心の小説「愛とは」献残屋藤吉朗


1)「愛とは、、、、」
愛という言葉の持つ意味とか言葉領域は広い、、、只,愛というと漠然としている。
「人への愛」「ものに対する愛」「社会に対する愛」愛にはいろいろあるような、、、社会を組み立てている人が、、、存在することそのものが「愛」である。
人間社会の始まり、、それは神秘的な愛である。
「男が女を」「女が男を」愛する行為、、精神的な絆が出来切る始まり、、それは「恋」であり「恋愛」のような、、、
その恋の行為が人類を、、子孫繁栄、、持続繁栄している。
その神秘的な愛から、子孫繁栄への愛、、社会進歩への愛があるから、、
人が生きる過程において、、「あらゆる愛」が出来上がるのだ。
そんな人間社会という空間で生きることを大事ににして、争いなどは辞めて欲しいと思う。
しかし、、誰もが知っている、分かっている行為を忘れているような、、
人間とは愚かな生き物なのだ、、、「悲しいかな、、寂しい」
もっともっと、、、「」モアモアモアな愛」を、、、
人として生まれたら「素敵な愛」を、、「素敵な恋」をしたいものだ。


2)恋の予感

天海輝(あまみかがやき)は宮古島市来間島で育った。彼は海の見える小さな島で、、夕日の映える島の西浜辺に、捨てられていたのだ、、、地元の半農半漁の「通称浜の権兵衛爺さんに拾われた」そして、サトウキビを作りながら、、夏の間は魚漁をする、老夫婦に大事に育てられた。
権兵衛爺さんの苗字が「天海」で、、島の西海岸の夕日のように、キラキラしていたので「輝」と名付けられた。
来間島は沖縄県宮古島では5番目の大きさの島で、、周囲が9km、面積は2,84平方メートルの小さな離島である。
宮古島市は宮古島、伊良部島、下地島、池間島、来間島、大神島からなる、、宮古列島だ。。。
そして、来間島は人口200人で、、島の大半がサトウキビ畑である、、、現在は観光スポットがあって、宮古ブルーの海や、島の西海岸の夕日スポットが有名。
宮古島は「宮古島と池間島(池間大橋)、宮古島と来間島(来間大橋、、宮古ブルーの海を走るドライブコース)、宮古島と伊良部島(伊良部大橋、この大橋も宮古ブルーの綺麗な海を渡るドライブコース)、伊良部島と下地島は6本の橋で結ばれている。
来間島までの交通機関は羽田空港から宮古空港経由で3時間15分、、もう一つが羽田空港から下地島空港経由で2時間45分で来れるのであった。
昔は遠い南の島で、、「宮古ブルーの海」は遠かった、、、しかし、今は近い青い空、青い海であり、、スカイダイビングの素敵な海がある、、
また、関西空港からは宮古島の二つの玄関口は45分という近くになった。
宮古島は南国であって、、気軽に尋ねられる南国になった。
宮古島市は歴史的に見て、、謎を秘めた神秘的な島国である、、、
室町時代に豊見親(とうみみゃ)という支配者が現れるまでは謎に包まれていた。
16世紀までは琉球王府が統治していたが、、江戸時代になって薩摩藩の属国となり、、厳しい税の取り立てをされてたようだ、、、
来間島はコメが出来ず、雑穀では税が払えずに「宮古上布」を収めていた。
「人頭税」という名で税を課せられたいた。
「宮古島の方言」は最初の言葉に「ん」をつけて発音する、、、
「んみゃー、みゃーくずま」は「宮古島へようこそ」という方言で、、
沖縄本島では「めんそーれ」は宮古島では言わない。
そんな環境で「天海輝」15歳まで、、拾われた天海老夫婦に大事に「愛いっぱいの
愛」を受けて育った。



3)天海輝、、宮古島へ「中学校へ進む」

天海輝は宮古島の中学校へ進むことになった。宮古島の市立平良中学校だった、、輝は学業の成績もよかったので、、将来は大学までと、天海老夫婦は願っての決断だった。。
輝は、、、「爺ちゃん無理しなくてよ、、、俺は勉強は嫌いだし、、爺ちゃんの手伝いをするから」ときづかったのであった。。
「馬鹿野郎、、、子供が何言いやがる、、これからは勉強が大事だ、、、爺ちゃんは痩せも枯れても男だぜ、、、そんなこと心配するな、、いいか、、輝、、、そんな気遣いをしないでしっかり勉強をしろと、、」と、、送り出してくれた。
入学式の日には爺ちゃんが付き添い、、寮生活の手続きをしてくれた。。
輝は爺ちゃんを見送ってから、一人で泣いた、、、
爺ちゃんとばあちゃんが用意してくれた布団とわずかな着替えを抱きしめながら、、
「爺ちゃんばあちゃん、、ありがとう、、頑張るよ、、、ごめんな、、、」と、、
12歳の胸を震わせながら涙した、、、


宮古島は沖縄本島から南西に300km、東京から約2000kに位置し、大小6つの島(宮古島、池間島、来間島、伊良部島、下地島、大神島)で構成されている。
島全体が平坦で、大きな川や湖ない、、、生活用水は地下水で賄っている。
宮古島では国際的なイベントが多く、全日本トライスロン宮古島大会、プロ野球のキャンプ、などで、、島全体がスポーツランド宮古島である。
宮古島の面積は204平方メートルで、人口は「55000人」、、人口の大半は平良地区に集中している、、、
宮古島は目には眩しい白砂のビーチが自慢であり、、エメラルドグリーンやコバルトブルーの海だ、、ダイビングやマリーンスポーツがいい、、、、
八重千瀬を始めとする透明度抜群の海中がある。

気候は最高35度3,、、最大降水量は908mm、、最高風速は85,3m、の熱帯雨林気候、温帯湿潤気候である。
観光スポットは多く、、有名なところで「29選」ある、、、、
1、与那覇前浜ビーチ(白い砂浜宮古ブルー)
2,雪塩ミュージアム(宮古島の雪塩)
3,パイナガマビーチ(市街地に最も近い)
4,砂山ビーチ(砂山を登)
6,新城海岸(サンゴと熱帯魚の海)
7,まいばり宮古島熱帯果樹園(トロピカル植物とフルーツ)
8,宮古島総合植物館(宮古島の自然と風景)

