高校時代、僕にとってサッカーは人生そのものでした。どんな日でもボールを蹴っているときだけは、心の底から充実感を味わえたのを覚えています。僕はそれだけサッカーに真剣に向き合ってきたつもりでした。「勝ちたい」「負けたくない」という思いは、チームメイトの誰よりも強かったと自負しています。
しかし、僕が所属していたのは強豪校ではありません。県大会で1、2回戦を勝ち進むのが精一杯のレベルの学校でした。それでも僕は、限られた環境の中で全力を尽くし、どうにかしてチームをもっと強くしたいと考えていました。高校サッカーの最大の舞台である選手権大会での勝利は、僕にとって夢そのものでした。
選手権での県予選1回戦敗退、そして感じた孤独感
選手権が始まり、僕たちのチームは運よく、1試合勝てば毎年優勝している強豪校と戦える山に入りました。その知らせを聞いたとき、僕は興奮を隠せませんでした。「ついに自分たちの実力を試せる」と思い、全力で練習に取り組みました。
しかし、結果は1回戦敗退。試合終了の笛が鳴った瞬間、心の中が真っ暗になりました。強豪校と戦えるチャンスを失ったこと、そして何より、負けたという現実がただただ悔しかった。
僕にとっては人生で一番大切な試合だったかもしれません。しかし、周りを見渡すと、チームメイトたちの顔に深い悔しさは感じられませんでした。試合後のロッカールームで、みんなはどこか晴れやかな表情さえ浮かべているように見えました。それを見た瞬間、僕の中で怒りが湧き上がりました。
「どうしてこんなにも悔しくないのか?」
「負けたのに満足するなんてありえない!」
そんな思いが頭をぐるぐると巡り、どうしようもない感情に飲み込まれました。
顧問との衝突、そして部活を辞めた理由
その後、試合から数日が経ち、悔しさがさらに膨れ上がった僕は、サッカー部顧問に直接訴えました。僕なりに真剣に考えた結果、チームがもっと強くなるためには、顧問の指導が鍵だと思ったのです。だからこそ「もっと勝つための練習を真剣に指導してほしい」と直談判しました。
しかし、顧問の口から返ってきた言葉は予想外のものでした。
「大切なのは過程であって、結果ではない」
その言葉に、僕は深く失望しました。「勝ちたい」と思う気持ちは、サッカーに打ち込む上で何よりも大切だと信じていた僕にとって、顧問の言葉は理解できませんでした。結果を求めずして、何のために努力するのか?それを言っていいのは、決勝まで勝ち進んだチームだけではないのか?僕の中で不満が爆発し、顧問と言い合いになりました。
その場を収めるために話し合いは終わりましたが、僕の中で何かがプツンと切れた感覚がありました。翌日、僕は部活を辞める決断をしました。両親に辞める理由を伝えたとき、母は涙を浮かべ、父も無言のままでした。その姿を見て「この判断は間違っていたのだろうか?」と感じつつも、戻る気にはなれませんでした。
今でも考える、あの時の選択
部活を辞めた後、僕は心の中で葛藤し続けました。「顧問がもっと勝利にこだわってくれたら、自分は辞めなかったのではないか?」と責任を外に求めていた時期もありました。しかし、時間が経つにつれ、僕自身にも問題があったのではないかと思うようになりました。
確かに僕は「勝利」にこだわる姿勢を持っていました。でも、それは自分の価値観を押し付け、周囲の意見に耳を傾けない独りよがりなものだったかもしれません。顧問の言葉には、勝つことだけに固執しないでサッカーそのものを楽しむという別の価値観があったのだと思います。そしてそれを理解できなかった僕には、他人の考えを受け入れる「我慢」が欠けていたのです。
結局、僕の行動は間違いだったのか?
あの頃の僕の選択が正しかったのか、それとも間違いだったのか、今でも答えは出ていません。ただひとつ言えるのは、世の中には自分とは異なる価値観を持った人々がたくさんいるということです。そして、その価値観の違いを理解し、共存していくためには「我慢」や「受け入れる心」が必要だということを、あの時学ぶべきだったのだと思います。
もしこの記事を読んでいるあなたが、僕と同じように何かに全力で向き合っている人なら、ぜひ覚えていてほしいことがあります。それは、どれだけ真剣であっても、自分の考えが全て正しいわけではないということ。そして、時には他人の言葉に耳を傾け、受け入れることも大切だということです。
僕はそのことを、もっと早く学ぶべきだったのかもしれません。
この物語はフィクションかも。。
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