学びの本質とは何か…
人によって考え方はそれぞれだと思いますが、
私にとって学びとは、
未知のものへの好奇心と、それを知ろうと様々なアプローチをすること、そして得た知識を糧に、新たなる未知に挑戦していくこと。
つまり、真理の探求です。
私はいわゆる「勉強」は好きではありません。
ノートにびっしり単語を書いて知識をつめこみ、早く正確な計算をするためにひたすら計算練習をする、ということが子どもの頃から苦手でしたし、意味を感じられませんでした。
なんか…、訓練みたいで楽しくなくて
それは今も同じで、
単純な知識量や早く正確な計算を身につけたところでコンピューターには到底敵わないのに、意味はあるのだろうか?と疑問に思ってしまいます。
とはいえもちろん、知識や計算も重要です。
ないと日常生活や仕事で困りますし、学習の大事な土台になります。
ただ、知識量や計算の早さは人生において最重要な点ではないと考えています。
(特に大人になったら、検索したり表計算ソフト使えば良いから、最低限できれば困らないと思う…)
人生という長い目で見た時、学びに関して一番大切なのは、探求心。
真理を追い求める気持ちだと思っています。
私が大学で学んだことで、一番心に刺さったこと。
それは、「博士号」の意味。
「博士号」は、日本語では医学博士とか工学博士とか文学博士とか…、専門分野ごとに分けられていますが、
英語表記は全てDoctor of Philosophy (Ph.D.)です。
つまり、どの専門分野の研究者であっても、みな哲学博士です。
これは、学問が元は哲学から派生したものであり、学問とは真理を探求することであるからだそうです。
このサイトの説明がわかりやすいかも↓↓
そう、学問とは、「哲学」であり、「真理の探求」なのです!
辛い訓練ではなく、人生や森羅万象について考えたり、好奇心全開でワクワクする冒険のはずなんですよ
そして、ここからが本題。
息子達を見ていて、
「学びの本質を見ている気がする」
と、よく思います。
疑問に思って知ろうとする。
観察したりあれこれ試したりする。
ひとつ分かったら、また次の疑問がわいて、新たなことを知ろうとする。
これはまさに、真理の探求
学問のあるべき姿ではないか!!と思ってしまいます
子どもはみな、Doctor of Philosophy かもしれない。
それに相応しい素質を備えている。
今は、この小さな博士達が、思う存分「学問」に打ち込めるように見守っていきたい。
そして、その先に何があるのかを一緒に見てみたいと思う毎日です。
それでも、小学校に入ったら、いわゆる「勉強」もしないといけないわけです。
これから学生として生活し、のちのち受験などの試練に挑むためには、「勉強」も避けて通るわけにはいきません。
そんな中でも、息子達には「学びの本質」を忘れないでいてほしいと、切に願います。
それはきっと、「勉強」にも役立つものとなるでしょう。
それでも、もし…、
息子達が、「学びの本質」を忘れてしまったら…。
そしてかつての私のように「勉強」に意味を感じられなくなったなら、私は息子達にこの言葉を贈りたいと思っています。
「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」
~太宰治「正義と微笑」より~
「パンドラの匣」「正義と微笑」収録の本↑
果たして、息子達がこの言葉から何かを汲み取ってくれるかは分かりませんが、
「勉強」した経験は、きっと無駄にはならないのだと、思ってもらえたら嬉しい。
とにかく、今後どんなことがあっても学ぶことに否定的にならないでほしい、学ぶことをやめないでほしい、と願っています。
(長男の入学を前に、これまで溢れんばかりに持っていた「学ぶことは楽しい!」という気持ちが失われてしまわないか、不安いっぱいの母です…)
できることなら今のまま、学ぶことを楽しめたなら最高ですね…
一生、学びを楽しみ、豊かな人生を送ってくれたなら、そんなに嬉しいことはありません。
まぁとにかく、息子達よ、頑張って「哲学」しながら生きていくのだぞ…
↓いつか息子達と読みたい絵本。きっとまだ、難しい。
私が子どもの頃、父が勤めていた中学の教科書にこの物語(あるいは、詩の方?)が掲載されており、父の予習のため家でこの朗読テープが流れていました。あらすじ以外の細かい内容は忘れてしまったけれど、私が「哲学」を知り、興味をもつきっかけになったこと、好きだったことは、忘れられない思い出です
子どもの思考や人生観の形成に、親の影響って大きいですね。