9,盛カロガー(宮古島の人々を支える水源)
10,宮古島体験工芸村(沖縄、宮古島物つくり体験)
11,比喜ロードパーク(標高98,2mの絶景休憩所)
12、宮古市伝統工芸品センター(600年の伝統、宮古上布)
13,あたらす市場(宮古産、野菜やフルーツ直売)
14、宮古海中公園(普段着のまま海底へ、海の世界)
15,吉野海岸(サンゴと熱帯魚に出会う、シュトケリング)
16,おきなわ雑貨市場わとわと
17、島の駅みやこ(宮古島のお土産とグルメ)
18、多良川(泡盛を古酒に導く、洞窟貯蔵庫、老舗の酒造所)
19,宮古市熱帯植物園(1600種類以上の熱帯植物)
20,東平安名埼(東シナ海と太平洋の紺碧を一望)
21,友利のあま丼(水の歴史を伝える県の有形民俗文化財)
22,宮古市公設市場(地元住民の台所)
23,大和丼(琉球王府の役人が利用した石積が見事な洞井)
24,うえのドイツ文化村(ドイツ文化と宮古島の自然が合わさる)
25,伊良部大橋(宮古島と伊良部島を結ぶ無料で渡れる日本一の橋)
26,来間大橋(絶景の人気のドライブスポット、宮古ブルーの海を渡る)
27,ウナラサギバナタの展望施設(断 崖絶壁からの絶景)
28,竜宮城展望(来間大橋が一望できる)
29,通り池(ダイバーの憧れ、水中で繋がるコバルトブルー二つの池)

宮古島大学駅伝が、、毎年2月に行われる、、、
「宝塚医療大学(宮古島キャンパス)」が、地元企業や大手企業の協賛を得て、、「宮古島大学駅伝」が行われている。
そして、、「宮古島大学駅伝大会ワイド₋ーズミ2024」が大学駅伝支援や合宿誘致を目的としての大会で行われた。。。
駅伝距離は「100,5㎞}で5区間で競われる。
参加大学には、、、順天堂大学、東海大学、国学院大学、青山大学、
法政大学、東京国際大学、専修大学、芝浦工業大学,立教大学、、沖縄選抜チーム
などがある、、、


4)天海輝の宮古島で中学生活が始まる、、、

輝は爺ちゃんに送られて宮古島の市立平良中学の門を潜った、、そして、、平良中学の「宮古寮」の105号室はいった、、、間もなく、昼間の入学式で輝のクラス担任になった、「南城光一」先生が輝の部屋に来た。
「天海、、これから3年間はここがお前の城だ、、頑張れよ、、困ったことが有ったら、これからは俺に相談しろよ、、、」
そして、、「今日からは天海は言いづらい、、、お前のことは輝と呼ぶぞ、、、いいな」
輝も、、「はい、、、わかりました、、」と、、それからな、、、宮古寮の規則がここに書いてあるので、、今夜、よく読んでおくように、、」
と、、一冊の「宮古寮則手帳」を渡された。
「今夜はゆっくり、寝ろよ、、、朝は6時起床だからな、、、遅れるなよ、、、起床の合津が有ったら、部屋の前の廊下に出ろ、、、そして、担当者の指示に従って行動をしてな、、」
と、、教えてくれた。。
そして、、おいおいに覚えていけばいい、、すぐに慣れるからと、、
「輝、、おやすみ、、」と言って帰って行った。
輝は布団の中に入って、、自分に言い聞かせた。
「爺ちゃん、、ばあちゃん、、まっててな、、いい男になって、、爺ちゃんとばあちゃんを楽させるからな、、、長生きしてよ、、」そんなことを心に念じながら、いつしか寝ていた。

 

輝は爺ちゃんから離れて、初めて一人の朝を迎えた。。
「宮古寮」の朝の号令が聞こえた、、、「起床、、」と、、輝は10分前から起きていたので、、号令と共に部屋の前に立つた。まだ、薄暗かったが、、輝は指示の元に、、洗面を行い、、宮古寮の食堂に向かった、寮の食堂について、分かったことは寮生徒は全員で「15名」だった。
朝の挨拶が宮古寮の担当教師からあった、
そして、進入生徒の紹介があり、、輝も「おはようございます、、天海輝です、、」と挨拶をした。輝の他の4人の新入生もそれぞれに挨拶をして、、食事を食べた。。
新入生の中で輝が一番背が高かった、、
食事が終わってから、寮生の3年生の高橋誠という生徒が輝に近付き、、「俺な高橋って、言うんだけど、、天海、お前、俺んとこの陸上部に入らないか、、」
と、、誘われたので、、「はい、、考えて返事をします、、」と答えて置いた。
食事が終わった後で輝たち一年生5人は宮古寮の中の「面会室や面談に使われる部屋」で、、改めて紹介をした、、
名前は「南城進で大神島出身」「北山真一は伊良部島、田山和夫は下地島」「坂部一郎と岡田三郎は池間島」出身であると、、」
そして「天海輝は来間島」と、、、
朝は時間がないので名乗って、それぞれに部屋に戻り授業に出たのであった。輝は仲間が出来たので嬉しかった。



5)宮古島の青春

輝の青春は始まっ宮古市立良中学校の始業式からであった。
輝の担任は南城光一先生で、「体育専門」であった。
クラスメイトは40人で、宮古寮5人がはいっていたので安心した。
南城先生の挨拶の中で、、誰もが部活活動をするという決まりがあるので、、宇野
「どこに入るか、、考えて置く様に、、、」と、言われた。
輝は小学校の頃から走ることが好きだったので、、運動部の活動を見学はしたが、、自分では陸上部にはいることにしていた。。
そして、もうひとつの理由は、陸上部は金が掛からないと考えたからであった。
爺ちゃんたちに経済的な負担をかけたくなかった。
「輝、、後で職員室に来てくれ、、」と、、、云われ
輝は南城先生を訪ねた。
「輝、、頼まれていた新聞配達の店が決まったので、、挨拶にいくぞ、、いいな、、寮の戻ったら仕度をして来いよ、、」
と、、言うことになって、「南城新聞店」へ行った。
そして、、、
「輝、、学食の皿洗いも了解が出たので、、夕食の時に連れて行くからな。。」
何から何まで世話になった。。
「先生、ありがとうございます、、」と。。輝は頭を下げて礼を述べた。。。
「輝、、頑張れよ、、」と、、励まされた。



