前回、多田神社(中野区)に行った際に、Google mapに「国府道」という名称が記載されていた気になっていた。手元の古道の書籍やネット検索でも直接的な情報が得られない。また、Google mapの根拠も確認しようがない。まずは実査してみた。

 

地下鉄丸ノ内線の方南町を起点として、google mapで「国府道」の記載を追っていくと、概ね方南通=国府道であり、西は大宮八幡宮周辺で終わる。その先は「人見街道」。人見街道は歴史が古く、この先は府中市の浅間山のあたりに行きつく。

一方で、東側はどうなっているか。地下鉄丸ノ内線の方南町駅を起点にして、方南通りを新宿方面に向かうとすぐにファミマを右斜め入る道がある。これが国府道。緩やかに下り、神田川を角田橋でわたる。なんとも古道らしい雰囲気の道。

(角田橋で神田川を渡る)

 

道なりにしばらく進むと左手に多田神社の鳥居が現れる。

1092年に創建。源義家が後三年の役で出征の途中、当地で先祖の源満仲(多田満仲)の武勲を思い浮かべ戦勝祈願。凱旋時に大宮八幡宮に神鏡を奉納するとともに、源満仲を祀る神社を建てた。当社は雑色村の鎮守。「雑色」とは、大宮八幡宮の雑務(雑色)をこなす住民の居住地が由来。雑色村は大宮八幡宮とも深い関り。

 

境内の「雑色村と多田神社」という説明看板には「鎌倉街道と伝えられる古道が両神社~雑色地域の間に通じていたともいわれています」とある。

 

この後、南東から東に進むが、南台4丁目(小さな神社)の交差点を左・北方面に進む。坂道を上ると、東方面に方向がかわる。ここから「みなみ台」商店街。駅から遠いのに長い商店街であり、昔は街道筋であったことを伺わせる。

幡ヶ谷氷川神社

創建年代不明だが、永禄年間(1558年~1569年)の後北条氏の文書には既に記載されており、かなり古そう。

長い商店街を概ね東に進むが、ファミマ幡ヶ谷本町店で分岐して、東南方面へ。そうすると、地蔵橋跡が出てくる。

現在は暗渠化されている和泉川(神田川の支流)

少しいった交差点を左折。東に向かっていくと山手通り。

「関東国際高校」の交差点である。これをわたり、向かいの細い道に入る。すぐに左手に入っていくと、クランク上の道になる。これも古道あるある。方向は北だが道なりにいくと東方向になる。

急坂を下ると、十二社通りに出る。

(熊野神社)

当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に創建されたものと伝えられている。この周辺は鈴木九郎が開発した場所で、少なくとも当時は道があったことは確実だろう。

国府道が十二社通りに飛び出た場所。

このあと、西新宿のビル街を北上していく。これも国府道とされている。もともとのカーブなのか、大規模開発時にこういうカーブいしたのかわからない。

青梅街道に出たところで終了(成子坂下)。

 

新宿駅西口の再開発が進んでいた。

(旧小田急百貨店)

(旧スバルビル)

 

(まとめ)

中世の東京の主要街道は、古東海道及び鎌倉古道である。鎌倉古道は、要するに武士が鎌倉に向かえばみな鎌倉街道なので、複数の伝承があり特定が難しいといわれる。今回みるべきは、中道であり、その中でも、渋谷・新宿を北上するルートと世田谷を縦断し大宮八幡宮を経由した後、いったん東進し方南町あたりで北上するルートであろう。多田神社の伝承からすれば、方南町の国府道は鎌倉街道中道から分岐した道ということであろう。全般的には淀橋台地を通過するが、神田川と和泉川を通過するために尾根を下って登るを繰り返す。最後に、鎌倉街道に合流している。見方を変えれば、ふたつの鎌倉街道ルートの短絡ルートになっているように見える。青梅街道は江戸時代初期に開設されたので、この国府道は重要だったのかもしれない。なお、青梅街道と神田川の交差する「淀橋」は鈴木九郎が掛けたもので、それ以前にはなかった。神田川は今よりは大きかっただろうから、どこで渡渉するかは大きな問題だったかもしれない。以上はあくまで妄想。

 

結局、甲州街道が開設される以前、新宿や渋谷あたりから府中に行くルートであったのであろう。たぶん、神田川を渡る都合などからいったん南下して、現在の方南町駅あたりから、現在の方南通りを大宮八幡まで向かい、そのあとは既存の人見街道に接続したのではなかろうか。