中央道の稲城ICの南東側に「府中市押立町」があるのだが、多摩川の対岸にも「稲城市押立」がある。面白そうなので散歩してみた。

 

京王線西調布駅から約500m南下すると若宮八幡神社に到着

 

若宮八幡神社(調布市上石原3-5-2)

(主祭神)仁徳天皇→通例は応神天皇だが皇子の仁徳天皇を祀るため「若宮」

(社格等)社格なし。江戸時代は上石原村の鎮守社

(歴史等)創建年代不明だが、延宝4年(1676)以前の創建との言い伝え。

 

大鳥居

・古多摩川が削った崖(府中崖線)上に鎮座している

 

崖下には「府中用水」が流れる。境内との高低差が顕著。府中用水は、古多摩川の流路を利用して江戸時代に開削された農業用水路。

 

 

 

社殿(調布市重要文化財)

・総けやき造りで、ほぼ全面に彫刻がほどこされ、優美で格調の高い社殿

・武蔵国入間郡中藤沢村(現・入間市)の宮大工、杉田石見頭政永・喜兵衛が建築

 

境内は立派な樹木であふれている

 

押立本村神社(府中市押立町4-35-3)

(祭神)   天照皇大神、稲蒼魂命、素戔嗚尊

(社格等)なし

(歴史等)当社の説明板によれば、口伝として万治年間(1658-1661年)の洪水により多摩川の流路が変わり村が南北に分断された。北岸「本村」(府中市押立町)、南岸を「向押立」(稲城市押立)と呼称された。また、明暦年間(17世紀後半)に奉行の川崎氏が新田を開発、押立の本村に俗称天王さまを祀ったと伝わる。

 

社殿

 

 

府中市立押立文化センター(玄関横)の石碑

・本件石碑によれば1596年の洪水により押立は南北に分断されたという。

 

この図は南北が反対。ピンク部分は古多摩川の流路であり、地形は崖線である。

 

押立神社(府中市押立町4-31-15)

(主祭神)稲蒼魂命

(社格等)なし

(歴史等)江戸初期に(現)京都伏見稲荷大社の分霊を勧請し多摩川のあたりに鎮座した。正保年間(1644-1648)の洪水で社地を流失し当地に遷座した。

 

 

 

数少なくなった公衆電話。神社近くで見かけることが多い。

 

 

 

稲城大橋よりの下流側の展望

・左岸が府中市押立町、右岸が稲城市押立。

 

稲城大橋を渡る

 

 

島守神社(稲城市押立678)

・現在は稲城大橋の袂の下流側(土手近く)に鎮座

(主祭神)天照大神

(社格等)なし

(歴史等)創建年代不明。江戸時代は「神明宮」(村の西外れ)または「押立上関無格社島守神社」とされた。概ね稲城大橋に続く道路を境に上流側を「上関」、下流側を「下関」とする字名が残る。1882年に現在の場所(下関)に遷座した。

 「島守」の名称から、かつては多摩川の中州にあったとも。現在の稲城市押田は「押立新田」として開発された地域である。

 

社殿

 

洪水を想定した高床式なのであろうか。

 

(参考)押立村の分断

・江戸時代初期頃のこの周辺は、洪水が頻発して多摩川の流路がかなり変動していたようである。①本村神社の口伝は1658年~1661年、②文化センター石碑は1596年、③島守神社では1661-1672年である。④国交省京浜河川事務所の資料における大型の洪水は1590年となっている。安土桃山時代末期と、江戸初期の2回、大きな洪水があったようだ。またかつてはこのあたりの多摩川は南北に分流していた。

 正直、すっきりしないところが多い。資料自体が乏しいだから仕方がない。ただ、地形的にみれば(ハザードマップ)、多摩川の流路の北限は府中崖線で、南側はJR南武線であろう。この間で流路が変動したとみられる。ちなみに「押立の渡し」は戦後まで続いていた。