6)輝、、陸上部に入る、、、

輝は考えた、、、どうせどこかには入らなけらばならない「部活」ならば、、陸上部と決めてた。
走ることも好きだし、、走ることに自信があった。
そして、、一番は金が掛からない、、用意する物は「くつ」と「パンツ」と簡単に考えたいたのであった。
輝は宮古市立平良中學校の入学した時から「アルバイト」は考えていたので、、起床前の4時に起きて、、「金城新聞店」に行って、、新聞配達をして来た、、、トレーニングを兼ねて走っての配達であった。
この新聞配達は輝を鍛えた。
帰ってから、、宮古寮での朝食を済ませて学校の授業にでたのであった。
輝は午後の部活のための「陸上部」に行き、、入部の挨拶をした。
陸上部の担当は、、輝のクラス担当の「金城先生」だった。
金城は輝の家庭事情を知っていたので、陸上部主将の大石を呼んで、、
「おい、、大石、、輝に余ってる「シューズ」をかしてやれ、、、」と、、指示をして、、後で走らせることにしたのであった。
陸上部は輝を入れて、、12人で、、、部員の少ないほうであった。
実績がなく、、宮古島ではかなり弱い陸上部であった。
金城教諭も立ち合いの元で、、輝に走らせた、、、「100m、
200mと、、」びっくりしたのであった。
早いのであった、、「嘘だろう、、大石、、もう一度走らせろ、、」
結果は同じだった。
全国中学校の記録より早かった、、、
金城教諭は驚いたと同時,楽しみができた、、、と、おもったのである。
輝の脚の速さは、、噂はひろがった。



7)輝、、陸上で花が開いた。

輝は新聞配達と宮古市立中学校の学食の皿洗いのアルバイトをしながら、、学業に部活に励んだ、、特に陸上部での練習はたのしかった、
人とは自分の優れた才能を知って、、その才能に磨きをかける、、そんな行動は疲れをしらないようだった。
輝は毎日、走った、、、金城教諭の教えも熱が入っていた。
「輝、、今度の新人競技大会に出るからな、、、100mと200mだ、、頑張れよ、、、
ああ、、、それからな、、このシューズとスパイクを仕え、、」と、、新しい靴を用意してくれた。。
輝は嬉しかった、、アルバイトで頑張り、、食べるだけで精一杯だったので、、
金城教諭は輝の家庭環境を知っていたので、、金城教諭の出来るだけの援助をいしていたのであった。
毎日、、アルバイトの時間が来るまで、金城教諭の指導の下で走りまくった。
そして、、陸上の新人競技大会がやって来た。
輝の出場競技である、、「100m」の競争が始まった、、
結果は優勝であり、、中学校全国大会の新記録を出した、、、「200m」でも優勝したのであった。
新記録だったので、、地元の「宮古新聞」に報された。
輝は一躍宮古島の「スター」になったのである、、
その大会から、どこに行っても、、「輝だ、、輝だ、、、」と、少しだけ騒がれた。しかし、、輝は有頂天になることなく、、更に練習に励んだ。
新聞配達も雨の日も風の日も、,少し位は嵐でもあっても輝は休まなかった。
責任感が強く、、爺ちゃんの教えで「人には絶対に迷惑を掛けるな、、一度始めたら最後までやること、、、」と、云われて、いつも頑張っていた。
そんな爺ちゃんから手紙が来た、、
「輝。。。頑張ってるな、、爺ちゃんは嬉しい、、元気かな、、爺ちゃんも婆ちゃんも元気だよ、、、凄いな、、一番なんて、、新聞に出ていると、、隣の近藤さんが教えてくれたよ、、、二人で嬉しくて涙がでた、、風邪ひかないようにな、、」と、、短い手紙が届いた。
輝は爺ちゃんたちに手紙を書いた、、、「爺ちゃん婆ちゃん、、夏休みは帰るからな、、元気でいてくれよ、、無理しないでな、、俺も元気だ、、心配しないでくれ、、、」と、、、輝は早く会いたかった。


8)夏休みが来た、、、

輝にとって楽しみの夏休みが来た。。爺ちゃんと婆ちゃんのいるところは一番好きだった。
二人の愛に包まれて育った、来間島の青い海,、どこまでも輝く夕日の砂浜は輝の故郷だった。
来間島の自然は輝にとっては心のパラダイスだった。
「爺ちゃん、婆ちゃん、、只今、、会いたかった、、二人が元気だったので嬉しかった」
「輝も元気で何より、、、でも、凄いな、、婆さんと話を聞いた時は嬉しくて、年甲斐もなく、あははあはあは、、、抱き合って喜んだ、、本当にうれしかった、、」と、、涙ぐんでいた。
「ああ、、それから夏休みは一週間だけになってしまったよ、、、秋の全国大会に出るための夏季練習合宿があるので、、、ごめんな、、、やることが有ったら云ってよ。。」
と、、二人の肩を叩いた、、
「輝、、、ありがとう、、随分、力が強くなったみたいだな、、、少し、痛いよ、、」と、、交代に肩叩きをしてくれた嬉しさを隠した。
爺ちゃんが聞た、、、「ところで、輝、、お前、どうやってここまで来たんだ、、」と、、
輝は当たり前のように答えた、、「宮古寮から走って来たよ、、トレーニングの積りで、
30㎞くらいかな、、普段は練習で走っているよ。」
「へえーー凄いな、、」と、二人は驚いた。
その夜は婆ちゃんの沖縄料理の手作りを食べた、、、久しぶりの婆ちゃんご飯は旨かった。
そして、次の日に、輝は爺ちゃんの魚漁を一緒にしたのだった、、、爺ちゃんの舟を久しぶりに漕いだ、、青い海と青い空の間をサンゴを見ながら、、魚を捕った、、、輝は洩りを持って、宮古ブルーの海に潜った。綺麗なサンゴと鮮やかな熱帯魚を見ながら、、目的の魚漁をしたのであった。。
爺ちゃんは「投げ網」をしていた。。
二人で魚を多めに捕って帰り、、その夜に、爺ちゃんの自慢の魚料理が食卓並んだ、、
「爺ちゃんは刺身を作るのも、魚の煮つけも旨いな、、、明日は俺が作って二人に、ご馳走するからな、、、」と言いながら
楽しい夕食が進んだ。
天気がよかったので、、輝は爺ちゃんと漁を楽しんだ。
輝が宮古寮へ戻る前日に、、朝早く起きるのは慣れていたので、、家の周りの草取りをしたのであった、、きれいになった庭や道路の淵の所の刈った草を片付けて居たら、、二人がやって来て、、、
「ありがとう、、、輝、、年を取ると草刈がきつく成ったな。。。きれいになった、、ありがとうな、、」と、、云いながら、、朝飯が出来たと誘いにきたのであった。
ひと汗をかいた後のご飯は旨かった。
輝の夏休みは終わった。
「爺ちゃん、婆ちゃん、、行って来るよ、、今度は夏季合宿の終わるころの、夏の終わりに1週間だけ帰ってくるからな、、無理はしないように、、いつも気づかいありがとう。。」
と、輝は走り出した。
二人は輝の姿が見えなくなるまで見送っていた。




