国立ハンセン病資料館は、ハンセン病問題に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者とその家族の名誉の回復を図ることが目的。東村山市の所沢街道沿いの国立療養所多磨全生園内に設置されている。

 

明治から戦後(つい最近)までの日本人による、同じ日本人に対する、科学的知見を無視した残酷な差別の歴史が示されている。

 

(資料館の建物)

 

(企画展)常設展も含めて、1時間は軽く要した

(母娘遍路像)

玄関前に置かれている。患者は、病気を知られず、迫害から家族を守るため遍路になった者もいた。遍路となった病者は、四国遍路の「お接待」でその日の糧を求めた。

 

ハンセン病は、弱い菌であり、乳幼児期の親などから濃厚接触で感染するもので、成人での感染はまれといわれている。症状は、皮膚発疹と抹消神経障害であり、この病気が死因となることはないとみられる。ただ、神経症状や傷などの悪化から外面上の影響があるため、迫害の対象となった(一説には大谷刑部)。

 

歴史的には、仏罰説(法華経に記述あり)、血による説(遺伝説・武家社会の成立)があるが、1873年にノルウェーの医師ハンセンが原因菌を発見した。その後、1941年に米国で特効薬である抗菌剤プロミンが発明された。戦後、東大でプロミン合成に成功している。その後、研究開発が進み多剤併用療法が確立し、半年から1年半で通院で治療できる病気となった。

 

日本では、皇族、宗教者による救済活動が行われ、明治初期も同様であった。1907年に欧州に倣って「らい予防法」を制定し、強制隔離・不妊手術を実施。その後、世界では早期患者の強制収容は不要との方向に緩和されたが、日本では反対に、1931年に患者全員の強制収容が実施された。日本では、当初は、町中に患者が浮浪している様子を外国人には見せたくないという趣旨で出発したが、1931年に至っては、社会防衛策として自宅療養の者を警察を使ってまで強制収容した。

 

戦後、1953年、すでに特効薬があり、また、成人の感染などしないことがわかっていたにも関わらず、法改正を行い、より徹底した強制隔離策を行った。1996年に「らい予防法」をやっと廃止。

 

施設では、医師も看護婦も少数で、患者が患者を看護し、農業や身の回りの仕事などに従事した。栄養状態も悪く、また、「反抗的」との理由で懲罰房に入れられるなど無茶苦茶であった。死んでも所外には出されず、当初は土葬だったが場所が足りず、所内で火葬。共同墓を患者でつくりそこに埋葬した。

 

なお、ハンセン病の新規患者数は、インドやブラジルなどを中心に世界で年間20万人超となっている。一方で、国内の日本人ではゼロまたは1名程度だが、海外出身者の発症が確認されることがある。弱い菌であり、衛生環境と栄養状態の改善や啓蒙が予防策となる。ワクチンは開発されていない。

 

らい予防法下での90年は、人権侵害のオンパレードで、蹂躙した個別の人権カタログをあげるのが難しいくらいだ。憲法学者や弁護士会、日本学術会議などがどうしていたのか知りたいでの調べている。なお、左翼の憲法学者曰く「当時は、憲法9条のような重要な憲法問題があった」と弁解したとか。彼らのやり口である。