〇好き勝手な青春祭り

 

一人の男が青春の祭りのごとくに過ごした自由奔放な10代と20代、、、

天海一平の青春物語。。。

東大進学校で有名な高校へ進み、、1年生の時は自転車通学をしていた、天海一平が、高校2年からバス通学になり、、優等生がばからしくなり、、「不良入門」を果たした、めちゃくちゃ青春の祭り。

 

 

1)「不良入門」

天海一平は、東大進学一番の県下での有名校に入学したのであった。
入学前、、入学してからも「東大、、一ツ橋大」を狙っての高校進学である、、、
勉強が目的であり、、あくまでも目標大学への進学が目的であった。
そのために自宅から自転車通学40分を選んだのである、、、家に帰れば「復習、予習」をして、やる気十分だった。
そして、頑張ったのであるが、、、運動が忘れられずに「陸上部」に入った。
自分では「短距離」に自信があったので走ってみたが、、、ダメだったのである。
それで陸上の練習の名のもとにサボり始めた、、、陸上の練習だと帰宅は夕方で6時、7時を過ぎても可笑しくないので、、練習をせずに、今で言う「悪友」の家に屯するようになった。
今までに吸ったことのない「タバコ」を吸ったのである、、、まずいと思ったが「不良仲間」が吸っていたので「タバコ」を覚えた。

今までのようには勉強に熱が入らず、やる気もなくなったのである。
こち論、」復習や予習などはまったくであり、、家で教科書を開くことは無かった、、、そのためにすべての教科書を学校の机の中に置いてくる始末だった、、、笑っちゃうよ、、、勉強が仕事のはずの高校生が商売道具である教科書を置きぱなっしなのだから。。。
頭の中はいつも、、、今日は何して時間を潰してやろうかとか、、、ヘヤースタイルはどうしようかとか、、、ズボンをどんな風に直して履いてやろうかとか、、、あのデパートの屋上の遊園地の女の子は可愛いなとか、、そんな下らないことばかり考えていた。
そして、ヘヤースタイルは「リーゼント」でポマードいっぱいぬったくていたような、、、ズボンは仕立て屋に持っていき、ラッパズボンににしたり、、、映画を見て西部劇のブーツがかっこいいので、真似して靴屋に頼んで作ってはいていた。
当時は自分ではかっこがいい、、、流行の先端を行っているとおもって、街中を闊歩して気取っていた。
そんなことをやって、目立つようにと行動をしていたのである。
狙いは「女の子に、、かっこいい」と言ってもらいたくてやっていたことが、、、同じ,他高校の不良にはきざな奴だな、生意気だなと言われて、喧嘩を売られて、、、良く喧嘩もした。
喧嘩は勝つときもあるけど、、負ける時もある、、、時の運という奴だ。
そんなことを繰り返して「悪友」が増えた。


2)16歳で運転免許を取得する。

高校1年の春に、、、親父から言われて自動四輪の運転免許を取ることにした。
昔の自動車教習所に今から64年前に行き運転実習と教科をならった。。。自動車の実地試験は「クランク」だけだった。
そして、学科の試験が受かってからの実務であった。
高校1年の天海一平には簡単だったのである、、、1回の試験で「学科、実務」とも受かり、免許証交付となった。
そんな中に偶然という巡り合わせに出会ったのである、、、二人の大学女学性がいた、、、その人たちとの出会いから4年後に天海一平はそのうちの一人の妹とつきあったのであった。
当時は結婚してもいいと思ったぐらい可愛い奴だったのである、、、
知り合うきっかけは、一平が主催で「バス合同コンペ」を企画してのことだった。
今でこそ、、、テレビなどでも行われている「合同お見合い」のようなものであり、、60年前としては画期的な若者の遊びであった。バスで、男女を募集して短い旅をして楽しみ、、、目的地での公園でボートにペアを組んで乗ったり、、、フォークダンスをしたりして知らない同士が友達になり、そして、恋人同士になったりしたのであった。。。一平はその健全なバスハイクを利用して金儲けをしていたのである。。。
そして、儲けた金で酒飲みをしていた、、、邪道な考えの若者だった。
そんなバスハイクで知り合って、付きあった奴が、4年前の自動車学校での知り合った妹とは奇遇でしかなかったのである。。。
その前に自動車免許を取り立ての時に、悪友と女友達を誘って、ドライブに行くことになった、、、
そのドライブは初めちゅう、、ダメだ、、お前らには貸せない、、」と、怒鳴られて散々にしくじったことがあった。
それからが間抜けな、珍道中をやってのけたのである、、、