9)陸上部夏季合宿、、、

輝は宮古寮に帰り、、宮古市立平良中学校の夏季合宿に参加した。担当の金城教諭も夏休み返上で指導をしてくれたので、部員一同感謝していた。
今回の合宿は特別練習であった。それは輝が全国中学校100m競技での新記録を出したことにも起因していた。しかし、、他の部員にも刺激となり、、他の競技でもいい結果が出ていた。
毎日、輝は新聞配達があったので休めなかった、、、今回の1週間の休みは特別に、金城新聞店がボーナス代わりにくれたのであった。
輝は朝から晩まで走り続けた、、、担当の金城教諭も、、
「輝、、、気を抜くなよ、、大会までには体力をつけて、、走り込め、、いいな、、」と、、つききりで指導していた。
そして、他の部員にも金城教諭は、、エコひいきをせずに指導した、、その結果、、全員が向上して行った。
太陽の下で、、真っ黒になりながら、、宮古島の子供たちは成長していったのである。
合宿中は宮古寮を使用して、、走ることに集中したのであった。
夜は宮古寮でビデオ見たり、、金城教諭の大学時代の経験談を聞いたりして過ごした。
金城教諭は大学時代は有名な「箱根駅伝」を走ったこともあり、、その練習のきつさ等も話してくれた。
金城教諭は大学駅伝でもつよかった「早稲田大学」であった。
陸上部員の仲間は夢中で話を聞いた。。
輝も大学まで行きたいと思うようになった、、、毎晩、聞く話が楽しみで、、夢を見るようになった輝であった。




10)夏休み2回目の帰郷、、、3日間だけど嬉しかった。

輝は金城新聞店の社長の思いやりというか、、爺ちゃんたちを思う心にひかれて、、休みを作ってくれたのだった、、輝が休みの時には金城新聞店の社長が代わって配達をしてくれていた。
また、長い休みの時には、陸上部の仲間たちが新聞配達を手伝ってくれた。。。輝はみんなの仲間の愛情に包まれていた。。
陸上仲間は「練習の一環だから、、」とか言って、、やってくれていたのであった。
そんな仲間の友情や、、金城新聞店の社長のやさしさに、、輝は感謝していた。
そんな中での帰郷であったので、、時間を無駄に過ごすことは出来なかった。
「婆ちゃん、、大丈夫、、背中モンでやるよ、、」と、、寝込んでいる婆ちゃんの背中や足腰をマッサージしたのであった。
「大丈夫だよ、、輝、、ありがとう、、なんか、夏風邪をひいたみたいなので、、ちょっと休んでいたんだから配しないでいいよ、、、」
と、、少しむせったいた。
二人とも80歳なんだから無理しないでと思った、、輝だった。
輝には元気を見せていた爺ちゃんだけど、、やっぱり、年を取ったようだ。
「まだまだ、、大丈夫だよ、、輝が成人式を迎えるまでは、、」と。。笑って見せた。
「明日は、、爺ちゃん、漁に行って、、婆ちゃんに旨い刺身をご馳走したいな。。。」
と、、云いながら,その夜は爺ちゃんが晩御飯を用意した。
次の朝、、輝は4時に起きて、、暗いうちから家の周りの草取りをしてから、、爺ちゃんと舟を出した。
来間島の海は青く綺麗で、、心を洗われた。
いつ見ても「宮古ブルー」は素晴らしかった。
爺ちゃんとの漁は久しぶりだったが「大漁」だった。
その晩は爺ちゃの旨いてばさきの刺身料理と、、煮つけの魚料理を食べて輝はいつまで長生きして欲しいと、、心の中で呟いた。
婆ちゃんも旨そうに、爺ちゃんの魚料理をたべていた、、
輝は願った、、爺ちゃん婆ちゃんが長生きしますようにと、、



11)全国大会「輝の晴れ舞台」

輝は金城教諭と陸上部の大石悟主将の3人だけでの東京行きとなった。。輝と大石主将は初めての東京であった。輝の目に飛び込んでくる景色に驚きながら宿舎にした代々木ホテルについた。飛行機もはじめて乗ったのである、、宮古市立平良中学校の大林校長の努力で交通費などの旅費は用意してくれたのであった。
輝は学校や仲間の思いやりを感じて、、東京代々木国立競技場に立った。
そして、決意を新たにしたのであった、、心の中で誓った、、、「爺ちゃん婆ちゃん、、見ててくれよ、、必ず日本一になって帰るからな、、、」と、、
大会の日は青空が広がり、、宮古ブルーを思い出すような青だった。
輝の心も青かった、、全てをやり尽くしての出場であった。
試合前日に代々木ホテルで輝は一人の女性にあった、、金城教諭の大学時代の知り合いと紹介されたのである、、
その女性は浜田絹代という、、日本陸上競技会の理事だといって、、記録を出した輝に会って見たいということで機会をもったのであった。
人の運命とは不思議なもの、、数奇な出会いであった。
輝も金城教諭も、、そして、浜田絹代も知らなかったというより、、知る由もなかった。
浜田絹代は別れ際に「明日は頑張ってください、、期待してみてますから、、」と、励まされた。
その時、、輝は不思議な力を感じた。
そして、、いよいよ、、大会が始まった。
輝は初日は「200m競技」で新記録を出して優勝をした。。
「輝、、いい調子だ、、その勢いで明日もな。。」と、、金城教諭にはっぱを掛けられた。
そして、、大石主将も興奮しながら、、「輝、、凄いぞ、、やったな、、明日の100mもな、、」
と言いながら宿舎に待っている代々木ホテルに引き上げた。
輝は寝る前に「爺ちゃん婆ちゃん,、やったよ、、明日も頑張るからな、、おやすみ」と言いながら寝たが、、、なんとなく浜田絹代が気になった。



