長編小説「統合失調症と共に、、妻への愛」家族と一緒に

 

 

 

1)喘息が始まる、、、、

 

好きで一緒になった妻が「喘息」の持病があると知ったのは、、子供が3人生まれた後だった。知っていれば、妻に3人の子供をと、、、無理をさせなかった。

更に悲劇だったのは、、最初は喘息だけで苦しんでいると思った、、そして、季節の変わり目に「喘息」が起きて苦しいと思い、、、部屋を綺麗に掃除して、、空気の入れ変え「換気」をしたりしていた。
妻が結婚する前には「タバコ」を吸っていたが子供が生まれてからはやめていた。
本人が子供のことを考えてのことだった。
俺は煙草を吸っていたので、、家で煙草を吸う時には「換気扇」の前で吸うことにしたいた。
お粗末ではあったが、、気配りをしていたのである。
子供たちが3歳から5歳になると言われる、、「はい、、パパ、、タバコはここでね、、」と、台所の
換気扇の所を指で刺されるのであった。
「そうだね、、、ごめん、ごめん」と、謝ったものだった、、懐かしい思い出だ。
そんな季節の変わり目の発作でも妻は苦しそうだったが、、我慢してくれていた、、今から考えると
済まなかったの一言で、片付けて居た自分が浅はかだった。
小さな子供たちが、、「ママ、、、大丈夫、、」と、、云いながら小さな手で妻の背中を指すっていた、
そんな時に自分は何をしていたのだ、、、
恥ずかしいことばかりであった。普段は元気なので、、喘息の咳ぐらい、、薬を飲めば大丈夫と、、
勝手に思い、妻に3人の子供たちを預けて、、仕事と称して「酒」を呑んで歩いていたのだ、、
そのころから妻には心労をかけていたのだったと、、後で気が付いた馬鹿な、阿呆な夫であり、子いるころに供たちからすればダメな父親だった。
妻が喘息で苦しんでるときに、子供たちはそばにいて、、必死に小さな手で看病していてくれたのだった。。
その時に何故、、出来なかったのか、、子供たちまで辛い、、可愛そうなことをした自分が愚かだった。
そんなことの積み重ねで、、妻の喘息は発作期間が少しづつ、、永くなっていった。
妻の喘息が悪化していったのは自分の責任であった。
東京に住んでいる頃に「かかりつけの医者」に云われたことがあった。
「奥さんの喘息の発作は全て,、あんたが悪い、、考え方行動を変えて、、奥さんのことを愛しなさい」
と、、、その時は「何をいってやがる。。」と、、思ったが、今はまったくその通りと反省しているのだった。。
俺は妻を「愛している。。」と、云いながら、、逆なことをしていたようだった。
全てが「後の祭り」であった。


2)病と闘いながら、、子供を愛した妻

何度の何度も愚行を繰り返す俺に尽くしてくれた妻も、、時には爆発するのだった。何度か小さな家出を繰り返していた。大きな家出は長女が中学1年生の時に起きた。
それまでの家出は俺に対する警告であったようだ。
妻は春夏秋冬の季節の変わり目に、、必ずと言っていいほど「喘息の発作」を起こしていた、、
今思うと苦しかっただろう、、しかし、それを耐えていた。その上に馬鹿亭主のご乱行だ。。なんということを繰り返していたんだろうと反省する俺であったが、、取り返しはつかなかなかった。
今は気が付いてが犯した罪は消えない、、、どうしてとか、何でとか言っても追いつかない罪であった。
その時に気が付けば良かったのだ、、「どうすればよかったのか、、妻を救えることは無かったのかと、、」
そんな懺悔ばかりが残る。
そして、最初の家出の時にも、、空っぽになった家に帰って、、「しまった、、なんて俺は馬鹿なんだろう」
と、、涙が一人零れた。こうなる前に、どうして気が付かなかったんだろうと、、
空っぽになった家で呆然と立ち尽くしていたら、、電話がなった。
「お父さん、、僕だよ、、」と、声が聞こえた時には嬉しかった。。「お父さん、、何々ホテルにいるから、、迎えに来て、、」と、、長男からであった。
俺は急いで迎えに行った。
ホテルの部屋で妻と3人の子供たちの顔を見た時にはひとりでに涙が頬を伝わっていた。
「良かった、、みんな無事で、、」
と、、思いながら3人の子供たちを抱きしめて,、優しい妻の顔を見た俺だった。
そして、、家族5人で家に帰った。
その帰りの車の中で馬鹿な男は心に言い聞かせた。「二度と、、家族に辛い、嫌な思いはさせまいと、、」
妻が喘息の発作が起きた時には看病しようとおもったのである。
何度も医者に言われている通りに、、「喘息は夫の優しさが、、思いやりが大事だと」と、、それさえあれば治る病だと、、、発作が起きるのは全て「亭主である俺が悪い」と言われて、、家族を大事にしない罰であると思った。
妻に心配を掛けない、、子供たちに安心な家庭を、、、其の心掛けが男に「夫に、、父親に」あれば喘息の発作などは起こらないと言っていた医者の言葉を思い出していた。
しかし、、人間は忘れる、、特に俺は忘れることが多い、、そんな馬鹿な男であるから何度も何度も、馬鹿な行為を繰り返すのだった。
男はいつも心の中で妻を子供たちを愛していた、、ただ、、その愛し方を間違っていたのである。。
そのことに気が付くのはあとのことであった。


3)喘息と馬鹿な夫のご乱行

妻は季節の変わり目になると、、「喘息の発作」を起こしていた。季節の変わり目とは分かっているが、、発作が起きる時はわかないだ、、突然の起きることもある。
時間的にもまちまちであった、、、朝方だったり、夜中だったりするので、、馬鹿な男が居ない時が多く、、発作を起こした時には3人の子供たちが必死に見ていたのであった。
「お母さん、、大丈夫、、」と言って、背中を摩りながら、、見守るだけだった。
本当に愚かな亭主であり、、父親であった。
父親が留守の時に、、どれだけ、、心配しながら妻を見てくれたか、、、妻にもすまないと謝り、、子供たちにも手を合わせた、、「ごめんな、、」と、、、
そして、、妻の発作が収まるとともに、、馬鹿な男は忘れるようだった。
繰り返えしてはまた繰り返すひびであった。今から考えると「なんて馬鹿なことをしたものだと、、」後悔している。
そのうちに妻の発作の期間が長くなっていった。そして、少しづつではあるが、、物に当たるようなっていき、何にも悪くない子供たちにまで当たる様になっていった。
そんな時は俺が一番悪いのに、、子供たちに八つ当たりする妻を窘めたり、、時には怒ったりしていた。
今から考えると、とんでもない間違いをしていたのであった。
そんな時こそ優しく,いたわりの心を持って、妻に接しなければいけないのに、、まったく,逆な行動をしていたのであった。
無知な愚かな男の行動であった、、、もう少し、勉強をして、妻の病を理解してやればよかったと。。
今になって思うと、、俺に忠告してくれた医者の言葉を、もっともっと、、深く噛みしめて聞いて、日々、行動していれば、、妻に喘息で苦労させなかったのであった。
それを喘息だからと言って、甘く軽くかんがえていたようだった、
馬鹿な夫の考えで、、発作が起きたら「薬を飲んで」安静に休んでいれば、、発作は収まるとみていたのであった。。
そして,どこかに、、たかが喘息の発作ではないかと思っていたような、、、
その考えがいけなかった、、、季節が変わるごとに発作の期間が長くなっていった。