ドライブをやめてというよりは、、出来なくなった代わりにみんなで筑波山に電車でいったのであった。。。
高校2年の男が3人、、女学生の高校性3人で筑波山ハイキングである、、、所詮、計画が無謀であった、、、一台の乗用車に6人は無理だったのである、、、今思うと懐かしい「トヨペットクラウン」だったな、、、古い古い昔の話だ、、、64年も前のドライブ逸話だよ、、、アはあはあは、、、だってば、、。
そして、、若かりし頃の天海一平は焦りがあった、、、運転ミスでドライブに行けなくなったという、引け目ちうか、後ろめたさがあった。
更に、、、何を間違ったか「酒」を飲んでしまったのである。。。16歳のガキだもの、、、酒の飲み方も味も分からずに飲んだから堪らな
い、、、、歌の文句じゃあないが「ぐでん、ぐでん」に酔っぱらってしまったのである。
意識朦朧、、、不覚にも何もわからなくなっていた。。。
本当の酩酊というか、、、生まれて初めて「酒」に何もかも奪われたという気持ちに襲われたのである。
その日は家には帰れず、、、悪友の家に泊まったはずであったが、、、気が付いたら親父が傍にいたのである。。。
親父は何も言わなかったが一平の「不良志望」が分かったようだった。



3)元朝詣出「筑波山女体山頂上で」初日を拝む、、

高校1年の時に「悪友」とともに初日の出を参拝する、、、元旦であるか筑波山の女体山頂上だから寒い、、、しかし、初めて山頂から拝む初日はきれいであり見事だった。
いいものだ、、、初めて見る初日の出は、、、山頂の岩の上からの眺めだったのである。。。
高校1年の時に筑波山に初日の出を見に行こうというので言ったのであるが、、、悪友の友達の「悪友」たちが宴会をしているというので参加したら、日本酒の茶碗酒であった。
一平は二度目の酔っ払いを経験したのである、、、、
酒とは怖ろしいものだ、、、酔った勢いで山頂を目指して歩いていったのであった。
よろよろ脚で、、、不埒きながらのぼったのであ」がる。
高校生だから、勿論、未成年であり、、、誰かが「警察が来るから、、逃げろ」と叫んだ。
酔っぱらった高校生が山頂を目指して逃げたのである。
誰も捕まらなかった、、、、そして、初日の出を見られたのだった。
その時の悪友が知り合いとなり、、、悪友の輪がひろがったのである。。
天海一平の不良仲間が増えていった、、、
ここから始まったのである、、、不良道が、、、
またしても「酒飲み」がつながったのである。


天海一平はいつのころから、気ながきになっていた、、、酒を飲むことを覚え、いっぱしの「不良学生」を気取っていたのである。。高校2年生の時だったか、、12月24日のクリスマスイブの夜だった。
学校の朝礼で訓示があったのである、、、今日から冬休みで、夜の繁華街の見回りがあるから、、、間違っても夜の巷を徘徊しないようにと、、、しかし、天海一平たちはやらかしたのであった。
今は無い料亭で「たこ八」で高校2年生8名で宴会をしである、、、表に出なければ分かるはずがないものを、一人が外を歩いてしまったから堪らない、、、そいつが学校の巡回先生に捕まってしまったのである。そして、、全員が「御用」となり、、、後の始末が「停学処分」の成った。。一人だけ前科があっで「退学処分」になったのである。
一度の処分で8名がなって、、、自宅待機ととなった。
その停学処分は約一か月近かったのである、、、其のうえにふざけた話だった。
一平たちの高校は学期の初めに「組訳テスト」があり、、、成績によってクラスわけがあるのだ。。。
一か月近くも停学になっての試験であるから出来るわけがない。。
その試験も「数学」と「英語」で組み分けをするんである、、、昔の軍隊でもあるまいに、、
「一番から50番まで」「51番から100番まで」の二クラスある。。。
誰が見てもクラスを見て成績順位が分かってしまう、、、その他の6クラスは同じような「一山いくらの」成績と見なされていたのである。。
一平は頭に来たので「0点」になるように、、何も回答しなかった。
そして、、試験結果で怒られた、、、「なぜ、、回答しない、」と、、言われたので、「出来ませんでした、、」と、、答えて、また怒られた。
一年るから2年に上級するときである。。
天海一平は「やったな、、、ざまーみろ、、」の心境だった。