12)陸上全国大会「中学生の部」

前日「200m競技」で中学の部で新記録を出した輝は一躍、脚光を浴びた、、そして、、今日の「100m競技」でも噂になり、期待が集まった。
「輝。。。いいか、、周りを気にせず、、走ることだけに集中しろよ、、いいな、思いっきり走って来い、と、、金城先生に声を掛けられた。
「はい、、」と一言云って、、スタートラインにむかった輝であった。
そして、、スタートの合図で走り出した。一瞬の闘いであった。
金城教諭の目に飛び込んできたのは「一番で駆け抜ける輝」の雄姿だった。
その瞬間に金城教諭は「やった、、」と叫んで、、万歳をいってしまったのである。
一緒の大石主将も両手を挙げて、、金城教諭に抱き着いていた。
二人は涙を出していた、、、嬉しい瞬間だったのである。
走り終えた輝は二人に駆け寄って、、、「やったよ、、先生、、大石先輩と、、」と、、、、
それから表彰式が終わって、、輝たちは落ち着いた。
中学生の新記録は5年ぶりだったので、、報道陣も集まり、、歓喜の中に輝は埋もれてしまった。
控室に戻ったら、、日本陸上競技会の役員でもある、、浜田絹代が尋ねて来てくれた。。
「おめでとう、、凄い記録が出て、、これからが楽しみですね、、」と、、お祝いのことばで歓迎されたのである。。。「金城先生、、楽しみですね、、おめでとうございます、、日本陸上会の宝ですね」
喜んでくれた。
輝と浜田絹代の不思議な糸が手繰り寄せられてきやようだった、それは運命の糸かも知れなかった。
地元宮古島からは学校関係の人々から嬉しい声が聞こえてきたのだった。
輝たちは一日於いてから、宮古島に戻った。



13)輝の誕生の秘密

輝たちは宮古島に戻ってからは時の人となった。地元の沖縄新聞の報道されたから、誰もしったのであった。
しかし、、輝は奢ることなく、、それからも日々の練習に励んだ。
輝と指導してくれている金城教諭には今回の大会の結果で、更に上を目指す目的が出来た。
「輝、、夏休みが終わる前に、、来間島の爺ちゃんたちの所へ行って来い。。3日位だけで、、報告してきたらいい。。。」と、云われれて、休みをもらい、、輝は飛んで帰った。
「爺ちゃん、、婆ちゃん、、帰ったよ、一番になったから、、」と、、二人の老夫婦に云いながら、家の中に走って入った。
「聞いたよ、、、凄いね、、、よかったよかった、、」と喜んでくれた。
「あれー、、なんで帰って来たんじゃ、、」と、爺ちゃんが驚いた。
「うん、、金城先生が行って来いって、、早く、爺ちゃん婆ちゃんに報告してこいと休みをくれた、、」
「俺な、、、もっともっと、、頑張るから長生きしてや、、見ててな」と、、輝は二人を抱きしめた。。
痩せた二人を抱きしめた輝の目には光るものがあった。
来間島で短い夏を爺ちゃんたちと過ごしてる頃、、、
宮古島の平良中学校に、、金城教諭を訪ねて、日本陸上競技会の理事である、、浜田絹代が来ていた。
「金城先生、、夏休みのところ申し訳ありませんでした、、お呼び立てしまして、、、是非にお聞きしたいことがありまして、、、」と、、挨拶をしてから。。。。
「実は、、天海輝さんの事なのですが、、気になったことがあったので、、勝手にd調べさせてもらいました。。。彼の戸籍には両親が記載されていませんでした、、、不思議に思い詳しく調べましたら、、祖父の天海権兵衛の養子となったところからの届けがあったが、、出生については不明となっていました、、」
そして、、来間島で育ったということは聞いていますので、、「金城先生、、彼の生い立ちか、、家庭環境で分かることが有ったら、、話して頂けないでしょうか。。」
と、、言われたので、、金城教諭は何か訳がありそうだと思い。。。
「浜田理事はどうして、、輝のことを知りたいのですか、、」と、、尋ねた。
少し黙って考えていたが、、、「分かりました、、お話いたします。。」と、、ぼそりぼそりと話始めた。
「実は恥ずかしいことですが、、、私の20代の未熟なころの失敗なのです。。。今は後悔しています。。後悔しても償えことなのですが分かってはいます。。
私は一人で「男の子供」を産んで、、、間もなく捨てたのでした、、、それが来間島の西海岸だったのでした。風の噂で亡くなったと聞いていましたが、、私の直観ですが、、輝さんと
重なってしまい、、調べてみたのでした、、」
訳を聞いた金城教諭も。。その話は間違いなく、、「輝」だと思った。
しかし、、今の状況では名乗りあうことはまずいとも思った金城教諭であった。
「よくわかりました、、、しばらく時間をください、、私が責任を持って、いずれはっきりさせますので、、、」
金城教諭は間違いなく浜田絹代の子供だろう、、しかし、、今はまずいのだ、、時が来たら、必ずはっきりさせるからと、、しばらくは二人の秘密にすることにしたのだった。
そして、、全てを理解した浜田絹代は東京へ帰って行った。



