人間が行動する時には
必ず何かしらの動機があるはずである。
自らの資質を向上させたい
誰かに感謝されたい
女の子にモテたい
いや、実際はこんなに単純ではないんだろうけど
例えば本を一冊買うとしても
「Amazonのレビュー的にはこっちの本の方が高評価だったけど、今日の昼飯のこと考えたら1000円オーバーはちょっとキツいわけで、でもそれなら昼飯を若干質素にして高い方の本を買えばいいだけの話やんって思うけど、今日はどうしてもあのオシャレなカフェで優雅なランチを楽しみたいから、やっぱり安い方にしよ。てかそもそも誰かこの本持ってんじゃね?まずはTwitterで『この本持ってる人いたらリプ下さい!』って呟いてからの方が賢明だな。よし、本屋はまた後で来ることにしよう。」
って具合で。
でも大別すると2種類に分けることが出来ると考える。
「喜び」に起因する動機と
「恐怖」に起因する動機
この2種類に分けられると考える。
概して前者は更なる「喜び」を求めて行動するわけで
非常に能動的であり
周りを巻き込んでプラスのシナジーを発生させる。
それに反して後者と言えば
「恐怖」が襲うから行動するわけで
非常に受動的な動機であり
保身的で自分だけが難を逃れればいいといった
人間の猜疑心や不信感を誘発させるやうな動機である。
しかしながらこちらに優位性が存在しないわけではない。
「恐怖」で縛る方法は
拘束力が強く、より必死になって行動するようになる。
しかし「喜び」で包み込む方法では
その行動が喜びに繋がらないと判断するやいなや
ぱったりと行動が止まってしまう場合がある。
失う危険性がいつなくなるか分からない状況と
失うものはなく、しかしながら不確かなものを求める状況
どちらが人間の行動を縛るかと言われたら一目瞭然である。
私は「恐怖」で縛るやり方が極めていけ好かない。
非常にナンセンスであるし
そんなものでは人間の本質的な成長は見込めないと思うから
だから絶対に用いたくなかった。
しかしながらこの現場である。
組織内に危機感はイマイチ感じられず、恐怖での縛りがないにも関わらず、保身的な人間が巨万といる。
もちろん、私自身も含めて。
この状況で「恐怖」を投入した事は一種の賭けであると思う。
起死回生の浮上を見せるか
今以上の泥沼にハマるか
それでも今回ばかりは
間違った意思決定ではないと思っている。
そう思わせて欲しい。
私自身もそう思えるような行動をしなければ。
みんなで共通の「喜び」を噛みしめたいという動機を
忘れずに行動しなければ。
まずは18日後に迫った関東インカレまで
フルコミットを続けよう。
話はそれからだ。