4)高校2年生になって、、、

高校2年の春に「一山いくらのクラス」に入った。。。、磨きがかかったのである。
学校には休まずに登校していたのであつた。。女にもてたいという一心で、、、今思うと馬鹿なことをしていたと思う。
学校に行くと「学生ズボン」を脱いで、体操ズボン(通称トレパン)には着替えて、、、その脱いだ学生ズボンを教室の後ろ壁にぶら下げて置いたものだったった。阿呆なことをしてたのである、、、少しでも「折り目がきちんと」しているようにと、、、それをしたから「女にもてたわけではなかった」
バカなガキのお洒落だったのである、、、そして、、、学おきょして校が終わると馴染みに喫茶店に屯していた。
そんて、、そこへ通う女、、、花嫁修業中の20歳前後の、昔風なお嬢様を狙って、「ひっかけ」るのであったのである、、、みんな暇であり、、、良家のお嬢様がたは面白おかしく遊んだものだった。。。
そんなたわいもない遊びをしながら、大事な青春を過ごしていた、、、本当に無駄な時を費やしていたような、、、
そして、街中で息がってぶつかり合い、、、喧嘩もした、、、喧嘩で悪友が「タイマン」を張って決闘をしたことがあった、、、負けたしまい「記憶喪失」を起こしたことがある、、、その時は喧嘩を立ち会っていて参ったのである。
喧嘩をするときに決めたことなので、、一平たちは手出しができなかった。
始めは悪友が弱いとは思っていなかったので、、「がっくり」であるが、、、その喧嘩相手とは逆に「いい悪友」となったのである。。
一平は参加していなかったけど、、、学校で大事件が起きた。
一平たちはお昼の弁当を早めに食べてしまうために、、、お昼休みには校門前のお店に「やきそば」を食べに行くのであるうが、、、それを阻止しようと学校側が校門に見張りが付いたのであった。しかし、、一平たちはその間隙をぬって抜け出して「やきそば」を食べに行ったのである。。。
そこで学校側はその上を講であるた、、、余程、学校側も頭に来たのかもしれない。
學校の敷地の周りを松杭を打ち込み、、、「鉄線」をはりめぐらせたのである。。。
そん反撃は学生の中から馬鹿がでたのでた、、、リヤカーを持ち出し、、、一晩掛けて,松杭と鉄線を取り外し、、、近くの池に捨ててしまったのである、、、大騒ぎとなったが、、、「喝采」も起きた。
その結果は悪かった、、、学校側は囲いを「コンクリート」で作ってしまったのである。
可笑しな話だ、、、、あはあはあは、、、、だよ。



5)高校三年生だぜ、、、

天海一平が高校三年生の時にはやった唄が「高校三年生」だった、、、舟木一夫の流行歌がはやったのである
そんな時に高校3年だった天海一平はその高校の進学だけが目的の特別クラスにはいった。
私立大学へ進学が目的で、、、しかも、文化コースであったのである。
天海一平は私立の「早稲田大学」希望だったので、、そのクラスを選んだ、、、早稲田大学なら「学部」はどこでもよかった。。。
まったく、ふざけたはなしであったのである。
しかし、楽であった、、、そのクラスは「数学の授業では英語を」「体育の時間には国語」「理工科の事業では社会を」という風に、、、
大学受験のための授業をしていたのであった。
徹底した受験のためのじゅぎょうである、、、まるで、予備校であった。
不思議な高校だったのである、、、、試験的に天海一平の年だけに取り入れたようであった、、、その後はなくなったのである。
更に「数学の通常の数3はなくなり、、、国語、社会、英語に変わった」ので、、、高校3年で学ぶ「微分積分」はなくなった。
そして、単位はそれぞれの科目の単位が貰えたから、、、不思議な学校であったのである。
やらない学科の単位が取得できたのであった、、、まるっきりの大学受験の高校である。
そして、、大学受験のために最後の年の2月は、、まるまる休みでも休みにならなかった。
その月は全て、、、大学受験のためにつかえたのである。