妻の喘息は子供の頃から始まり、、一時は東京大学付属病院に長期入院していたのであった。そして、手術までした重症な喘息であったのである、、小学校も低学年はほとんど休学状態ですごした。
そんな妻は両親に大事に育てられた、、後で聞いた話ではあるが、、結婚は無理だと、、ましてや子供を産むなどは禁物と、、、そんな状況の体で「子供を3人」まで産んでくれた妻であった。
俺はなんと感謝すればいいんだと、、感謝しながら家族を大事にして来た。
積りであった、、しかし、、元気な妻を見ていると忘れてしまうのであった。
俺の甘えであり、、自分勝手な考えであった。
そんな妻をいつの間にか「地獄」へ引きづり込んでしまったいたのである。。
苦しかった妻の心のうちを分かってやれずに、今は後悔している、、何にも出来ない俺は恥ずかしい、、、と思うより、命を投げ出しても助けたい、、


4)喘息を起こしながらも「いい思い出も、、妻と子供たちと」

馬鹿な男は自分で独立して「不動産の自由業」をしていた。。上手く行っていると時もあれば、まずい時もある、、収入が変わってくるのだった。
其のたびに「引っ越し」も多かった。田舎で建設業をしていたが、、妻との結婚をするために、全てを捨てて、、東京へ出てからは一時は港区青山の賃貸不動産の営業をしていた。
実績と力を付けたので独立をして、、同じ不動産の賃貸専門の会社を作り、事務所を構えた。
いい時もあり、、旨くない時もあったが、、29歳で5人の社員の会社経営者になった。
始めの住まいは東京調布市の賃貸マンションに住んだ、、管理人室に入居して家賃をタダにしたのであった。。そなまま堅実に進めばよかったのだが、、人とは変わるものだ。
仕事が軌道に乗り、収入が増えると、、欲が出たのである。
小田急線の沿線の「百合丘に一戸建ての住宅」を借りて最初は妻と長女の3人で住んだが、、すぐに次女が生まれて楽しい日々を送っていた。
休みには近くの「よみうりランド」へお弁当を作って4人で、出かけたいた。
いい父親や亭主をしていたのであった。。買い物などは妻の代わりに出かけたが、、いつも長女が俺の運転席の膝に乗っていた。
「パパ、、お利口にしているから、私の好きなお菓子、買ってね」と、、付いてきていた。
そのころは長女が3歳、次女も2歳の可愛ころだった。
考えてみたら、、夫婦喧嘩をしても、、家族仲良く過ごして、、妻は喘息の発作を起こすことはなかった。
俺が酒を呑んで帰った時には喧嘩もしたが、、、それは「かくれんぼ」程度であった。
馬鹿な亭主が約束の時間に帰宅しなったので、、妻は隠れて、俺を脅かす程度であった。
あの頃の子供たちも、めちゃくちゃ可愛かった。
長女は俺と寝るといったころで、、俺が帰ると「俺の布団で、寝ていた、、」帰りが遅かったので待っていられずに寝てしまっていた、、
そんな日々を送っていたが、、商いが旨く行かずに、会社を閉めることにしたのであった。
家出同然で飛び出した俺ではあったが。。田舎に帰って来いと、両親が優しく呼んでくれた。
妻とも話して田舎に帰ることにしたのであった。
「江戸っ子」である妻には大変な決断だったはずである。妻のお仲の中には3人目が居たので、、一緒に帰ってくれたのであった。



5)田舎に帰り父の仕事を手伝う、、

俺は以前は父親の家業を継ぐつもりでいたので、その仕事はある程度はできた、、ましてや家業を継ぐつもりで「製パン業の専門技術者」の資格を持っていたので、、
父親の会社は「製パン業の工場とお店を」やっていた、、特に學校給食と高校の三か所にパン販売店を出して、、社員も30人程の規模であった。
父親の会社で働くには条件があった、、すでに男の弟が社長になっているので、、その辺を理解してやれということであった。そんなことは当たり前なので了解した。
パン屋は朝が早い、、俺も4時出勤で働いた。。妻も早くから起きて弁当を作ってくれた。
ありがたかった。。。夜はその分早く、6時には家に帰った。
田舎に帰ってから三人目が生まれた、「長男」だった。
両親も長男の誕生を祝ってくれた。。
俺の帰宅は早く成り、、毎日、3人の子供たちと「お風呂」に入り、、楽しい、平穏な日々を送った。
男が子供たちを風呂に入れ、、妻が風呂から上がった子供たちをタオルで拭いて、パジャマを着せる。。
そんな日々を送っている時には、、確かに妻の「喘息発作」は起きなかった。
ずっと、、平穏に日々を送れば良かったものを。。。
男は両親の薦めで「筑波学園都市」に出来たショッピングセンターの中に「ファストフード」の店を始めた。。男はいつもそうだが、、最初はいいいのだった。
そのファーストフードの店の初めに、、実験的に移動販売の車での「夜食販売」を筑波大学の学生寮の前で始めた。。。それが旨くいったのだった、、、勿論、筑波大学の許可をもらって始めた。
男の夜食販売の車の脇には、、いつの間にか「クリーニング屋」「八百屋」の出店が並んだ、、
ファーストフードの出店までの1年間、車での夜食販売をやった。。正直言って、冬は答えた。
しかし、、妻も調理パンを作るのを手伝ってくれた。。このころは夫婦間も仲良く、、子供たちも元気に育った。、、、特に次女は明るく、外交的だったが、、高校生の頃から、性格が変わったようだった。
今から考えると、妻の看病をたのんでからだった。
その時には男の仕事の都合があったためであった、、次女を犠牲にしてしまった。
田舎での夜食販売、、、そして、ファーストフード店経営の頃には、男の日常生活も定期てきであった。
その時にも「喘息の発作」は起きていない。。
そんなことを考えると、、男の不規則な生活が全てのようだった。
今だから分かるのだが、、当時は理解していなかった。考えてみれば馬鹿な男だ。
夫婦生活での病は、、夫の「やさしさ、、おもやり、、気づかい」が大事なのだ、、、それが出来なかった男は亭主失格である。。。あったのであった。


6)ファーストフード「ファンファン」を筑波学園研究都市の新しく出尾来たショュピングセンター内にオープン

男の人生は失敗を繰り返すのだった。それと同じで妻の病である「喘息」も、、根気よく優しく見守るべきであったのだ。しかし、、馬鹿な男は過ちを繰り返していた。
持って生まれた「呑気な」どちらかというと「能天気」な面を持っていた。いい面もあるのだ、、小さいことに拘らないと、、しかし、、病に関しては、それではダメなのだった。細心の気遣いをしながら、、傍に寄り添い、思いやりがいっぱいでないと、、、
そんな気遣いを忘れたのか、、初めから気にしない性格なのか、、仕事を始めることが家族への愛だと思い込むのだった。そして、最初は小さな店舗なので一人でやっていた。
主に「ハンバーガーとコーヒー」のお店であった。ショッピングセンターの入り口に公園があり、、日曜祭日には家族連れで賑わい、その家族連れが食事がてらに立ち寄るのだった。
その公園には池があり、、その池には緋鯉がいっぱいいたので、子供たちがその緋鯉に餌をやっていた、、、楽しい家族愛の光景だった。男もお店が休みの日には子供たち3人を連れて遊びに来ていた。
男一人で幼い子供たちを見るのは大変だった、、子供たちは自分勝手に、、思い思いの所を目指して走り回るのだ、、それで男は考えた、、池にでも落ちたら大変なので「長い紐」を用意して、子供たちの体に巻いて縛って、、「猿回し」ではないが、、子供たちを調整して遊んだ。子供たちは笑い、、はしゃいで飛び回っていた、、懐かしい日々であった。
そんな楽しい家族団欒を男は何度も自分の身勝手で失った。その度重なる心労を妻に掛けて、過ごして来たことが「喘息の発作の道」へ繋がったと、今は後悔している。
そんな日には妻には家で休んでもらったりして、、男は家族愛を振りまいていた。
男としては家族愛を押し売りしたいたのかも知れない。
太陽の降り注ぐもとで、、子供たちと遊んで、、男は精一杯、いつくしんでいた。自分ではそう思っていた。
そんな子供たちの笑いの中で男は幸せを感じてい
ファーストフード店の売り上げは少なかった。そこで、子供連れが多いので「風船」を玩具卸店から仕入れて、酸素ボンベで膨らませた、、風船は子供が好きそうな形の変わったものを仕入れて、紐を付けて販売した。
一人ではできないので、当時遊んでいた従弟に頼んで手伝ってもらった。
その風船の販売のお陰で、、「ソフトクリームとハンバーグ」が作るのが間に合わないほど売れた。
正直、男はビックリした。土曜日曜祭日だけであるが「一日の売り上げが30万から40万円」もあった。
今から45年前の話だ、、ソフトクリーム一個「150円」ハンバーグ一個「150円」の時代であった。、、その時の「風船ひとつが500円」で、売れた。
男は商売となると夢中で考え、行動した。
当時は家庭円満であり、、いつも子供たちの笑顔があった。
そして、、お店が休みの時には家族人で「外食」を楽しんだ、、、そんなレスランでの出来事というか、、
懐かしい、可笑しい,ほほえましいことが、、
テーブルに付き、食事が運ばれる間に、、他の席の子供が騒いだり、、両親に拗ねている子供たちを見て、、
「おかしいね、、、うふうふ、、」と三人の子供たちが顔を見合わせて、口に手を当ててわらった。
自分たちが大人しく、、お悧巧さんにしていることに少しだけ勝ち誇っていると、、、今でも思い出すと可愛いときであった。
そんな時に男は思うのである、、今一度、その時に戻れたらと、、、
今は少しでも「優しく、、」出来ることをしようと、、、今は二人の娘が見てくれている。
感謝で一杯だ、、「ありがとう」男は言葉で感謝を云うことぐらいしかできないのだった。