14)輝は中学校全国大会の「100m」と「200m」の新記録をもって、、

来間島の夏の宮古ブルーの西海岸で夕日を眺めて、、天海爺ちゃんたちに「行ってきます。。」を云って走り出した。。。宮古島の平良中学校へ、、その走る姿は沖縄県立宮古島高等学校へと進んだ輝であった。
高等学校での輝きは更に練習に励み、、記録を伸ばしていった。
そして、、日本陸上競技会の浜田絹代理事の尽力で「奨学金」を受けられたのであった。
浜田絹代の陰の力であり、、暖かい母親の愛情に包まれた厚意であった。
その陰の力を知らずに、、輝は恵まれた競技生活を送った。
高校の全国大会で「全日本の100m競技」の新記録を出して、、注目を浴びた。
輝は高校生とかではなくて、、全日本の代表で走れるのであった。
ときたま、、日本陸上競技会の浜田理事が尋ねてくれた、、
そして、、輝の練習状況を見ながらアドバイスをしてくれていた、、陰ひなたなく浜田絹代理事は気に掛けたくれていた。
「何か必要なものが有ったら、、遠慮なく云ってね、、」と、、いつも優しいまなざしをくれた。い
其のたびに輝きは思った。。「こんな人が母だったらいいな、、」と、呟きながら走り続けた。
そして、、高校2年の時に「200m競技」」でも全日本の新記録を出したのであった。
その晩、、金城教諭から電話が来た、、「輝、、おめでとう、、聞いたよ、、、頑張ってるな。。今度の全日本陸上協議会の合同合宿が宮古島で行われる、、俺も参加するように云われているので、、がんばれよ、、楽しみしてるから、、」と、、、
「そらからな輝、、爺ちゃん婆ちゃんは元気だから,、、時たま、、遊びに、俺が言ってるから心配するなよ、、じゃあな、、、おやすみ」という嬉しい電話が入ったのである。
金城教諭の思いやり愛をいっぱい感じていた。輝であった。


15)輝、、全日本陸上夏季合宿に参加

いよいよ全日本陸上競技会の夏季合宿は今年は宮古島で行われることに成り、、「宝塚医療大学の宮古島キャンパス」の施設を利用することになった。
始めから「合宿誘致の施設」だったのである。。
金城教諭も指導員として参加するので、、輝は嬉しかった。
このことも理事の浜田絹代の配慮であり、、金城教諭とは先輩後輩の間柄でもあった。
何よりも増して、、それは母親の大きな「愛」であったのである。
それを知っているのは金城教諭だけだった。
輝には金城教諭からの素晴らしいプレゼントがあった。
それは輝の望んでいた「天海爺ちゃんと婆ちゃんの笑顔」だった、、、それを、金城教諭はかなえてくれた、、
練習中の輝の目に飛び込んできたのは「爺ちゃん婆ちゃんの姿」だった、
輝は自分の目を疑った。グランドの隅に二人が立っていたのだ。
駆け寄っていった輝は歓喜のあまり涙が溢れた。
「爺ちゃん婆ちゃん、、、よく来たね、、」と、、二人を抱きしめた。
「輝、、金城先生が連れて来てくださったよ、、わしも婆さんも、、
お前の走る姿が見られて、、もう、、思い残すことはない、、
嬉しいよ、、お前が世界一に慣れる日までは生きて居たい、ありがとう、、」
と、、曲がった腰を精一杯伸ばしていた。
金城教諭の計らいで、、浜田絹代理事が紹介された。
「浜田です、、天海さん、、いろいろありがとうございました。」と、、深々と頭を下げた、かに涙が流れたような、、
天海権兵衛さん夫妻は、、金城教諭から話を聞かされていたので、、
二人も深々と挨拶をしたのだった。
輝には意味の分からない挨拶であった、、「そうですか、、あなたが絹代さんですか、、、よかったよかった、、これからもよろしくお願いします、、」と、、涙が零れるのを精一杯堪えていた。
それからしばらくは、輝の走る姿を見ていたふたりであった。


16)輝、、全日本陸上競技大会へ

輝は金城教諭に見いだされて、練習に励み、「100m、200mの全日本での記録保持者になり」
前途洋々としていた。このまま、何事もなく無事に進めば、、世界の檜舞台に上がれる筈で有ると、誰もが思っていた。
高校2年の全日本陸上競技大会でも短距離界のホープとして期待されていたのであった。
人生とは皮肉なものだ、、、大会出場の為に、二日前に沖縄宮古島から出て来ていた。
夕方、宿舎にいれば良かったのに、、近所のコンビニに買い物でたのだが、、無謀運転の若者、、
「暴走族」の団体に出会い、、オートバイで引き飛ばされたのであった。
相手の暴走族は飛ばしていたので、、その弾みでオートバイにひかれて、輝は道路の隅のガードレールまで体が飛んで、倒れた。。そして、、動かなかった。
その様子を見ていたコンビニの店員が救急車を呼び、、倒れた輝の傍に駆け寄ってきてくれた。
暴走族の連中は騒いでいるだけで、何もでおろおろしていた。
コンビニの店員の機転で、、救急車が先に来たので救急病院に行ってもらった。
警察もすぐに来たが、、状況説明はコンビニの店員がしていた。
コンビニの店員は輝が短距離の選手として知っていたので、、宿泊先のホテルにも連絡をとった。機敏なコンビニの店員の動きで、指導員の金城教諭と、陸上選手の仲間たちが飛んできた。
金城教諭は事故処理は警察に任せ、運ばれた病院に急いだ
病院に向かう途中、タクシーの中で心配と焦りが沸き上がってきた。
金城教諭は兎に角、輝の無事を祈った、、「如何か、無事でいますように、、」と、、心の中で手を合わせていた。
病院に着き、、手術室の前に行った時に、事故の大きさを感じた。
金城教諭は手術を待つ間に浜田絹代理事に連絡をとった、、彼女はとんできた、、、取り合えず飛んできた感じであった。
「浜田理事、、申し訳ありません、、私が付いていながら、、本当にすいません、」と、、深々と頭を下げながら謝った。大事な日本の短距離界の宝をまもれなくて、金城教諭はあやまったのである。。
「先生、、待ちましょう、、」と、目頭を押さえながら,じっと、堪えていた。
長い手術時間であった。
手術室のドアが開いて、担当医師が出て来た。
「命は取り留めました、、しかし、、片足を切断しました、、損傷が酷く、繋ぎとめられませんでした。
すいませんでした。」と、、云われた二人は顔を見合わせて、浜田理事は泣き崩れ、金城教諭は呆然と立ち竦んで、しばらくは動けなかった。
個室に運ばれた輝は何も知らずに眠っていた。。
二人は個室に入り、、輝を見守るだけだった。悲劇は突然に、何の前触れもなくやってきたのだった。