天海一平の時代には私学大学の受験テストは「3科目」で「英語、国語、社会」を選ぶことが出来た、、、ただし、、私学文化コースだけである。
そして、「三科目で合計点数が7割」であれば合格なのであった、、、あくまでも「合計点数」だったのである。
天海一平は考えた、、、得意科目と苦手科目に分けたのである、、、勉強配分を。
「社会は得意の日本史で100点満点」「国語は70点」「苦手の英語は40点」で、、、「合計で210点だから7割で合格」といった勉強を2月はしたのであった。。。
そして、、、高校三年間はほとんど勉強をしないで「サボって」いたので、出来ないのが当たり前。
そこで「的」を絞ったのである。
「得意な日本史は高校2年の時の教科書を丸暗記」「国語はやはり高校2年の時の教科書のすべての漢字」そして、
そして、苦手な「英語は高校2年時の文法の教科書を丸暗記」で勝負をかけた。
金をかけて参考書を買って勉強しても間に合わない、、、やらないほうがましだった。
その作戦が大当たりで見事に「合格」を射止めたのである。
天海一平のいい加減人生の始まりだった。


6)高校卒業式の当日、、、事件が

天海一平も知らなかった、、、高校の卒業式に出たら、卒業生も在校生の代表も、、学校の先生たちも大騒ぎしていたのである。
なんだと思ったら、校長室の初代からの校長に「ひげ」が生えていたのであった、、、天界一平は後で犯人は分かったが、、、あとの祭りである。
当日の卒業式はそんままで進んだ。
その犯人の一人は「羽織袴で出席」してきた、、、もう一人は「学生服」をきていた、、、
そして、奇抜なことが起きた。
卒業式なら普通、、、名前を呼ばれたら「はい」か「はーい」であるが、、、
「羽織袴」の卒業生は「おーー」と答えた。
その時に出席していた在校生「2年生」から、、全員から「拍手喝采」を浴びたのである。
世にも稀な「珍事」が起きた。
卒業式という、一種のお祝いごとなので、卒業生には一切、おとがめなしで、済んだが在校生は怒られたらしい。
天海一平には愉快な卒業式だった。
そして、天界一平は「お祝い飲み会」があって、いつものように飲みすぎて、家まで帰りつかなかったのである。。
悪友のところに「卒業証書」をもったままで、、、「朝帰り」であった。
卒業記念と称して、、卒業証書を丸めて持って、、電柱に登って何かをしていたよ。うだ。。。
それでも「卒業証書」は家に持って帰ったようだ。
バカな一日だった、、、、
これが高校最後の日であったから、可笑しい。