7)産業廃棄物処理業を勉強する

男はファーストフード店が売り上げが伸びて、筑波大学生のアルバイトを雇い、、他の仕事に色気を出し始めた、、悪い男の癖かも知れない、、よく言えば「向上心」「前向き」だ、、、しかし、どこか抜けていたので
ある。。いつも、ある程度までは、、「富士登山でいえば、7合目か8合目」で滑落するのだった、
今回も「産業廃棄物処理業」に興味を持ち、、勉強を始めた。
小さな幸せで、、満足で「家族」と共に、ファーストフード店を地味にしていれば良かったのに、、自分の仕事意欲が目を噴出してしまい、、走り出してしまった。
男には夢もあったが、、最終的には「家族愛」であった。家族を幸せにしてやりたいと、、、
東京から引き上げた後は、男は平穏な日々を過ごしていた。
妻の喘息の発作も起きなかった、、、其の気のゆるみもあって、、新しく始めようとしている、、「産業廃棄物処理業」の勉強と準備もあって、、帰りが不規則になっていった。
それが続き、、人との付き合いも増えて、、酒を呑んで帰る日も多く成った。
帰りが約束の時間に帰れなくなり、夫婦喧嘩が増えた。
妻は心配で「どうして、、約束の時間にかえれないの、、、」と、、云うが、、時には怒鳴ることもあった。
男は「仕方がないよ、、、新しい事業を始めるのだから、、いろんな経験者に教えてもらっているのだから、、俺の勝手では帰れないよ、、」と、、言い訳をした。
男は後で聞いたのだが、、子供たちが大人になってから、、「いやだったよ、、お母さんとお父さんの喧嘩を見たり、、聞いたりするのは、、」と言われた。
その結果が、、今は「長男は嫁さんを連れて家を出た、、出てからは一度も3年間かえっていない」、、「長女は家の近くのアパートで一人暮らしをしている」
そして「次女は家の同じ敷地の中の離れ屋に、猫15匹と住んでいる」
男は馬鹿な過去を繰り返したので、、今は「妻と二人で3階建ての家に住んでいる」のであった。しかし、、二人の娘たちは妻と看病していてくれた。

そんな結果が来るとは知らずに男は新規事業に邁進した、、猪突猛進であった、
ファーストフード店は従弟に任せて、、手に入れた土地に「産業廃棄物最終処分場」をつくるための許可取得に取り掛かった。
「産業廃棄物最終処分場」を作る為には、、隣接地主たちと周辺住民の「同意書」が必要だった。。そのための説得や住民説明会を男は始めた。
男は妻に気苦労と心配を掛けていた、、それも「喘息の発作」へと繋がるとも気が付かずに、、夢中で仕事をした。
地域住民の集まりでの説明会では、、、「大丈夫かよ、、あんた、、まだ若いだろう、、なにかあったら責任とれるの、、、」と、、若い俺を見て心配した。
男は必死に説明した、、「安全性は行政が確認して、許可をだしてくれますので心配ないです、、、それに管理もしてくれます。。地元住民の皆さんが毎日でも見て、、監視していてください。」と、、頭を下げた頼んだ。
地元住民の説明会は3度、行い、、了解を貰い、、「代表区長」の署名を貰った。
そして、隣接地主の同意書も揃い、、行政への許可申請となった。
この仕事の間、、男にはひやひやしたことがあった。
交通違反で免許停止一か月の「行政処分」があった。しかし、、男には「くそ度胸」があった。無謀であり、、やってはいけないことと知りながら、、
「無免許運転」をしてしまった。覚悟をしての「一か八かの勝負であった」
ふざけた話である。。。
そんことも妻は心配していた、、度重なる心労がいけなかったのだった。
しかし、、とんでもない賭けというか「天運」にかけたのだった。


8)産業廃棄物最終処分場の許可取得、、、

男は難しいと言われていた「産業廃棄物最終処分場」の許可を取得したのであった。
金もない男が、経験ゼロの男が、、己の力で取得したのだった。
本当に金もなかったので、図面を書いてもらうことも出来ず、、許可を交付する行政に行き、説明を聞いて、、書いたこともない「処分場の平面図や立体図」などをつくって、、何度も行政の窓口に行き、、やり直しをしながら、、最終的には何とか、「三角スケール一つで縮尺をだして」作り上げた。廃棄物理課は分室になっており、、担当者も3人しかいなかった時代で、、親切に指導してくれた。まだ、、産業廃棄物処理業の許可申請をするものもすくなかった、
男が35歳のときだった、、
許可が取れた時は嬉しく、有頂天になっていたようだった。
これで、苦労掛けて来た妻にも楽をさせられるとおもったものだった。
しかし、、逆だった、、忙しく成り、「あくまでもゴミ」なので問題が起きて心労をかけてしまった。
それから男は幾度となく、、「産業廃棄物処分場の許可を取得して施設の営業」をしたのだった。第三者
からは凄いと羨ましがられた。
しかし、、相手は廃棄物で「リサイクル」が出来るということで集荷するが、、所詮は「ごみ」であったので再生利用はなかなかできなかった
金は動いたが効率が悪く、、経費などのムダ金が多くでたのだ、、、
そんなことが増えて、、妻の心労は増えていった、、子供たちにも不安を与えたようだった。
夫婦喧嘩が多くなり、、子供不忠をしていたのだった。
仕事はある程度、軌道に乗って、、うまくまわりは始めたが、家庭がまってしまい、、不安と不満が多く成り、、日々、喧嘩が絶えなくなった。
そして、それにともない「喘息の発作」が増えていった。
男の気遣いが少なくなり、、仕事にむかえばむかうほど、、喘息の期間が長くなっていった。
度重なる夫婦喧嘩の末に「大きな家出」をされたのであった。
「仕事バカ」の結果だった。
男は一人になって反省して考えた、、妻と子供が大事だと、、一番と考えて行動を起こした。
そして、、男は仕事を捨てて、、家族を辛うじて拾いあげたのであった。
東京での再出発をはかった。
妻の喘息の発作を止めないと、男は後悔すると。。。。



