牛込神楽坂駅→矢来町ハイツ→矢来公園(小浜藩邸跡)→(天神町北野神社)

 

明治39年測量図

・矢来町の一帯はかつて小浜藩主・酒井忠勝の下屋敷があった。

・明治末の測量図でも「酒井邸」がある。後に興銀(現在のみずほ銀行)の社宅。

 

矢来町ハイツ(跡)

・2024年まではみずほ銀行の社宅であり、牛込神楽坂駅から徒歩5分の広大な敷地に9棟が建つ。戦後、旧興銀(第一勧銀と富士銀行と統合)が取得し社宅とした。

・2024年にみずほ銀行の社宅制度廃止に伴い、現在は有姿のまま閉鎖されている。

・2025年3月期の有価証券報告書では次の通り開示されいる。

 

〇矢来町ハイツほか(東京地区ほか)社宅+寮

土地:面積19,385㎡、帳簿価格7,167百万円、建物 5,656百万円 動産等208百万円

・他にも含まれるから一概には言えないが土地単価37万円/㎡はかなり低いだろう。

・地図から計測すると矢来ハイツの敷地は14千㎡ほど、地価は最低120万円程度。
 

ちなみに、杉並区の柏の宮公園にある「茶室(林丘亭)」はここにあった。

・ 寛永年間、若狭小浜藩主酒井忠勝が新宿区矢来町にあった酒井家の江戸下屋敷内の池畔に、小堀遠州に命じ造営したものと伝えられています。のちに酒井家の江戸屋敷の一部が旧日本興業銀行矢来寮になり昭和34年、当時の頭取が武蔵野の面影を残すこの地に茶室を移築復元し「林丘亭」と名づけたと言われている。

 

”銀行”の社宅は質実剛健(外装は地味)に造るのが鉄則だ。しかし、この社宅、都内屈指の立地、敷地の使い方、建物の印象は、「さすが興銀さま」という印象。興銀の英語名はIBJ(Industrial Bank of Japan)。かつて東大卒業生は、大蔵省・日銀・興銀という時代があった。そんな興銀も、バブル期には大阪の料亭女将に多額の融資をして回収不能となるなど(それ自体が経営影響はないが)、しょうもないことを余儀なくされるに至り、ついてには3行統合で生き残るしかなくなった。興銀入行組が現在トップであるが、行員の大半は興銀を知らない世代。そういう意味でいうと、矢来町ハイツの閉鎖は、興銀時代の最後の幕引きなのだろう

 

秋葉神社(新宿区矢来町1-9)

・矢来ハイツの北東角に近い場所の住宅街にポツンとある。

・寛永年間(1624-1644)まで牛込寺町(神楽坂6丁目付近)に鎮座。その後、矢来町の酒井若狭守家の邸内に遷座、邸内社となったという。

・明治になり開放。戦後、酒井家が矢来町秋葉神社奉賛会に無償譲渡。

 

社殿は縦に長細い

 

 

狛犬(明治4年奉納)

 

狛犬の台座「小日向水道街」の銘

・小日向水道町のことであろう。1656年に成立した町。神田上水に因むか。

・現在は、文京区小日向一・二丁目、水道二丁目、音羽一丁目。明治大正期の地図をみると水道町は赤城神社の北側、神田川の南側である。

 

 

正雪地蔵尊(秋葉神社の境内内)

・地蔵の形ではなく石棒みたいなもので、キリシタン灯籠だとの説もある。

・近隣にあったとされる由井正雪の屋敷付近で出土したとかいう説もあるがよくわからない。なぜか酒井家が保管していたらしく、秋葉神社を開放したとき(戦後の譲渡のときか)についてきたもののようだ。

・由井正雪の乱(1651年)は、三代将軍家光の武断政治(大名の取潰し)による浪人の増加・不満の増大を下地として、家光死去を契機とした幕府転覆計画が密告により露見した事件だが当時の大老は酒井忠勝である。なんだかよくわからない。

 

 

 

矢来公園(新宿区矢来町38)にある小浜藩邸跡の石碑

・酒井家は徳川時代を通じての有力譜代大名。小浜藩は自然災害などに苦しめられるも幕末まで存続。戊辰戦争で降伏し新政府軍の先方として東北まで転戦した。

・明治維新後は小浜藩知事となった。

 

横側には「杉田玄白生誕地」

・『解体新書』で有名な蘭方医杉田玄白は、この小浜藩の藩医であった。