7)早稲田大学へ入学しての天海一平は、、、

しかし、不思議なもの、、、高校の卒業式にも来なかった両親が早稲田大学の入学式には田舎から東京まででてきたのだから、、、バカ息子の大学進学が嬉しかったのか、、、、そして、、、親人の親戚筋にまで一平を連れて挨拶。に言ったのである。余程嬉しかったのだろうか、、、なんか、親孝行をしたようだった。
親とは面白い、不思議な生きものだ、、、自慢したかったのか。
田舎からは通学できないと思い、、、その親戚の人たちに一平の下宿先を見つけてもらっていたのである。
その下宿先は文京区林町にあった。人の好さそうな老夫婦のいえであり、、一平の他に大学生が一人下宿していた、、たしか、苗字は忘れたが「ゲンちゃん」て言ってた。
そして、半年後にもう一人の下宿人が増えた、、、高校3年生だったか、、、岐阜市のちょうちんやの息子だったな、、
その老夫婦には孫娘がいて、よく遊びにきてた、、、
そんな老夫婦には何の不満もなかったが、門限の有る下宿が嫌になり、早稲田鶴巻町のアパートに引っ越しをしたのである。老夫婦の家に下宿していた頃には「銭湯」へ初めて入った。当時「銭湯代が55円」だった。今から62年前のはなしである。。。。
早稲田鶴巻町のアパートは4.5畳の一部屋で、トイレも炊事場も共同であり、、、お風呂は勿論「銭湯」であった。
飯は朝昼晩と外食がほとんどであったが、気が向くと共同炊事場でご飯を炊き、みそ汁を作っていた。、
隣の部屋との壁は「ベニヤ」のようなものだったので、声が聞こえたのである。。。
夜中に腹が減ると「よなき蕎麦屋」が屋台を引いて、、ぴーひろろとやってくるのでよく食べた、、、冬などの寒空で食べる夜鳴き蕎麦は旨かった、、、遠い昔の物語のようだ。
一平の部屋代は1か月「5000円」だった。アルバイトなどをやって、臨時収入が入ると、アパートの隣が小さな「バー」飲み屋だったので、たまには飲みに行っていた。
一平のアパートは早稲田鶴巻町にあったので、大学まで歩いて5分ぐらいだったので、友達がよく来ていた。
昼飯は大学に隣接して、定食屋がいろいろあった、、、一平は焼き魚定食や、、野菜炒め定食が好きだった、、、定食代金は「500円」が多かった、、、たまには「コーヒーショップ」へ行った、、、行きつけは小さなカウンターだけのお店だったけど、、、
今思うと懐かしいことばかりである。
青春時代の甘酸っぱい時があったような、、、、あの頃の友達はどうしているだろうか、、、時々思い出す。
元気でいるやつもいるだろうが死んだ奴もいるだろう、、、人生とは不思議だ。
大学時代に一緒に遊んだ奴で、、フジテレビの子会社の社長になったやつもいた、、、奴は一平が連れて行って「童貞」を失った男だ、、、そんな奴もいたな。
大学時代に九州旅行した奴は交通事故で死んだと聞いた、、、また、アメリカへ言った奴は行方不明だとも噂で聞いている。いろいろな人世があるようだ。


8)一平は下宿をやめて、、、田舎から電車通学をした。

一平は体育の授業の選択で失敗して、、、夏休みの二か月間の夏季講習を受けることになったのである。
半年間の授業を20日間だったか,まとめて単位を取得することが出来たのであった。。。このシステムを覚えた後は
ほとんどの授業をまとめて取得すようになり、、、普段の授業にはでなかったのである。
そんな夏季講習の時に、一平の部屋は学校の敷地内と同じだったので、、同じような授業を受ける仲間が8人ぐらい泊まったことがあった、、、4,5畳のアパートであるから、横になって寝たら動けなかった。
それでも若いとは凄いものだ、、、
そんなことをしているうちに、、、数人の早稲田大学の1年先輩たちが土浦から通うというので、一平も仲間とともに通学するようになったのである。
そして、電車通学も楽しいことを覚えたのであった。
常に登校するときと、、帰りの電車では待ち合わせをして、一緒に帰ってきたのである。
悪友たちとの通学であるから、、常に遊ぶことを考えていた、、遊ぶといっても、やっぱり学生だから「金」がないのだ。
そこで金を出し合って「日本酒4合瓶」を買う戸のである、、、そして、電車内酒盛りをちびりちびり始めるのだった、、、若いから話は弾む、、飛ぶのである、、人生論などを戦わせて。
電車が土浦駅に着くころには「ほろ酔い」になる。
毎日、楽しい日々で有った、、、金は無くても青春とはいいものだった。
仲間の誰かが、少しだけ「例えば1万円」でもって居れば、知っている飲み屋に出かけ、、飲みすぎた時は「つけ」てくるのであった。
そして、知っている先輩が居たらご馳走ななるといった、、日々を過ごしていた。
そんことを繰り返していたら、、、一平はある芸者に好かれて、、付き合ったことがあり、、多少ではあるが「金銭的にも」世話になったのである。
もう一人のホテルの悪友が芸者に惚れられて、、一平とそいつの女愛が仲間の遊びを助けたものだった。、、、
そんな酒飲み遊びをくりかえしていたのである、、、