9)東京での再出発、、、

男は誓った、、自分の心に、、、今度こそはと、、
妻に心労を掛けずに、「喘息の発作」が起きないような生活をると、、、、
仕事は「産業廃棄物処理に関するコンサルタント」として、、今までに培った知識と経験を生かして、あるスクラップ会社と契約して仕事を始めた。
安定した収入を得られるようになり、、妻の喘息も安定した。
子供たちも3人が高校生になり、、考え方も大人にな

それから時がたち、、長女は高校を卒業して就職をした、、更に、翌年には次女が高校を卒業したが、、家事をしながら妻の喘息の看病をしてくれた。
男のコンサルタント業が忙しくなり、、またしても不規則な生活が始まった、、そのために次女が妻を看病した。なぜかな、男は仕事を捨てきれずに夢中になるのであった。
今回は収入は安定したが、仕事の都合で帰宅時間が遅かったり、早かったり定まらなかった。不安定であり、、
やはり、今までが今までなので約1か月ものアメリカ視察は妻にしてみれば、つらかったようだった。
心労が出たのであった。
妻にしてみれば定期的な規則正しい生活が一番だったのであるが、、、男の仕事はいつも不規則が多かった。
更に大きなコンサルタントの仕事が入り、、九州福岡への出張が多く成り、一か月ごとに長期出張になった。。ますます、、妻への心労が多く成り、、次女の負担が増えて、看病が増えていったのである。。
男の仕事の都合で、、次女の看病の時間が多く成り、、完全に犠牲にしてしまった。娘の青春がなくなるほど、永い期間にわたり、妻の喘息の看病をさせてしまっていた。
気が付けば娘の青春を奪ってしまっていたのであった。
そのために、未だに独身でいる、、すまないと後悔しいるが、、どうすれば償えるか分からない。償っても償え切れない、、親として恥ずかしい、、すまない心で一杯だ。
そして、今も長女と一緒に看病してくれている。ただ、感謝だけで何もしてやれない。情けない。
今は離れの家で「猫15匹ぐらいいるかな」一緒に暮らしている、、、男はただ、ただ、協力することしかできない、、心から謝りたい。


10)懲りない男、、田舎へ

世の中には懲りない男が居るものだ、、そんな馬鹿な男が亭主であり、、父親だったから堪らない。
したくて,したわけではなかった。運命というか、、定めというか、、失敗を繰り返すのだった。
先見の明はあるが、、急ぎ過ぎて、早まってしまうような、、、
東京でのコンサルタント業は初めは上手く言っていたが、、人間関係でまずくなり、、辞めてしまった。
そんなことで妻には心労を掛けてしまった。
妻不忠というか妻不幸をしてしまった、、喘息悪化への道のりをすすめたのだった、そして、娘不忠不幸をしてしまった。
良いことなのか分からないが「長男ひこきのアメリカ留学だけは出来た」音楽留学で帰国した時は英語は喋れていた、、学生時代「英語1」だった長男が英語で話ができるようになったことが嬉しかった。
3年の留学だったかな、、アメリカ貿易センタービルへのテロ行為による飛行機事故爆破事件が起きた時に帰国した。
男の東京での仕事も旨くいっていたが人間関係のトラブルで辞めて田舎に引き上げた、、
そして、しばらく空き家にしていたところを直したり、片付けたりして住んだ。
長女は仕事の都合で東京に残ったが、妻と次女、長男は戻った。
男は一人で出来る仕事を作った。
軽トラック一台で許可なしで出来る「敷地内の水道配管工事」とか「エアコン取付」などを知り合いに教えてもらい、下請けとして仕事を始めた。
貧しくはあったが平穏な生活が続いた。妻の喘息の発作も落ち着ていた、、起きることは起きたが、、掛かりつけの病院からも薬を定期的貰い、安定していた。
男は知り合いから指導を受けて、、「水道工事の配管工事」や「エアコン取付工事」などを請け負って、生計を立てていた。
そして、「売電価格が1kw42円」の時に太陽光発電に出会い、男は代理店契約をして、太陽光発電の販売を始めた。


男は仕事を覚え、、太陽光発電施設についての勉強をして、、その仕組みを習得したのであった、
そして、資金が無くても出来ると確信をして、、まだ、誰もが手をつけていなかっただったで動き始めた。
太陽光発電施設の営業と、、その施設を設置するための土地を借りまくった。
当時、遊んでいた土地、、休耕地の土地までも「坪単価500円」で。。喜んで地主たちは貸してくれた。
最初は賃貸契約の借地だった。
そして、顧客を見つけて「太陽光発電施設」の売買契約を結ぶ、、勿論、設置場所の土地を案内してみせる、、、その段階で「契約書」に基づき「手付金」を受け取る。
手付金を受け取ったら土地所有者(地主)に「土地賃貸契約書」に従い、手付金を支払い「土木工事」を始めたのだ。
そして、土木工事に着手したら、、顧客から工事の確認をして貰ってから「中間金」を受け取り、、パネル販売会社と契約を交わして、、「パネル材料の手付金」を支払い、、残金については設置工事完了時の支払いとして太陽光発電施設の販売方法を考え出したのであった
男は「資金ゼロ」からスタートであった。
そのための土地を借りるための交渉、、それに伴う顧客の営業拡大。。さらには土木業者との交渉や材料メーカーとの話し合いと、、全てを一人で動いてやり遂げた。
仕事に対する情熱は常人の3倍も5倍もあった、、その時は金もなかったので、、「中古の軽トラック」で、、どこでも行った。
田舎から東京のメーカー会社まで走った、疲れを知らない60歳であった。
そんなことで「妻の喘息の発作」は起きた。そのたびに次女に迷惑を掛けた。
しかし、、仕事は順調に伸びた。
男は考えた、、「下請けに出している工事代金」が高く思うようになり、、自社での工事をすることを考えて始めた。
売り上げも伸びたので、、正直言って儲かってきたのである。
そして、、男は競売に出ていた「貸しビル」を落札したのであった「落札価格は3200万円」、、土地380坪、その上の建築物「7階建てのビルと4階建てのビル」更には離れたところ「約100m」にある「土地100坪と建築物3階建て」を取得した。
調子に乗った男は離れた物件を友達に譲った、、それは、もともと、、友達の親が作ったのであるが資金繰りが旨く行かずに「競売」になってしまい、、男が「落札」をして、、「男気」をだしたのであった。

本社ビルを持った男は、工事部門を増やしていった。
太陽光発電施設設置用地に借りた3000坪を工事部の資材置き場、、作業員事務所を設置して、,工事部門の作業員も「100人」を超えていた。
更に建設機械などのリースと比較して、中古で建設機械を増やし、更に運搬のためのトラックも買いれた、、一時は「大型トラック」を各種利用に応じたトラックを用意した。
そして、作業員の移動のための「マイクロバスも三台」購入して、、気が付いたら現場作業員も150人になっていた。
そして、販売売り上げも伸びて、、本社機能も増やし、、経理事務関係だけで5人になり、、設計部門を増やしたり、、土地買収部門を増やしたりして、、最終的の本社社員は20名を超えた。。
社員人数は増えても、、営業売り上げを実際にしていたのは、、その男ひとりだった。
事業規模は大きく成ったが、、忙しく動き回ったのは「男ひり」で、、そのひずみは妻の喘息につながった。
そして、次女の負担も増えた、、、見かねた長女が東京から戻って、妻の看病を手伝ってくれた、、、男の事業は二人の娘の犠牲の上になりたっていたのであった。



