あ~、もうダメだ。

この世には夢も希望もない。いいことなんてもう何もない。

 

そんな殺伐とした世界で生き残る道はひとつ。

 

それは「傷つけられた!」「差別された!」と大声で叫ぶことだ。

被害者、被差別者の側に立つのだ。あるいは彼らの代弁者になる。一刻も早く。

 

そうすればまわりはびびって思考停止状態になり、道をあけてくれる。

叫んだ側は何も失うことはなく、正義の立場になれる。

向かうところ敵なしだ。

 

……はあ……。

 

そんなむなしい気持ちになってしまいました、この本を読んだら。

 

今、私たちの社会はフィクションなどの何らかの表現に対し、敏感になっている。

社会的弱者やマイノリティに対し、差別的になっていないか、偏見がないかなど、

非常に気を使っている。

 

それ自体はいいことだと思う。

だが、それが行き過ぎるととんでもないことになってしまう。

この本はそれについて具体的な事例をあげています。

 

アメリカのごくふつうの家庭が、

子どもの誕生パーティーを日本趣味風にし、SNSにアップした。

一般家庭なのだし、お箸を使ったり、着物を着たりという他愛ないものだ。

 

だが、これに一部の人たちが激怒した。

日本人が怒ったのではない。アメリカ人が怒ったのである。一部の、だが。

 

なんでやねん、とみなさんは思うだろう。

私もそう思う。

 

なんかね~、「文化盗用」とかそういうのなんだって~。

他の国とか地域の文化をいじっちゃいけないんだって~。差別なんだって~。

知らんけど。

 

とまあ、気の抜けた言いかたでもしないと付き合っていられない。

 

とにかくこの本は、そういうエピソードがてんこ盛り。

 

カナダの一部の大学生たちはヨガのレッスンをボイコットしようとしたそうな。

彼らによると、ヨガもインドの風習を盗用しているからだという。

 

ほ~ん。

 

ああもう、私が冒頭でこの世には夢も希望もない、

と言った理由がおわかりいただけたと思う。

 

もちろん、こんなことを言っているのは一部の人たちだけである。

しかし、その一部の人たちの大声にみんなおびえてしまう。

 

誰だって、自分が差別する側だと思いたくない。

公平で、優しくありたいと思う。

 

そこを突いてくるのだな。

「あんたは差別主義者だ! ほかの国の文化をバカにしている!!」

といきなり大声で叫ばれたら、そりゃ怖い。

 

そしてそう叫ぶ側も、目的はいじめではない。

本気で自分たちは正しいと信じているのだ。

 

だから余計やっかいなんだが。

 

ところで以前から思っていたのだが、

「マツケンサンバⅡ」は差別なんだろうか。文化盗用なんだろうか。

 

この曲はサンバではない、ということは以前から言われていた。

もっとも私は音楽には疎いので、

サンバの何たるかを知らないのだが。

 

サンバの本場(あ、韻を踏んでしまった)の人たちは黙認しているのか。

 

そもそもサンバ以前にいろいろ変すぎる歌だ。

着物着たちょんまげの人に「セニョリータ」って言われても、あんた…。

 

とまあ、ツッコミどころ満載の歌ではある。

 

だが、この歌は圧倒的に楽しい。

いさぎよくバカバカしい。聞くほうも酔いしれたほうがいいに決まってる。

まじめにツッコミいれるほうが愚かだ。

 

差別とか、文化盗用とか叫ぶ人たちに足りないのは、

そういう心のゆとりとか、ユーモアであろう。

 

なんでもかんでも笑いとばせ、と言っているのではない。

本当に差別的でひどい表現も、残念ながらこの世界にはある。

 

間違った表現だと指摘せねばならないものと、

そうではない「文化の混交」といったものを見極める目と心を養わねばならない。

 

まずは「マツケンサンバⅡ」を楽しむ気持ちが大切なのだ。

 

それは、「差別だ!」と叫ばれた側も同じである。

 

本書ではそういう脅しには「敢然と立ち向かわなければならない」(P212)とある。

確かにそうだ。

こちらがオドオドしていたら、見くびられる。

 

立ち向かう決意をしたあと、

「俺にはマツケンサンバⅡがある!」と思えば心にゆとりができる。

 

このゆとりとユーモアこそが、最後に残された希望であろう。

 

追伸 来週は諸事情により更新はお休みします。

次回更新は4月23日の予定です。