17)病室の中で、、、

何日寝たいたのか、、目が覚めた輝は夢を見ていた。
来間島の夕日の綺麗な砂浜を走っていたが、、突然、砂浜に足が入って動けなくなって目が覚めた、、、そして、、足がぬけなくなり、、一人叫んだ。
目を外に向けたら、そこには「爺ちゃん婆ちゃんが居て」輝を引っ張っていた。
「輝、、大丈夫か、、よかった、、良かった、、生きていて。。」涙を流しながら二人は輝の傍に近寄って来た。
目を移すと金城先生もいた、、そして、浜田絹代理事までもが居た。
輝はまだ、脚を失ったことはしないのだった。
「どうしたんですか、、みんな揃って、、何かありました、、」と、、輝はベットから起き上がろうとしたのだった。
力の入らない下半身に違和感を覚えた。
「あれ、、可笑しいな、、力が入らないよ、、」と言いながら、自分の下半身の異常に気が付いた。
「金城先生、、俺、どうしたんですか 、、大会はどうしたんですか、、」と、、聞かれた金城教諭も浜田理事も一瞬こたえられなかった、
その時、天海爺ちゃんが応えた。
「輝、驚くなよ、、お前は男だよな、、爺ちゃんの子供だ、、泣くなよ、、、お前はな、、
交通事故にあって、、」涙が零れてしまった。泣くなというのが無理な話だ。。
「お前の脚はな、、もうないだよ、、神様がな、、持って行ってしまったんだよ、、」
と、、天海爺ちゃんは男泣きした、、、婆ちゃんは泣き崩れていた。
始めて輝は事の重大さを知った。
輝はそうだったのか、、「そうか、、」と涙を堪えた。
「くそ、、、この野郎、、」と、、思ったが、、思い出した、、、
爺ちゃんが輝が小さい時から言っていた言葉を、、「男とはな、、泣きたい時でも腹で泣け、、」と、、言い聞かされて。育てられてきた。
輝は泣きたい時でも人には涙は見せなかった。
輝が突然,大きな声で笑いだしたので、、病室のみんなは驚いた。。気がふれたかとおもった。
しかし、輝は強かった。
「爺ちゃん、婆ちゃん、、大丈夫だよ、、俺にはもう一つの脚があるからな、、、心配するな、、、命さえあれば何とかなるさ、、、」
と、、持ち前の明るさで答えた、、心配している、、爺ちゃん婆ちゃん、、金城先生と、、
浜田理事に笑って答えたのだ。
病室のみんなが、逆に励まされた。


18)輝はめげずに、逞しく、太陽のように、、、

輝は一人になると涙が零れた、、「悔し涙」だった。
しかし、、いつまでも「めそめそ」していなかった、、「太陽の男のように」キラキラと輝てやると、、心の中で誓った。
輝は爺ちゃんに云われた通りに、脚が無くても人生を歩いてやると。。。
そして、永くなる治療とリハリビを耐え抜いてやると、、、覚悟を決めて自分との戦いを始めた。
輝は切り替えたのだった、、片足が無くなり、、もう一つの脚も思うように動かずであったので、、最悪の場合は「車椅子利用」となると言われたが、、必死にリハリビに励んだ。
その間、輝は勉強をした、、、これからの人生を生きる喜びを得るための、、、
「身体障害者」となった自分にできることを考えた。
世の中には多くの障碍者が居る、、みんな背一杯生きている、、その人たちが更に楽しい人生を送れるような学園を創り、、世の中で同じように生きて、スポーツが出来るような環境をつりだしたと、、、
病院で輝は夢を広げた。
沖縄の来間島で、、爺ちゃん婆ちゃんと過ごした「サトウキビ畑」にスポーツ学園を創ると心で決めたのであった。


18)輝はめげずに、逞しく、太陽のように、、、

輝は一人になると涙が零れた、、「悔し涙」だった。
しかし、、いつまでも「めそめそ」していなかった、、「太陽の男のように」キラキラと輝てやると、、心の中で誓った。
輝は爺ちゃんに云われた通りに、脚が無くても人生を歩いてやると。。。
そして、永くなる治療とリハリビを耐え抜いてやると、、、覚悟を決めて自分との戦いを始めた。
輝は切り替えたのだった、、片足が無くなり、、もう一つの脚も思うように動かずであったので、、最悪の場合は「車椅子利用」となると言われたが、、必死にリハリビに励んだ。
その間、輝は勉強をした、、、これからの人生を生きる喜びを得るための、、、
「身体障害者」となった自分にできることを考えた。
世の中には多くの障碍者が居る、、みんな背一杯生きている、、その人たちが更に楽しい人生を送れるような学園を創り、、世の中で同じように生きて、スポーツが出来るような環境をつりだしたと、、、
病院で輝は夢を広げた。
沖縄の来間島で、、爺ちゃん婆ちゃんと過ごした「サトウキビ畑」にスポーツ学園を創ると心で決めたのであった。



