(国重要文化財の建物)

・1929年完成。室町時代末期に浅子周慶が創業した浅子神輿店の建物であった。
・浅子神輿店は、元は仏師。神仏分離後は、神輿製造に軸を移した。1877年の南千住の素盞嗚神社、富岡八幡宮の大神輿が有名。明治大正期の東日本の江戸神輿の半数は当店が制作。近隣の後藤神輿店とともに行徳は神輿の一大産地となった。しかし、
両神輿店とも平成になり廃業に至った。現在は建物保存と博物館として利用。

 

クランク状の道が旧街道の宿場町らしさを残す