先週、感想を書いた「六の宮の姫君」についての作品。

 

山岸先生って、色んな出版社から色んなかたちで単行本を出されてるんですよね。

短編集だと、出るごとに収録作品がごちゃまぜ。

 

例えば収録されている作品5本中、4本まではすでに出版されているほかの単行本で、もう持っている。

でも残りの1本だけ読んだことないわ~。気になるなあ。

その1本のためにその本を買うの? てなことがよくある。

 

今回の「二日月」は9本中6本も、単行本を持ってない作品だったので、

すんなり購入を決めました。

でもまだまだ短編集はたくさん出てるのよ…。これからどうなるかしら?

 

さて、この「朱雀門」という短編。

ひと言でいうと「まんがでわかる六の宮の姫君」ですな。

 

単純に小説をまんがにした、というのではなく、

山岸先生なりの読み解きがあり、

まんがの中の人物(この小説を読んだ中学生と、その叔母)の内面も綴られる。

 

姫が「不甲斐ない魂」の持ち主である、というのは芥川が創作したものである。

 

それについてこの本を読んだ中学生のヒロインは、

「芥川版の小説の解説者は、

『芥川が姫君を蔑んでいる』」と言う。ヒロインもそう思っているらしい。

 

しかしヒロインの叔母はさらりと

「それが芥川龍之介のすごいところよ」と述べる。

 

解説者を否定?

いやいやいや、そんな軽い話でもないのですが。

 

流されるまま生きた姫君は、結局自分の「生」を満足に生きていない。

それでは「死」も実感できない。

 

芥川龍之介がいいたいのはそういうことではないか?

と叔母はいうのである。

 

おお、なんだかわかりやすいというか、腑に落ちるというか。

 

そういうテーマというか、根幹にかかわるようなことをいきなり言われたとしたら、

こちらも少々困る。

 

きちんと生きろ!てな、暑苦しいメッセージになってしまう。

「ま、そうっすね」ぐらいしか返事ができないではないですか。

 

しかし、物語の中で言ってくれるとわりとすんなり入ってくる。

なんでしょうね、これが物語のちからってことなんでしょうか。

 

大事なメッセージをストレートに言うよりも、

少し遠回しに言ったほうが、上手く読み手のこころに入っていくこともある。

 

でも、時には読み手もどう解釈していいのか解らないこともあるのだなあ。

「何が言いたいのかな~、このお話は…。なんか意味はありそうなんだけど」てなことになる。

 

名作といわれるものは解釈が多様だったりするし、

読み手がまだ若かったり、読書経験が浅かったりすると、

どうにもこうにも困ることも時にはあるのだ。

私もよく困っている。

 

そういうとき、こういった「読み解き」系の作品はありがたいな。

 

もちろん、この作品は山岸先生の解釈である。

 

ひとつの解釈を読んだからといって、

それに縛られてほかの読みとりかたが出来なくなる、なんてことはない。

 

むしろ、ほかの読みとりもあるかもしれない、と可能性を残してくれる。

優れた解釈というのはそういうものでもあると思う。

 

山岸先生は他にも「解釈系」ともいえる作品を描かれていますね。

むかし話の「二口女」とか、

少しずれるかもだけど、バレエの「ジゼル」についてとか(まんがのタイトルは「ヴィリ」)。

 

いやあ、キャリアの長い方は本当にいろいろ描かれているなあ。