19)輝、「夢を語る」

輝はリハリビも進み、、車いすで動けるまでになった。
そして、輝は勉強を始めたのであった。高校も半年後に卒業すると決まったので、本腰を入れて「身体障碍者」の指導員の資格を取るための勉強をしたいと決心をしたのであった。
そして、金城教諭にも説明したのだった。
「輝、、それはいい、、お前が前向きになってくれて、嬉しいよ、、俺も全面的に協力するよ、、」と、、賛成してくれた。
また、、浜田理事も見舞いに来てくれて、、輝から話を、、夢を聞いて喜んでくれた。。「輝君、、私も力になるから、しっかり、勉強してね、」と、、はげましてくれたのだった。
輝はリハリビも終わり、元気になったので、、沖縄の来間島に帰った。
返る時には金城教諭が付き添ったくれたのだった、、爺ちゃん婆ちゃんでは長距離の移動は大変だろうと、、気づかってくれた。。
輝は嬉しかった、、何か始めからずっと、金城先生には付き合ってもらったような、、「先生、本当にありがとうございます、、、」と、感謝していた。
来間島の爺ちゃん婆ちゃんの家の前に立ったとき、、なぜか輝の目にはうっすらと涙が光っていた。
「爺ちゃん婆ちゃん、、只今帰ったよ、、」と、、二人を心の中で抱きしめていた輝だった。
「爺ちゃん婆ちゃん、、また、世話を掛けるな、、ごめんよ、、」と、、二人近寄り、二人のしわくちゃな手を握り締めた。
輝は卒業までの半年間は、自宅学習という、特別な猶予を貰い、、レポート提出で高校を卒業できることになった。
全て、金城教諭の取り計らいであった。そして、金城教諭の出張授業もうけられることになったのである。
輝の陸上部における輝かしい記録は「宮古島高校」に永久にの残るのであった。



20)輝「健康」「スポーツ」「福祉」の指導者を目指す

輝は身体障害者になっても「夢」を失ってはいなかった。彼の明るい、前向きな性格で、次の目的を見つけたいた。
「沖縄大学」へ進んで、福祉学を学び、、これからの青春を過ごすであろう、、「児童」や「若者」更には「高齢者」の身体障害者に対しての「夢」を与えるような「社会福祉士」になると、、、
そのためには学ばなければと、、心に誓った。
そして「健康」「スポーツ」「福祉」の専門学を学び、「社会福祉指導者」なならなければと、、大学受験の準備を始めた。
そのためには「4年間の大学授業」があった。彼は初めから金が無いので「奨学制度」を利用するための準備もした。
輝は自分の進路目的を金城教諭に話して相談をした。
金城教諭は全てを理解して、手伝ってくれた。
そして、全日本陸上競技会の浜田理事も賛成してくれて、、強力を惜しまないと約束してくれたのであった。
輝には理解者や応援者が居た、、更には精神的な強い味方がいたのである。
輝の目的、話を聞いて、、、「輝、、わし達は何も出来ないが、、心から応援してるよ、、頑張ってな。。」と、、云ってくれた目には涙がにじんでいた。
「輝よ、、わし達はいつまで、生きれれるか分からん、、お前の夢をかなえるために,わしらの砂糖畑は使ってくれや。。」と、、皴クシャナ顔で、手もやせ細っていたが、二人の老夫婦は嬉しかった。
輝は受験勉強を金城教諭の指導を受けて頑張り、、沖縄大学福祉学科に入学することが出来た。


21)沖縄大学で学ぶ

輝は沖縄大学福祉学科で誰よりも必死に学び、、4年間の時間を無駄にはしなかった。
宮古島にいる爺ちゃんたちに早く、輝の描く夢を見せたいと、、そして、金城先生や学資の目でも世話に成った浜田理事にも恩返しをしたいと、夢中で福祉学を学び、、「社会福祉指導者」に関する資格を取得して、身体障害者の児童育成、青年指導、高齢者の養護をしたいと思っていた。
輝が沖縄大学を卒業間際になって、金城教諭が彼の大学寮に訪ねて来た。
「輝、、相談があるんだが聞いてくれ、、」と、、金城先生が話を始めたのである。
「俺な、、来年で定年退職なんだよ、、どうだろう、お前の考えているスポーツ学園を手伝わせてくれないか、、、」と、、云われた輝は喜んで承諾した。
「先生、宜しくお願いします、、」と、、力強い理事は味方を得たのであった。
そして、スポーツ学園を運営するための資金調達の準備を全て、段取りをしてくれたのであった。更に、輝は強力な支持者が現れたのである。
金城教諭が全日本陸上競技会の浜田理事に相談したら、、、
「是非、私も参加したいわ、、、」と、、名乗りを上げてくれたのであった。
浜田理事は独り身であったので、宮古島へ移住して、手伝いと、、彼女にしてみれば、来間島に我が子を捨てて20数年、再び一緒に暮らせるとは思ってもいなかった奇跡が起きたのであった。
浜田理事は全てを掛けて、、我が子「輝」に残りの人生を償いたいと思ったのである。
我が子を捨てた来間島で、人生の最後を暮らせることを感謝した。
今までに出来なかった、「愛」を尽くしたいとおもったのである。
輝が沖縄大学福祉課を卒業した春に、、天海爺ちゃん老夫婦と、、浜田絹代、金城教諭が揃って、ささやかな地鎮祭を行った。
その席で、天海爺ちゃん老夫婦は嬉し涙を流しながら、、、「皆さん、ありがとうございます、、わしら夫婦は、いつ死んでも悔いはないよ、、本当にありがとうございます、、、これからも、輝をお願いします、、、」曲がった腰を精一杯伸ばしていた。
そして、輝が話をした。
「このスポーツ学園の名称は、、天海来間スポーツランドとしたいと思います、、、理事長は浜田絹代理事にお願いします、、」と、、出席した5人は決めたのだった。
そして、造成工事が始まった。
輝の夢が開き始めたのである、、、、、



22)輝の夢が宮古島市来間島で開く、、、


輝の夢である「天海来間島スポーツランド」がいよいよ出来上がった。天海来間島スポーツランドの生徒募集はしていたので、施設が出来上がった時には、、児童身体障害者、青年の部も高齢者部門も予定数が集まっていた。
毎日の参加では無く、、それぞれの希望での自由参加が出来るシステムになっており、活動メユーも自分で作成して、また,夏季合宿が出来る施設も用意して、身体障害者の健康を考えてのスポーツ、特に陸上競技の向上を計っていくことを目的として。
楽しいスポーツを通して、身体障害者の心を明るく元気な精神に開いていくことを考えている。
輝が車椅子に乗って、、先頭に立って、グランドに出て、声を掛けて、楽しく走ることを心掛けて、自分も車椅子競技を目指しているのであった。
五体満足でなくても、、失って体の一部までも頑張って、生き抜く力を持ってもらいたいと願いながら、、スポーツを楽しむ輝であった。
幸せとは失ったことへの思いやり「愛」ではないのか、、人は「愛」が有れば幸せに生きていけるような、、、人生とは「愛」そのものだ。