この組織の何事においても、どのフェーズにおいても主体性を持ちたい。
そう思ったのが現在の立場、役割を選択させた一つの理由でもある。
その実現には何が必要か。
どのように心掛け、アンテナを張り、行動すればよいか
私なりに考えて到達した着地点は
「どんな問題においても、自分に責任を転嫁させる。」
というものであった。
ある選手が走れていない。
私のせいだ、俺が共に問題解決に向けて歩み寄れてないせいだ。
組織の雰囲気が悪い。
私のせいだ、いち早く不穏な芽を感知し、それを摘む事が出来なかったせいだ。
情報の共有が出来ておらず、何名かを困惑させてしまった。
私のせいだ、どの情報を流すかの選択を誤り、かつ迅速な行動を怠ったせいだ。
とまぁこんな具合に。
ふと立ち止まって考えてみると
自分の先見スキルの甘さ
判断基準の不明瞭さ
優先順位の誤りが
ぽんぽんと出てくる。
自分がいかに「できた」つもりでいたか
まさまざと浮き彫りになってくる。
これはいい、課題の発見と成長促進には持って来いの方法ではないか
自分のやりたかった主体性が持てているではないか
そんな風に思い、この理論のもと思考し、行動して来た。
しかしだな
しかしながらだな
最近はこの方法の盲点を
4年目にして発見してしまった気がする。
というのも
なんでもかんでも自分に責任を転嫁させるのって
冷静に現状を分析し
問題点をあぶり出し
その原因、そしてそれを発生させる外部環境について
頭を悩まし、抜本的な解決に向けて一歩踏み出す事を
恐れているだけではないか?
自らの考える能力の乏しさを隠すために
とりあえず自らが行動する事で誤魔化そうとしていただけではないか?
苦手な事から身を遠ざけ
結局は自分の思考範囲、深度を向上させようとしていなかっただけではないか?
1人で成長し、甘い汁を吸おうとしていただけではないか?
いや、果たしてそれは成長と言えるのか?
責任感のある自分を演出し、酔いしれていただけではないか?
まさに自分に、環境に酔い
そしてその成長は酔いから来る幻想なのではないか?
その幻想は組織のために、そして自分自身に何かもたらしたか?
そしてそれを認める勇気はあるのか?
自分のやって来た事を自分自身で無下にする覚悟はあるのか?
相変わらず浅はかだ。
主体性ばっかじゃただのひとりよがり。
客観的に、一般的に
物事を判断しないと。
もしかするとその問題が
完全に外部環境のせいかもしれないじゃないか。
そこまで考えないで早計で判断してはいけない。
そんな奴は必要とされない。
私も必要としない。
いい意味で環境のせいに出来る
そんな分析力が、思慮深さが
今の私には足りない。
補わないと。
そして過ちに気付けた事に。
感謝しないと。