9)バカ息子「一平」はクラブを借り切ってもらった。

一平は大学2年の時に馬鹿をやってのけた、、、馬鹿息子丸出しである、、今から考えると本当に
「親不孝」をしたものだった。
いい気になって、通慣れたクラブを借り切って自分の誕生日会をしたのである。。
一平は一級先輩がやったので、自分も自慢をしたくて、そんな飲み会をやったのだった、、、
お袋が来てくれて、支払いをしてくれたのである。
なんて馬鹿な親不孝息子だったのかと、、今は反省しているが、、、当時は有頂天だった。
そんな馬鹿「一平」はそれからも酒飲みをして、、、馬鹿な行動をしていたのである。。。
金持ちでもないのに、、、金持ちぶって、、、いい気になってクラブやバアーを飲み歩いた。
酒を飲むから気が大きくなって喧嘩もした、、、そんなに喧嘩も強くないのに「息がって」いたようだった。。。
喧嘩も負ける時が多く、、、怪我もしたものだった。
それでも懲りずに大学4年の終わりまでは馬鹿素行をしていたのである。
自分はいっぱしの遊び人気取りで、ヤクザと言われる不良とも酒を飲んでは「大ぼら」を吹いていたので、、、喧嘩は多くなった。
喧嘩も数を熟せば、少しはつよくなっていったのである。
金もないのに飲み歩くからトラブルも起きた。
一時は生活が荒んでいったものだった、、、、
女にもてもしないのにモテたと錯覚をしていた頃もあったようだ、、、
確かに人よりは女にもてたような気がした時もあり、、何人かとは付き合っていたが、、所詮は金が無いので長続きはしなかった。


10)荒れた青春祭り「腐った青春」

天海一平も腐った沈んだ青春があった。何をしても面白くなく、、何をしても旨く行かなったのであった。
人生にはいろいろあるようだ、、、ましてや青春時代のひと時のことであるから、、そんなことは当たり前のことだった。
毎日、雀荘に通い、「賭け麻雀」をしていた、、、そんなに弱くなかったので、誰もが遊んでくれた。時には大勝をするときもあり、、そんな時にはバアーなどへ飲みに行っていた。まるで遊び人というかチンピラのような生活をしていたのである。
女もいて、、女は水商売で働いていて、まるで「ひも」みたいであった。
そんな生活で、、いいのかと悩み、、腐った人生だった。
目的もなく、ぶらぶらしていた時に,麻雀も大勝していたので訪ねて来た悪友と酒を飲みに行った、その店で大学違いの先輩と会い、、一平に飲んでる席に来て、、偉そうな口を聴いたので、、、
一平が飲んでいる酒を、その偉そうな先輩の顔にひっかけてやったのである、、、
それは怒るわな、、頭にきて、、、
「この野郎、、何するんだ」というから、、一平はむ一度、、
その先輩の顔をに「こうやったんだよ、、」と言って、また、酒をかけてやった。
それから、、、「この野郎、、、ふざけやがって」と、、殴り合いの喧嘩になったのである。。その先輩の連れて来た仲間が、狭い店の中で10人ぐらいで一平に殴りかかってきたから、堪らない。
一平はめちゃくちゃに殴る蹴るをされた。
一平も奮戦したが多勢に無勢で、やられる中で一人だけを離さずにぶん殴り続けたが、やられパなしで負けた。
その店のママが一平の知り合いだったので、警察を呼んでくれたので喧嘩は収まった。
一平は口の中は斬れるわ、顔中殴られたので傷だらけだったのである。
喧嘩が収まり、一平は悪友と引き上げた。
悪友は何もできず、みてただけだったが、その後、訪ねて来なかった。
一平はその当時、世話に成っていた女の部屋で、傷の療養をしたのであるが、、
治るまで、約1か月かかった。酷い喧嘩だった。


11)荒れた青春、、、博打に喧嘩、、まるで、ろくでなしだ。。。

天海一平も大学4年の頃は生活があれていたようだった。
學校へは行っても悪友と大学の近くの雀荘で麻雀をして過ごしていた。夜は悪友と少しの金を集めて酒を飲んでは、無駄な下らい時間をすごしていた。
悪友の家がホテルや旅館をしていたので、、、泊まり込みで酒を飲みながら「人生論」交していたのだ。
徳にもならない人生論だ、、、そしては女の話に花を咲かして、騒いでいたような、、、
そして、雀荘に通い麻雀に明け暮れていた、、、何のための大学だったのか、、勉強もせず、酒を飲み、博打まがいの麻雀をして、まるで「ろくでなし」であった。
折角入学した早稲田大学で何をしていたのかと反省が、、、最後の頃には「情けなさ」がこみあげていた。
何も学ばず、、、時間だけを浪費した4年間だったような気がする。
一平の人生で一番無駄な時間を使ったものだと、、、
そんな気がする人世時間だった。
しかし、無駄は過ごしたが、、、馬鹿な人世経験はしたようだった。
「無駄」という経験を、、、、
女との恋道経験、、麻雀という博打遊び、、くだらない喧嘩経験と、、
色々な無駄時間を過ごしたことも経験したことも事実だ。
そんなことが後々の一平の人生道に少しは生きているような気もするのだった。
それを考えると、無駄な時間を過ごした青春も生きているのかも知れない。