11)馬鹿な男の勘ちがい、、

男は調子に乗った、、、関東地域だけで太陽光発電施設の販売をしていれば良かったものを、、
九州福岡や大分、京都まで太陽光発電施設を設置し始めた。
金が動き、、男は儲けた。
妻や子供たちには辛い、、嫌な思いをさせてと、、、男は稼いだ「金」を家族に渡した。
そして、子供たちには「5000万のマンション」を購入して住まわせた、、購入資金は現金である、、つくば学園都市の一等地に「3戸のマンション」であった。
少しは今までの子供不忠不幸を取り戻せたおもったが、、間違っていたのだった。
ある時、長男に云われた、、「親父は何でも、金で解決しようと、、今でして来たけど、、俺たちは嬉しくないよ、、」と、、、
その結果が、、「お母さんの喘息の発作がひどくなり、、お姉ちゃんたちに負担を掛けて、何が償いだと、、」と、、云うのであった。
確かに長男のいう通りだった、、男は何もいえなかった。
それでも男には出来ることをしなくてはいけないと更に仕事に打ち込んだ。
男には償いは出来ないけど、、今、自分にできることをするしかなかった。
そして、、妻の為にと男は思い、、「鉄骨作りの階建ての家」を作った、、
全てを喘息の予防のためには「木造造り」がいいというので、、床、壁、天井と全てを
「檜造り」で仕上げた。
男は自分で建設業の免許も取得していたので、材料をすべて 自分で仕入れて、自社の社員を使って作り上げた、、「原価で1億円の家」だった。
男はせめてと思い、、「妻のための家」をつくった。
償いが出来たとは思っていない、、今もその家に住んでいるが「妻の喘息の発作」は続いている、、馬鹿な男の仕事欲にの為に犠牲した家であった。
男には取り返しの付かない後悔であった、
その後、、夢をみて、己の欲望に走った男は「集団詐欺」に合い、、騙されたのであった。。残ったのは妻のために作った家だけであった。
その男は自分の夢を追い、、妻の喘息を治すことも出来ず、、こどもたちの人生を奪ってしまい、、不幸の負の世界を与えてしまった。
なんとも不忠な男だと後悔している、、何もできずに反省の日々を送っているのであった。。
おまけに男は「不治の病であるパーキンス病になり」「大腸がんの手術をした3度も。」そのほかに「糖尿病」「肝硬変」「末期の腎臓炎」「前立腺手術」「心不全」
と病だらけである。。。これも全て「天罰」かと諦めている。
残された命を背一杯生きて、、妻や子供たちの何かに役に立ちたいと思う「81歳」です。。
余りにも遅すぎた反省であり、後悔であった。


〇妻の喘息発作の辛い思いで、、、

その1)初めて田舎暮らしを一緒に

東京での仕事に失敗して「都落ち」したのが、、娘たちが3歳と2歳の可愛い盛りの時だった。
田舎への道を家族4人で、車で走った。途中の道は工事中が多かった。
未だ、筑、波研究学園都市が建設中の真っただ中であった時の、田舎へ移住であった。
子供たちは幼かったし、ドライブ気分で楽しそうだった。
ワゴン車だったので、後ろの椅子を倒して、布団を敷いてはしった。
長女は3歳になっていたので、おしゃまだった、、お姉ちゃんぶって2歳の妹に、、、
「道が悪いね、、立ったら危ないよ、、」と、、座っているように話していた。
妻は東京生まれの東京育ちの「江戸っ子」だったので、、初めての田舎は不安で一杯だった思う、、まして、無職なっての夫との田舎旅である。
そして、お腹の中にはまだ見ぬ子どもがいたので、、、
馬鹿な男によくついてきてくれたと、感謝した若き日だった、、若いからこそ出来たことであった。田舎の家は父親が造ってくれていた。
父親は二人の孫娘を見て喜んで迎えてくれた、、引っ越しをしてからは父親はちょくちょく遊び来て、、二人の孫娘と遊んでくれていた。
野菜しい親父であったが、、働き過ぎが講じて、、63歳で亡くなった。
これも男のなした親不孝であった。男は大学を卒業してから「家出」をして、心配ばかり掛けて来た。。7年間の親不孝だった。
家まで建ててもらい、、男は夢中で父親の家業を手伝った。少しでも親不忠をした償いと思い、、、朝は午前3時に起きて働いた。
そして、田舎で3人目の子供が生まれた、、長男であったので男も妻も喜んだ。
男の両親も喜んでお祝いをしてくれた。
子供たちも幼く、、赤ん坊まで出来たので、妻の心労は増えていった。
そんなある日、妻と小さなことでの口論が始まり、、田舎に来ての最初の夫婦喧嘩をした、、それが今思うと「喘息の発作」の始まりで、、その時に「兆候」が表れたようだった。
男は夫婦喧嘩であり、甘く見ていた。
しばらく、妻の行動が異常になり、、家の中のガラス戸を割ったり、カーテンに火をつけたいたのだった。
慌てて男は火を消した、、、子供たちは4歳、3歳の娘と1歳になったばかりの長男だけで、、妻の行動を見て泣いていた。
男はガラスが飛び散っているので、、「心配しなくていいよ、、パパが居るから大丈夫だからね、、」宥めて、安心させて2階の子供たちの部屋へ連れて行った。
妻は育児と男の朝の早い勤めの,「毎日のお弁当作り」そして、、男が勤めに行った後の、、3人の育児、家事、更には3人の子供を連れての買い物と休む暇がなかった。
男も手伝った、早く帰っての3人の子供たちの入浴と、、しかし、妻の心労はそんなものではなかったのである。
体を動かしすぎての「喘息の発作」が、、当時はまだ軽かったが起きていたのだった。
家族の為と辛抱して、動き回り、苦しくなり、夫婦喧嘩となって爆発しある。
妻の発作は一週間ほど続いたので、、心配した妻の母親が手伝いに来てくれた。
子供たちは何も知らずに、、「おばあちゃん、、お祖母ちゃん、、」と、、どこに行くのも付いて回っていた。」
妻の母親も3人の孫たちを可愛がってくれた、、「ありがとうございます、、お義母さん、、すいません、、」男は感謝をしたのだった。
それから、度々、泊まり来てくれた。
その時から「20年」が過ぎて、、子供たちも大人になり、、妻の喘息の発作のことを調べたり、聞いたりしてくれたので、、「喘息の発作」だけでなく、、其の発作が引き起こしている、、、
「統合失調症」と分かったのであった。
かかりつけの病院の医師とも相談した。そして、確実に「統合失調症」と分かるまで、「20年」を要したのであった、
その間の妻への接し方や看病を間違いで、、妻には更なる心労を掛けた。
取り返しの付かない過ちを、、無知からくる馬鹿さ加減でしてしまったのであった。
そして、数々の大きな過ちをしたことか、、、ただ後悔するだけだった。
何も出来ない後悔だった。



