馬絹神社は、明治43年、女體権現社に近隣の八幡、三島、熊野、白山の各社を合祀し

て成立した。今回は、この被合祀社を参拝した。

 

小台八幡神社(川崎市宮前区宮前平2-15)

・現在は八幡神社と稲荷神社が併存している。

 

(主祭神)

応神天皇

 

(社格等)

―(馬絹村西部の鎮守であったと考えられる) 

 

(沿革等)

創建年代等不明。江戸時代の境内は馬絹村と土橋村の境界にあり入会地も混ざっていた。両村が各々の八幡社を建立していた(少なくとも本殿は2つあったのだろう)。
明治43年に神社統制令に基づき馬絹神社に合祀されたが、その後(時期不明)、「更に分け宮として奉斎」したという。風土記稿では、両村の八幡社が並立していたと伝わるが、現在は八幡社と稲荷社が並立している。

なお、馬絹分の八幡社は馬絹神社に合祀され、土橋村分の八幡社は土橋神社に合祀された。土橋側が再度分祀されて戻った記述はないため、現在は旧馬絹分だけか。

*「別宮」が「≒分祀」「≒遥拝所」らしいのだが私は納得できていない。

 

*新編武蔵風土記稿
〇馬絹村「八幡社」:「村の西の方土橋と入會地にあり、川勝主税が采地に屬せり、前にいへる如く二社の地域混じてあり、當村の地三畝地頭の免除なり、社前に拝殿あり一間半に二間南に向ふ、例祭九月十二日村民の持なり」
〇土橋村「八幡社」:「村の東馬絹村の境にあり、鳥居より社まで一町余の坂なり、この道半は当村の地にて半は馬絹村の内なり、土人是を片大門と号す、八幡の社二社たてり、一社は馬絹村の持にて、一社は当村のうち、長坂血鑓九郎が知行に屬せり、是は社地一畝免除地なり、例祭は九月十二日百姓持」
*長坂血鑓九郎
・初代長坂信政は松平三代(松平清康、広忠、家康)家臣。「鑓」で功名をあげ「血鑓九郎」と称された。子孫は江戸期旗本として存続。「血鑓九郎」は子孫が名乗った。
 

(立地等)

宮前平駅の北側、旧大山街道沿いで多摩丘陵の谷である矢上川の段丘斜面に立地。

(迅速測量図(明治初中期))

・「八幡祠」が現在の中台八幡神社、水色は矢上川。

・緑線:大山街道。八幡祠から東の急坂が八幡坂(この先は溝ノ口まで行く)



石碑(経緯的なものはこれによるしかない)

 

 

小台庚申塔(正徳四年(1714年))

・馬頭観音のようであるが、足元に三匹の猿がいるので、庚申塔である。

 

 

石段は2段階存在

 

2つの社殿(多摩丘陵面に達している)

 

小台八幡神社

 

小台稲荷神社(由緒不明)

 

 

八幡坂 この先、左に曲がりさらに登っていく

 

 

 

三島大明神・秋葉神社(参道入口は川崎市宮前区馬絹6丁目11 馬絹交番近く)

 

 

明治39年測量図にのみ掲載されている。

・左〇は村役場、右端あたりが馬絹神社、前面に矢上川。丘陵斜面に立地。

・矢上川の支流が本流に合流するデルタ地帯の高台で、ザ・神社立地

 

 

丘陵上部に鎮座

 

新編武蔵風土記稿「馬絹村」「熊野社」に「村の艮の方にあり・・・・村内三島明神と隔年なり、泉福寺持。」とあるのみで、三島大明神及び秋葉神社の記載はなく由緒不明。

 

南側の展望

 

馬絹白山社(川崎市宮前区馬絹5-1176)

 

 

(概要)

馬絹神社に合祀され白山神社がどこにあったかは不明。しかし、現在の馬絹白山神社には「馬絹神社 白山神社」名義の看板(竹林内立入禁止)の存在、ネット上には八幡神社と白山神社が馬絹神社の別け宮であるとの記述もあり、旧白山神社が合祀後さらに当地に分祀(別け宮)されたと解しても不自然ではないと思われる。また、矢中稲荷は馬絹神社の奉賛会によるものであり、馬絹神社との密接な関係を示唆する。なお、風土記稿の「村の中央」の稲荷社は特定されていない。

 

(立地等)

昭和7年測量図

・現在地は、矢上川右岸(南側)の段丘斜面の字矢中の中心地に立地している。

・馬絹神社からみて矢上川を越えた南側にあたる。

 

丘陵斜面につけられた旧な石段

(左)白山社 (右)稲荷社

 

白山神社

 

 

矢中稲荷神社

・社殿内には「豊川陀羅尼真矢」の提灯。豊川稲荷(仏教系)系なのだろう。

・敷石に「明治辛未年」とある(明治4年/1871年)

 

熊野神社はどこにあったか

・新編武蔵風土記稿「馬絹村」の「熊野社」は「村の艮の方にあり・・・・村内三島明神と隔年なり、泉福寺持。」と記すのみである。

・江戸期の字の分布などから照らすと、「三又」集落あたりにあったのではないかと推測できるが、特定することができない。

・馬絹神社では、熊野社は境内に「熊野神社」という石碑が建立されていて特別な感じを醸しだしている。これは他3社が合祀後に分祀又は別宮しているのに対して戻るところがなかったからかもしれない(推測)。なお、三又集落は戦時中に陸軍に接収され住戸が集団移転している(別途アップ予定)。