12)大学を卒業してから家出をした一平。。。

一平は早稲田大学を中退した。大学4年の時に不足した単位は「第2外国語」だけだったが、、、すでに学校へ行く気が無くなっていた。
それで、家業を手伝っていこうと思い学校をやめてしまったのである。
そして、親がやっている「パン屋」に就職をしたのであった。
一平は本気で継ごうと思ったので、真剣に仕事を覚えて行こうと朝も早くから起きて修行した。
父親のパン屋は学校給食と高校の売店でのパン販売をしており、、母親が土浦駅前でパン販売のお店をしていたので忙しかったのである、、、会社も株式会社形式であり、社員も50人ほどの生産工場であった。
しかし、一平には親孝行をすることができなかったのである。。
父親が決めた、、、早い話が「親同士の決めた結婚」を進めたのであった。
一平も始めは「いいか、、」と思っていたが、、、
ある日突然に、その結婚が嫌になり、、家を飛び出しいてしまったのである。。
それから、今のかみさんと一緒になって、長女桜が4歳になるまで家にもどらなかったのであった。
その間は両親からは「勘当」されていたのである。。
徹底した親父だったのかな、、弟の結婚式にも呼ばれなかった。
親からは絶縁されていたけれど、、、弟とは付き合いがあったのであるが、、、
ある時期からは弟からも勘当扱いにされたのである。
一平は一時は事業も旨くいっていたが、、、失敗を重ねて、両親には迷惑をかけてしまったのだった。
一平の失敗で、、筑波の家にもいられなくなり、、借家住まいをしていたこともあったのだ、、、筑波の家は一平の両親が作ってくれたので、、、早い話が「追い出された」のである、、、弟とも喧嘩になり、、一平は無一文になり、家無し生活をしたこともあった。
中学時代の友達が貸しビルをしていたので、、、空き室にすまわせてまらったのである。
その友達の貸しビルの空き室に住むまでにも、、一平は大きな失敗を繰り返していた。
一時は「産業廃棄物処理業」で一本立ちして、、貸しビルまで作り、事業を運営していたのである。
一平の起こした事業には「建設業」もあり、、貸しビルの中でディスコを運営して儲けていたこともあった。しかし、旨く行きだすと、事業を広げすぎて、気が大きくなり、遊び過ぎてしまい、、気が付くと失敗という「二文字」に襲われていた。
バカなのか、、、同じことを繰り返していたようだ。
それでばかリ家族にも迷惑をかけてきたのだった。
そして、最終的には無一文になったのである。


13)一念発起、、、「此畜生と思い」人生を取り返したのであったが、、、

一平は家出をしてから、いろり仕事をやった。旨く行きだすちょっと気が大きくなり、失敗を繰り返してたのである。
無一文になり、昔、世話に成っていた会社が広島へ移転して、産業廃棄物の医療廃棄物を始めたというので行ってみた。その会社も失敗をして福岡から広島へ移っていたのである。
一平にしてみれば「産業廃棄物処理」は得意事業なので話に乗って手伝った。
そして、一平は軽トラックに乗って頑張ったのである、、医療廃棄物なので病院関係の営業をして、入札などにも参加して仕事を増やしていった。
更にはドコモとの携帯電話のリサイクルなどの契約も行い、、広島の会社のリサイクル施設を売却することも出来たのである。一平は取引の無い初めての会社との営業を進めて、交渉して契約まで持っていったのである。
広島市内の大学病院などの入札契約をしたり、、、ドコモへの直接契約販売をしたりして、事業を拡張していったのである。
そして、現在の営業している事業所会社の販売も進めて、1億円での売約も決めたのであった。
一平はお人好しであった、、、早い話が利用されて、最終的には置き去りになったのである。
会社売却が済んだら、、、元の東京へ戻るから、一平も一緒にということでったから、、夢中で動いたのであった。
しかし、売却が済んで金も入ったら、、さっさと東京へ引き上げたのである、、、一平は後から来るようにするからと言ってたが、なしの礫だった。
騙されたのである、、、騙されて一平が馬鹿のだ。。。「くそー、、騙された」と、思っても後の祭りだった。
それから、しばらくは踏んだり蹴ったりの日々が続いた。
いくつかの会社から頼まれたので「医療廃棄物処理業」の仕事をてつだったのである。
広島市東広島で、、、京都府丹波市でと手伝ったが、、思ったほど、条件や話が違うので引き会立てて上げたのであった。
丁度東北での「3.11」の地震津波が起きたので、、一平は茨城へ引き上げたのである。