その2)育児疲れと家事疲れ

田舎に引っ越してから、長男が生まれた。幼子が3人である、、、その育児は大変だ。
炊事洗濯買い物と、、妻は買い物に行くときに、いつも3人の子供たちを連れていく、、二人の娘たちは「二人乗りの乳母車」に乗せ、長男は背負って、歩いて15分のスーパーへ出かける。
「二人乗りの乳母車」は妻の義父が買ってくれた、、優しい義父であった。泊まり来ては気遣いをしてくれた。
妻の日々の生活は朝から晩まで、、3人の子供たちの世話であった。
男はそんな妻の為に、毎日、子供たちをお風呂に入れていた。
3人の幼子「4歳、3歳、1歳」であり、、風呂の中で賑やかだった。ある時には長女が気が付き、、、、
「パパ、、溺れているよ、、次女が、、」と、、男は長男を抱っこして洗っていたので、後ろ向きになっていたので気が付かなかったのであった。
湯舟の中で逆さまになって、バタバタしていた次女を抱き上げた。。それから次女は「水嫌いなトラウマ」を起こして、、小学校へ行っても、水泳の時間が嫌いになった。
お風呂の中でのエピソードでは、、こんなこともあった。
長男はお風呂に入ると気持ちよく成り、、大便をしてしまっていた。一回目は気が付かなかったが、、二度目には何となくわかるので、男は急いで「手を当てたいた」、、旨く防ぐことが出来た。
そんな楽しい平穏な日々で有ったが、、妻は育児疲れ、家事疲れが溜まり、、ときたま、爆発するのであった。
夫婦喧嘩の始まりだ、、子供たち3人はおろおろしていた。すまない思いをさせていた。
そして、突然いなくなるのだった、、、子供たちを落ち着かせながら、宥めながら待つと、妻は何食わぬ顔をして戻って来た。
男も若かったので、どこへ行ってたと聞くと、、
「どこへ行こうと、私の勝手でしょう、」と、口喧嘩が始まるので、男は黙った。
後で分かったことだったが、、先祖のお墓へ行っていたと、、、、
そんな夫婦喧嘩ら妻が「育児放棄」を始めた。
寝たままで、、起きて来なかったのであった。男は事情を話して仕事を休んだ、
そのころには二人の娘は「幼稚園」へ行くようになり、、お弁当持ちなので、慣れない家事を始めた。
それを見かけた男の母親が手伝いに来てくれた。
泊りがけで3人の子供たちの面倒をみて、、家事をしてくれたのであった。一か月間くらいであった。
その間、男は仕事に出かけた。。。そんなことが何回かあった。
この時はまだ、、気が付かなかったのだ、、、「統合失調症」とは、、単なる「喘息の発作」だと思い、体を休めて、病院から出された「薬」を飲んでいれば治ると思っていたのであった。
その時に「統合失調症」と分かっていれば、よかったと思った。しかし、気が付くのがおそかったようだった。
そのために季節の変わり目に起こる発作は「喘息が原因」と、思い込んでしまっていたのだった。
度重なる「発作」に悩んだ、、、本人も苦しいだろうと男は思い悩んだ。


その3)妻の室兄の嫁さんが、大阪から手伝いに、、、

妻の「喘息の発作」による、家事育児放棄の話を聞いて、妻の実兄の嫁さんが大阪から手伝いに来てくれた,、約1か月の間、3人の子供たちと家事を手伝ってくれた。
有難かった。本当によくしてくれた。
男は仕事以外に、子供たち3人を同じ、地元の保育所に預けたかったが、収入の関係で入所できなかったので、、娘たち二人は土浦市の大学の先輩が運営している「幼稚園」に入り、、長男は地元の保育所に入所が出来た。
そして、、長女が小学校へ入学するまでは、次女と長男も地元の保育所に通うことが出来るようになった。子供を育てるということは保育所から小学校まででも親の責任とは大変なもの出ると気づかされた。いい加減な「好きだとかで」男と女は一緒になれない、、どうにかなるはなかった。
そんなことの連続の育児であったので、、妻の家事育児放棄は何度もあった。
そして、それを見かねた、妻の実兄嫁が、大阪から手伝いにやって来てくれた。
約1か月の間、掃除洗濯家事全般をしてくれていた、男は感謝していた。
しかし、妻の喘息による発作は酷くなっていった。
当時は1階に妻の部屋があったが、、発作が起きると来ないのだった。
それだけならいいのだが、、自分の部屋の雨戸を締め切り、、暗くして「大きな声で騒ぐのだった」そして、、わめく事もあった。
酷い時には「襲って来るよ、、、誰誰が、、と」騒ぐのであった。
更に凶暴な時が有るのだった、、、その時は物に当たり、、壊してしまうのだ。。
その時は3人の子供たちは妻の元には近寄らなかった、、恐怖を覚えたに違いなかった。
男は思った「子供たちにはスマナイト、、」そして、、云った。
「お母さんは病気なので、今は苦しいんだよと、、」と、、抱きしめたのであった。
そんな様子を見て、、大阪の義姉は同情もしてくれた。
しかし、ある日、突然、義姉は怒って帰ったのであった。
それは、妻が正常で何でも分かってやっていると判断したのであった、、、そんな姿な妻を見たのでのある、、全て「芝居」だと、、「嘘」だとおもったのであった。
しかし、男は知っていた、、発作を起こしている異常な時に、「ふと、我に還る時があるのだった」そんなところを見たので怒った兄嫁だったのであった。
仕方のないことで、知らない人はそう、思うのが当然であった。
そんな時でも、妻は喘息の発作に苦しんでいた。
それも「統合失調症」という病気のなせる業であった。今思うと「すまない、、」と、、
「妻にも3人の子供たちにも謝りたい、、」



その4)病気の症状で意味不明な言動が。。。。

妻の言動で意味不明なことがあった。今なら理解できたのあるが、、当時は理解できなかった。
何故と云えば、まだ、「統合失調症」と病名が分かっていなかったためである。
ある日突然に起こる言動の中に、、東京での出来事で、子供たちからマンションの鍵を「私が管理するから、鍵を渡して、、、」と言われれば母親の言うことであるから聞いてしまう。
そして、普通に話して、、「私が家にいるから、帰ったら空けるから、、」と、云われて子供たちは学校に出かける。長女が高校3年の時であった。
男がたまたま、早い時間に帰宅したら、、長女がマンションのドアの前で立って、、、
悲しくて泣いていた。
「どうしたの、、、」と聞くと、、「お母さんが、ドアをあけてくれない、、」と、、学校から帰宅して2時間も立っていると、、、
男は腹がたった、、なんてことをするんだと、、、
とにかく、鍵を開けて中に入って、、、妻に云った。
「どうして、、娘が帰って来たのに、ドアをあけないの、、」と、怒った。
その時は「喘息の発作」が起きていないので、、理由がわからなかった。
娘は自分たちの部屋に入り、ただ、泣くばかりだった。
男は可愛そうなことをしたなと、、娘を労わったが、、、妻は素知らぬ顔だった。
この時に言動はどうしてなのか分からなかった。
また、こんなこともあった。
長男が「お母さんが、ご飯を食べさせてくれないよ、、」と、、息子が高校1年生の時だった。
その時には男は頑張って、同じマンションの中に別に一戸、購入していた。そして、子供たち3人を住まわせていたのだった。
そのために食事の為には3階のマンションに来なければならなかったのであったが、、妻の気分で、その日の体調により、、家事放棄をするのである。
そして、マンションの部屋のドアを開けないのだった、、、全て子供たち3人に嫌な辛い思いをさせたいた。
次女も高校を卒業してから、、妻の病の症状が「喘息の発作」以外にも不自然な行動が起きたので、家事を手伝ってくれていた。しかし、、突然に怒鳴られたり、叩かれることがあった。
次女は「五黄の虎生まれで」気が強かったが、、そんな時には泣いていた。みんなに嫌な辛い思いをさせていた。そんな意味不明な言動が、「妻には多かった」。
「喘息の発作」以外は予測が出来なかった、、突然に、、「今まで機嫌がよかったのが、、雷が落ちたり、、嵐が起るのであった」
その当時は全く理解できず、、わからなかった。



