2023年の7月に、この本の感想を書いたのですが、

なんというか、うまくまとめられなかったんですよね。

 

いつもまとまってないだろ、というもっともなツッコミは置いといて。

で、先週感想を書いた、

三宅香帆さんの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

と合わせて読むと、改めていろいろ考えたことがありまして、

今回、もう一度感想を書くことにしました。(前のは削除)

 

最初にお伝えしておきますが、褒めません。たぶん。

 

「早送り」も「なぜ読め」(う~ん、いい略が思いつかない)も、

ざっくりまとめると、

結局忙しいとか、情報が世の中にあふれすぎてるとかいうことなんですよね。

 

だが大きく違うのは、

「なぜ読め」は著者をふくめ、本を読みたいのに

時間がなくて読めない人向けで、

 

「早送り」は、映画やドラマを早送りして見る人を読者として対象にしていない、

という点だ。

こちらは「早送りするなんて、どういうこと?」と

思っている人向け。

著者自身も、そういう立ち位置である。

 

で、まあ私も早送りして観て、楽しいのかなあ、とは思う。

それはやっぱり本当にその作品を味わっているとは言えないのでは? とも思う。

 

だが、稲田氏の意見にはほとんど賛成しない。

それについて具体的に書きます。

 

まず、セリフで説明する作品が増えた、とあるけど

前からあったと思います。

 

例えば1980年代の大映ドラマとか。

 

このドラマシリーズ、セリフだけではなくて、ナレーションでも説明していました。

演出や演技も大げさで、ストーリーもトンデモ展開。

わかりやすくて当時の子どもや若者に大人気だったけど、

私は本気で観なくていい番組だと思っていました。

 

稲田氏も年代的に、あの手のドラマを観ていたのではないかと思うのですが。

 

 

それから、先に結末を知りたい、という人たちのことも

理解できないそうですが、私も先に知りたい派です。

ネタバレとか、全く気にしません。

 

なぜそうなのかはうまく説明できないのですが、

あえて言えば

「本当に優れた作品は、先に結末を知っても面白さは目減りしない」

という妙な?自信があるからです。

 

古典文学など、ふだんの生活の中であまりなじみのないジャンルは、

先にあらすじを知っておいたほうが読みやすい。

先に結末を知ってしまっても、

優れた作品ならば絶対に面白い。

このブログで感想を書いたものでいうと、

「罪と罰」とか「アンナ・カレーニナ」とか。

 

「そりゃ、古典の場合はそうかもしれないけど」と言われそうだが、

まず、予習したい派もいるのである。

 

ついでに言うと、私は本なら先にあとがきとか解説を読むタイプだ。

これも、特に理由はない。

 

稲田氏は

「何か大事なものと引き換えになっている感も否めない」(P55)

と言うが

これはもう、価値観の違いなので、

どちらが正しいとかはないのだ。

 

なんかもう、食事のときに

好きなものから食べるか、最後に食べるか、ぐらいのことなんでない?

 

違うことを認め合い、受け入れるほかはないと思う。理解はいらない。

これはほかのことにも言えるが。

 

 

 

他にも、映画を監督で観ない人が多いことについても書かれていたが、

なぜ監督で観なければならないのでしょう。

 

私はわりと監督とか脚本家とか気にするけど、

そこまで別に気にしない人もいるだろう。

 

それはそれでいいのではないか?

 

 

 

う~~~ん、この本にも書かれているように、

今は映画やドラマなどの映像を気軽に観られるようになった。

そんなに映画などを好きではない人たちも

とりあえず観るようになる。

 

その結果、本気の映画、ドラマ好きとは違う観かたをする人が可視化されたわけだ。

 

それは仕方ないわなあ。

稲田氏はそれを「鑑賞ではなく消費」と言っているが、

それも仕方ないですよ。

 

実は私は、どうして稲田氏が終始、悲観的なのかよくわからない。

 

そりゃあ、とりあえずいま流行のものだけ早送りで観て、

とりあえずまわりの人と話題を合わせるだけ、という人もいよう。

それも仕方ない。

 

私は別に投げやりになっているわけではなくて、

その人にとっては、映画などのフィクションは

人生においてすごく重要なものではないのだろう。

 

その人にはその人なりの、他に大切なものがあるのかもしれない。

もし、何もなかったとしても、

そこはもう、他人は立ち入れない部分だ。

安易に立ち入ってはいけないというか。


 

 

で、ここで三宅香帆氏の「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

の一文を紹介したい。

 

「映画を早送りで観ても(略)、それはもしかすると、

自分の外側にあるノイズである文脈であるーー

遠いけれどいつかは自分に返ってくるかもしれない文脈ーー

の入り口かもしれない」(P231)

 

早送りで観て消費しただけの映画、監督さえも覚えなかった映画、

そういうものがいつかどこかで巡り巡って、

その人の人生に少しだけ彩りを添えるかもしれない。

それは素晴らしいことではないか。

 

将来の彩りのために映画を観ているわけでもないが、

まあ、あまり悲観的にならなくてもいいと思いますよ。

 

上にも書いたが、大事なのは、自分とは全く違う価値観を持っている人を認め、

受け入れることだ。

稲田氏は理解したいようだが、無理して理解しなくてもいいと思う。

 

理解できないなら、理解できないまま尊重し、受け入れる。

それでいいと思うけどなあ。

 

そして、作り手のほうも、早送り派に迎合せず、

「早送りしない人に向けて、これからも作るだけ」(P113)

と、頼もしいことを言っている。

これもまた素晴らしいじゃないか。

 

 

あれ?

最初はもっと厳しいことを書くつもりだったけど、そうでもなくなったな。

ははは。

 

そしてやっぱり前に書いたことと同じような結論になった。

ま、いっか。

 

あ、評論が読まれないということに関しては、私もよくない傾向だとは思ってます。

でも、三宅氏のように若い評論家も出てきた。

(この方は主に書籍の評論ですが、映画やドラマについても書いている)

うん、やっぱり悲観的にならなくていいと思いますよ。