堰稲荷神社(川崎市多摩区堰2-5-20)
(主祭神)
倉稲魂命/天照大神
(社格等)
-(旧堰村の鎮守)
(沿革等)
創建年代不明。境内の碑によれば江戸中期創建とする。
*新編武蔵風土記稿「堰村」「稲荷神明合社」
「村の中央にあり。本社五尺に六尺拝殿三間に二間、共に南に向ふ、當村の鎮守・・・勧請の年代を傳へず、稲荷の神體は右の手に寳珠を持左の手に劔を握り白狐に腰うちかけし木像にて長六寸許の女體なり、安産守護の神にして昔より今に至るまで村内に難産の者をきかず、他村の者といへどもかりに當社を産神とするときは又難産の患なしと云、神明の神體は長七寸許の立像なり、龍厳寺の持」
風土記稿の描く姿は「荼枳尼天」(江戸時代の作例)に類似する

(立地等)
・堰村は、家康入府前の頃、元武士7人による開墾にはじまる(境内「参道拡幅完成記念碑」によれば1594年に上保谷村から移住した6家が開墾したとする)。地名は水田に水を導入するための堰に由来との説がある(風稿)が場所等が不明。
・当地域は、多摩川の旧流路と二ヶ領用水等に囲まれた土地で水には困らないがむしろ湿田で苦労したという。堰稲荷神社は村の中心に立地し、その北側の道は旧堤防である。この堤防があるため堰を設けて農業用水を得ていたと想像はできる。
・現在の堰一丁目はかつて堤外地で砂地であったため戦前から桃や梨が産地であったが、戦後、県立向の岡工業高校が建設されると宅地化されていった。
国土地理院地図
明治39年測量図では、旧流路が明瞭に示されている
社殿
(参考)多摩川の流路の変遷(登戸・宿河原・堰)(各種資料より整理すると)
・この地域の多摩川流路は天正18年の大洪水、江戸中期の洪水の影響を受けた
(1590年以前)現在の二ヶ領用水(本川)・多摩丘陵の麓を流れていた
(1590年以降)流路は北遷し概ね現在の流路。但し、当地域の詳細は次のとおり。
・中野島~登戸(自然堤防・堤防):登戸新町あたりは河川敷
・宿河原:現在の二ヶ領用水(宿河原用水)沿い、北側は河川敷など
・2011年に宿河原の旧家で発見された「玉川絵図」(享保から宝暦(1716〜1763)頃)によれば、当時の多摩川は宿河原駅よりも南側を流れ、現在の二ヶ領用水(宿河原用水)の八幡下橋近く(緑化センター)に二ヶ領用水の取水口があったとする。
(18世紀後半)寛政期頃に現在の流路に収束
・宿河原→八幡下橋→堰に流れていた流路(旧流路)は、八幡下橋までが二ヶ領用水(宿河原用水)に組み込まれ(取水口が現在地に移動)、後半部の流路は支流的なものとなっていった(現在も一応は流路跡は辿れる)。
八幡下橋から旧堰村まで多摩川の旧流路を辿ってみた
・天正18年から寛政期までの多摩川は、宿河原堰から宿河原駅南、八幡下橋、堰村まで南側を流れていた。前半部分は二ヶ領用水(宿河原用水)、後半部は流路跡。
多摩川旧流路は、二ヶ領用水八幡下橋から50mほど上流(南武線との接近した場所)で北側(南武線を越えて)に分岐していった。
南武線の反対側(北側)の旧流路相当部(送電鉄塔が目印)
多摩川旧流路の旧堤防と南武線と送電線の鉄塔(登戸線)
旧堤防下(旧流路側)
桜が植栽された旧堤防
送電線が旧流路上に張られている
梅林、高架橋は東名高速道路。
登戸線8号鉄塔
東名高速のガード下を越える。堤防は戦後平坦化されたという。暗渠を辿る。
(左)築50年のマンションだがまだ綺麗(3000万円台)
(右)県県立向の岡工業高校(風土記稿の「長池」のあった場所で湿地であった)
現在の多摩川右岸の堤防と合流
堰入樋管で現在の多摩川堤防に合流していた
現在の堤内を振り返る。江戸時代からこのあたりでは一番低い土地で湿地であったが戦後は干上がり「長池」の痕跡はないらしい。
多摩川(下流方面)
下流に向かうと「宇奈根排水樋管」
・旧流路は、両方の樋管の間のどこかであったのだろう
堤内の道路へ。この道は「堰稲荷神社」近くを通過する。
