その5)田舎に住んでから「幻覚症状」が起き始めた。。。

田舎に戻ってからの妻に「幻覚症状」が起き始めた。
自分の寝室の窓を昼間でも締め切って、、部屋の鍵を閉めて開けなかった。
そして、、「誰誰が襲ってくる 、、怖い、、、きゃあ、、助けて、、」とか叫ぶ時もあり、、子供たちが心配で部屋に入ろうとすると、、頑としてドアをあけなかった。
また、ある時は妻の妻の部屋から大きな音がして、、「「どーん、どーん」と、、その時は自分の部屋の中のタンスを壊していたのだった。時には凶暴性を帯びて、、考えられない「バカ力」をだしていた。
とにかく、物に当たり、、家の中の物を壊しまくった、、、「統合失調症」が分からない時は正直いって、、
「妻は気が狂った」と思い、、「喘息の発作」から、気違いに成ったと思った。
物を壊すたびに、男は怒った。。。更に部屋の中を散らかすのであったので、追いかけるように片付けた。
誰でもそうだと思うが、、片付けるたびに、散らかしてしまう。。。と、、腹が立ち、怒るものである。
そんな繰り返しが続いた。
男は仕事と妻の意味の分からない言動に振り回されて疲れた。
悪循環が続いた、、後で知ったことであったが、、「統合失調症」で一番大事なことはやさしく、おもやりを持って接することであった。
しかし、妻の言動を目の前にすると、、優しくする前に「怒ってしまう」のであったから、常に逆効果であった。
暴れる時もあった、、、抑えるにたいへんだった、、、「凄い力」がでるのだった。
子供たちも一生懸命に妻を見てくれた、、、心配もしてくれた。
こんなこともあった、、、外出した時に「妙な言葉をいうのであった」
車で走っていると、、「後ろから、いつもの車が尾行して来る」とか、、「前を走っている車は、この前に尾行していたよ、、」とか、、支離滅裂な言動が多く成った。
男はまたかと、、聞き流していた。。その時にもっともっと注意をして、気配りをして、妻の異常に気が付き、真剣に「妻の病気」を考えるべきであった。
家の中で暴れたり、物を壊したり、大事なものをごみ袋に捨てたりしていた時に、男はいつも怒っていた。
怒るのではなく、やさしく、なだめることが出来なかった男は、、今になって後悔している、、全てがそかったのであった。
その後、病名が分かってから、闘病生活「妻との看病30年間」に続いた。


6)「喘息の発作」が起きる元凶は「統合失調症」だった

今まで、結婚してから約27年間、妻の突発的な意味不明な言動が多く成り、家族がどうしていいか分からないことが起き、、困った。
そんな時に二人の娘から、、「お母さんの病気は統合失調症だと、、知らされた、、昔でいえば悪い言葉だが精神異常者だ、、更に悪い言葉では気違いなのだ、、」と、、それですべてが理解できた。
そうとも知らずに、、時に
はあまりに酷い行動に腹がたった時もあった。
理由が分からない時には、、妻の行動が酷くて、なんでそんなことをするのだろうと、、怒りもし、怒鳴りもした、、、知らないとはいえ、、済まないことをしたと反省もし、後悔もした。
とにかく、凄かったことが多く、、物を投げる、、もので叩くといった行動で、男は怪我をしたことも有ったつづいた。
そして、物を何でも捨てる、、特に宝飾品や高級時計をごみ袋に捨てるので、家族は知らずに捨てしまっていた。
一番最悪なことは、「喘息の発作」と「統合失調症の症状」が同時に起きた時が始末が悪かった。大暴れをした後のことは、全て覚えていないのだった。
まるで「痴呆症」のようなのだから、非常に困った。
しかし、「統合失調症」と分かってからの方が、、「喘息の発作」は長く続いた。
病名が分かったので、、したことに対して怒れなかった。また、発作がおきている時には何を云っても,本人は分からなかった上に、本人は苦しがっているので、、看病するより方法がなかった。
「喘息の発作」を起こすと、、呼吸困難を起こして、飲み薬では体調が安定しないので、、病院に行き、、診察と治療をして貰うのであった。
妻が動けない時にはかかりつけの病院の医師に往診をして貰っていた。
個人病院でもあり、男の高校の同級生ということも有り、よく見てくれたいた。
「喘息の発作」」が起きると、「統合失調症」と知っているので、この「30年間」よく、往診してくれた。
そのお陰で、随分とたすかったのである。
しかし、「喘息の発作」が酷く、、呼吸困難を起こして「救急車」を呼んでもらったことも多かった。
そのたびの総合病院の手配もしてくれた。


7)[喘息の発作」と「統合失調症」を患い、我儘に、、、

妻はもともと、「我が強く」「我儘」なところがあった。しかし、病になるまでは男と子供たちの為に辛抱していてくれた。
妻は幼少のころから「喘息」で病院に長期入院していたこともあり、、末っ子で育ったので大事に、甘やかされてきたのであった。
そのせいもあって、自分よがりな勝手な面も持っていたのである、、それを、子供たち3人の為と、自分を抑えて来たようだった。。。
それが「喘息の発作」で、苦しさのあまりに辛抱が、我慢が吹っ飛んだ、、そして、、苦しさを我慢しているうちに「統合失調症」の状態に陥ってしまったようだった。
その原因は全て、男にあった。。
妻は苦しい時は「お父さん,、苦しい、助けて、、」と、叫んだ。
時には苦しさのあまり、、「お前なんかと一緒になったから、、私は苦しむんだよ、、」
と、、暴れて、物をなげるのだった。
「統合失調症」と分かるまでは、、、男も「何を言いやがる、、ふざけるな、、」
と、、反発したものだった。
しかし、、妻の病は「統合失調症」がなせることなのだと分かった時から、自分を男は攻めた。
日本で「統合失調症」の患者は200名に一人の割合でいると言われている。
そして、家族に「統合失調症」の病を持つものが居ると、、家庭崩壊という悲劇が多いらしい。
確かに、そうかもしれない、、生活リズムが狂ってしまうのだ。
それは男も思った、、、いろいろ調べたら、精神総合病院に入院して、治った友達の妻もいたので話を聞いて、、病院への入院も考えた。
しかし、娘たち二人が、、、「お父さん、、ダメだよ、、精神病院に入院すると、、薬で自然に命が無くなるから、、絶対反対、、」と、云われた。
男もその話は聞いたことが有るので、、そうだなと納得した。
娘たちは「私たちで、お母さんは見るから、、精神病院への入院は反対だよ、、」と、嘆願された。。どんな状態の母親を見ても、、子供たちは妻が好きだったのだ。
男も決心をした、、何が有ろうが、家族みんなで妻を、、母親を看病していこうと。。。
嬉しかった、、子供たちの母思いの愛がつよいことを、、、
そして、、それから、「30年間」、今も見守ってきた。

 

8)救急車で何度も入院の妻、、、

妻の「喘息の発作」は年々酷くなっていった、1年間の内に最初の頃は10日間ぐらいであったのが「3か月から4か月」続く様になってしまった。
そのたびに、入院する前にはかかりつけの個人病院で「点滴や注射」で収まっていたが、、やがて苦しさが酷く成り、、救急車で「呼吸器科」の有る総合病院に入院したのであった。
総合病院を経営している理事長が男の友達ということも有って、、「特別個室」入院することが出来た。
その後も一年間に3度から4度は入院を繰り返していたので、、その特別個室することが出来たのでよかったのである、、、その特別個室は付き添いの人間のベットと浴室があり、、普通の個室の2倍の広さであったが、、料金も高かった。
しかし、当時は男も仕事を頑張っていたので出来たのであった。
妻の入院には個室でないとならないわけがあった。それは「喘息の発作」が起きると7日間から10日ぐらいで、退院していたのであるが、、退院の3日から4日前になると「大声を出して意味の分からない歌を歌いだす」のであった、
それと勝手に部屋を抜け出して、病室の前の廊下を走りだすのであった。
そんなことから、「必ず付き添いが必要」と、、条件を出されていたのである。
妻は病院での有名人になってしまった。
入院する気には瀕死の状態で、、退院する時は「ルンルン気分」なのだから、、、
それでも娘たち二人と、長男は一生懸命に付き添いをしてくれた。男は家族に感謝していた。
「ありがとう、、」と、、口には出しては言えなかったが、、心の中では手を合わせていた。



9)救急車に乗らない妻、、、

妻が「喘息の発作」を起こして、苦しんでいるので家族は心配になり、、救急車を呼んで総合病院へ行き、治療をして貰い、その時の状態で入院の手続きをしていた。
しかし、救急車が来るまでは「発作」で苦しんでいるのに、、救急隊員の人たちが担架では運ぼうとすると、、「いやだ、、、行きたくない、、」と、云って動ないのであった。
救急隊員の人たちが3人係で担架に載せようとしても、、部屋のベットから動こうとしないので、家族も救急隊員の人たちも困った。
仕方がないのでベットに寝せて、、男も家族も救急隊員の人たちに謝り、、引き揚げてもらった。
「すいません、、本当に申し訳ありません、、」と謝、、
救急隊員の人たちは、、「いいえ、、仕事ですから気にしないでください、、もし、具合が悪く成ったら電話をしてください、、」と、、云って帰った。
一人の病人の我儘を許してくれることに、男は感謝した。
こんなことは、30年間に何度もあった。それも「夜中」とか「明け方」が多いのだった。
妻の拒否行動は往診してくれていた「個人医師」の場合もあった。それは、看護婦さんを連れて往診してくれたのに、、診察拒否をするのであった。
この診察拒否には参った。
往診してくれた友達の医師も困った、、折角、往診してくれた医師に「いやだ、、なんでするの、、私はどこも悪くない、、」と、、文句を云う始末であった。
妻が苦しいから、、「先生を呼んで、、」と、、言っておきながら拒否行動を擦るのである。
誰が見ても聞いても、可笑しな言動、、意味不明で理解できないことをするのが、、、
「統合失調症」が引きおこす病気だったのだ、、、
最初のうちは男も家族も惑わされていたが、、その言動が本当なのか嘘なのかわかる様になった。
しかし、、それを理解するまでには時間がかかった。
誤解と勘違いで問題はおおかった。
それも。男の生活の乱れや、不規則が原因で心労を掛けて、、「統合失調症 」を引き起こしたと反省していた。
取り返しの付かない誤りであったと後悔の念に陥っている。


10)娘から電話がきて、「お母さんが、、、」と涙声で。。。

ある時には娘から緊急電話が入った。
男が元気に仕事をして居る時だった、、茨城県内での時だったのですぐに病院にむかった。
娘の話だと今にも死んでしまいそうな慌てようだった。
「息が苦しそうで、、呼吸困難を起こしているよ、、唇の色が変わってきた、、震えも来ている、、」
と、、意気も絶え絶えの声をしていた。
いつもの総合病院が満室なので、、別のつくば学園の総合病院に運ばれていた。
応急処置を受けて、、「集中治療室」に移ったと言われて、男が病院に着いた時には二人の娘が付き添っていた。
そして、担当医師との面談があり、、告げられたことは、、、
「緊急の場合は人口呼吸器をとりつけます、、」と、、云われたので、、「それはやめて欲しい」と、言ったのですが、、病院としては、担当医師としてはその手術をしなければならないのですと、、、なって、「集中治療室」で治療を受けることになった。
担当医師が言うことには、家族が付いていて、、「やめろ、、」と言えば止めることは出来る。
と、、言うことなので、、
家族のための控室は無かったが、、「集中治療室」の前の待合室の椅子で、男と娘は徹夜で立ち会っていた。
いざという時は止められるので、、、
男も娘たちも元気な時に妻から言われていたことがあった。
「どんな場合になっても、人口呼吸器の取り付けはやめてと、、植物人間にはなりたくないから、、」と、、嘆願されていたのであった。
妻は言った、、「どんなに、苦しくても頑張るから、、見守って欲しい」と、、、
それを男も娘たちも守りたかったのである。
妻が「集中治療室」に入った時には、、定期的に様子を見に行っていた。
その時の男にも娘たちにも、、傍で見守る以外には何もできなかった。
妻に頑張る様にと祈るだけであった。
「集中治療室」では、すでに「人口呼吸器」をつけている患者と、、それを治療する医師と看護師と看護婦だけがいるだけであった。。一人の患者に数名の医療関係者が付き添って治療に当たっていた。
何が何でも元気になってもらいたいと、、一晩中祈っていた。
「集中治療室」から3日後に出て、一般病室に移った時にはほっとした。妻には長生きしてもらいたい。
30年間の闘病生活の間には何度か、緊急を要することが起きた。
しかし、今までに無事過ごせたことに感謝している。。家族に,、ありがとうを云いたい。


11)家族が出かけた後に「家の鍵」を閉めて、、外から入れないように。。。

東京で暮らしている時にも、田舎暮らしをしている時も、理解できない行動がある。
それは家族が外に出た後に、家の中から入れないように鍵を掛けて、開けてくれないことが度々あった。その時には開けてもらうまで庭の車の中で待つより仕方がなかったのである。
家族も男も家の鍵は持っているのだが、、家の中からドアが開かないように「鎖なり錠前」を掛けて開けなかった。その理由は今も分からない。
「統合失調症」という病が起こすのであった。
そんな時には腹が立つ、、冬の寒い時には車があればいいが、、無い時には寒さが身に染みる。
そんな時が重なると、怒りたくもなる。
家族も男もそのことを「どうしてするのかとか、、、」と、怒れないのだった。
「統合失調症」が原因で、どこかが悪いのではないかと心配知る方が先だったのである。
何度もあると、、家族も悧巧になり、、一階の部屋の窓の鍵を閉めないでおくようにした。
裏の窓などを、、そんなことで予防して家に入るのであった。
更には、、妻が泥棒が入ったと騒ぐのであった。
「私の時計が盗まれた、、、私の指輪が取られた、、、」と、、大騒ぎをするのである。
男も娘たちも「そんなことはないよ、、どこかにしまい忘れたのでは、、」と、、言うと
、今度は娘たちを疑い始めたりして、家の中の自分の部屋の鍵を閉めたりしていた。
男と娘は話したことがあった、、、妻は何でも「喘息の発作」が起きると、、、物を捨てる癖があったのである。
ある時、ごみ袋の中から「時計や指輪」が出てきたことがあった。
そのことを妻に話したら、怒りだして暴れたこともあったのである。。覚えていないから始末がわるかった。
この30年間で、、随分なくなったようだ、、しかし、病気なのだから仕方がないと諦めたのである。
今も「喘息の発作」では苦しんでいる。
苦しむ姿を見ると可哀そうと思うと同時に「すまない、、」という心で一杯である。







































































































































































































 


  1. 妻の「喘息の発作」は年々酷くなっていった、1年間の内に最初の頃は10日間ぐらいであったのが「3か月から4か月」続く様になってしまった。

  2. そのたびに、入院する前にはかかりつけの個人病院で「点滴や注射」で収まっていたが、、やがて苦しさが酷く成り、、救急車で「呼吸器科」の有る総合病院に入院したのであった。

  3. 総合病院を経営している理事長が男の友達ということも有って、、「特別個室」入院することが出来た。

  4. その後も一年間に3度から4度は入院を繰り返していたので、、その特別個室することが出来たのでよかったのである、、、その特別個室は付き添いの人間のベットと浴室があり、、普通の個室の2倍の広さであったが、、料金も高かった。

  5. しかし、当時は男も仕事を頑張っていたので出来たのであった。

  6. 妻の入院には個室でないとならないわけがあった。それは「喘息の発作」が起きると7日間から10日ぐらいで、退院していたのであるが、、退院の3日から4日前になると「大声を出して意味の分からない歌を歌いだす」のであった、

  7. それと勝手に部屋を抜け出して、病室の前の廊下を走りだすのであった。

  8. そんなことから、「必ず付き添いが必要」と、、条件を出されていたのである。

  9. 妻は病院での有名人になってしまった。

  10. 入院する気には瀕死の状態で、、退院する時は「ルンルン気分」なのだから、、、

  11. それでも娘たち二人と、長男は一生懸命に付き添いをしてくれた。男は家族に感謝していた。

  12. 「ありがとう、、」と、、口には出しては言えなかったが、、心の中では手を合わせていた。
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