そして、茨城へ引き上げてから一平は一念発起したのであ

14)太陽光発電と巡り合う。。。

一平は伽しい日々を送った。後悔もした、反省もした、、しかし、一平には思い当たることがなかったのである。。。そして、反省の日々の中で、、考えた。子供たちへの不幸へのかけぱななしであり、、かみさんへの不幸のやりぱなしだ。。。
そればかりではなく、、、一平の失敗人生で、どれだけの多くの人々に迷惑をかけたことか、考えれば考えるほど多くの
失敗からくる多くの人々に不幸を与えたことか、、、、
一平はよく考えた、、、すべてがその「報い」ような気がした。
「そうだよ、、迷惑をかけた人たちへの感謝の心を忘れているな、、」と、、、つくづく思うのである。
失敗した上に、、、「生きている、、、まだ、生かされている」のだ。。。
それだけで充分ではないか、、、それだけで十分なのだ。
生きてから、、償いはそれからではないか、、、まずは一生懸命に生きなくてはならないと。。。
そして、一平に出きることを見つけて日々を生きて行かないとおもったのである。
一平は失敗しても「命があるじゃあないか、、、生きていれば償いが出来る」そう思って前へ進んだ。
友達の貸しビルの一部屋に済ませてもらった。
何もなくなって、、「運転免許証」もなくなったので、とりあえず「一発試験」を受けに運転免許試験所にバスででかけた。無一文の一平は悪友から「1万円」を借りて、試験は受かった。
そして、飯もけなかったので悪友の奥さんが毎晩「どんぶり一杯の飯」をとどけてくれたのである。。
一平はそのどんぶり飯で、、おしんこだけの食事をしていた、、、伽しいけど「少しでも食べれればいいと」思っていた、、、死なない程度に。
かみさんは娘二人が働いて面倒を見ていてくれた、、、ほんとうにすまない人生の谷間であった。
一平は運転免許を取得してから、すぐに、知り合いの水道ガス設備商店に弟子入りをしたのであった。
そして、前借をしてかみさんたちの生活を支えた、、、本当に最低の生活であったのであるが、、、夢中で働いた。
以前住んでいた家にも戻れたのである、、売却の段取りをしていた弟が、、売れないので住まわせてくれたのであった。
一平の貧乏生活ではあるが、、家族が済める以前の家に入ることも出来たので生活費を夢中で稼いだのである。
半年も過ぎたころには仕事も覚え、、軽トラックを譲ってもらい、独立して、水道工事の修理やエアコンの取り付けが出来るようになったのである。。
敷地内の水道工事やエアコン取付は資格がなくても出来るので、世話に成った設備商店の下受け業務と個人注文の仕事をする様になった。
稼ぎも多くなり、長男もてつだってくれたのである。
軽トラック一台の仕事から、、「太陽光発電施設」の設置の話があり、、その販売を始めたのであった。
一平の元来の営業力から仕事が増えていったのである。。。太陽光発電の販売が思うように動いて、一平は工事も自分でやろうと思うようになった。当時の売電料金は1kw当たり42円だったので、儲かった。
バカな一平の青春の最後の仕事には花が咲いた,、「青春祭り」だった。
見事に10年間続いた「青春祭り」にも花が散ったのである。




15)青春祭り、、、子供時代の遊び祭り外伝

天海一平の子供の頃、、、昭和26年ごろからの遊びは全てが外で、、野外で遊んだ、、遊び場は「山や川、湖、野原」だ、、自然が相手の中での遊びだった。
今のようにゲームやテレビもなかった、、一般家庭であるのはラジオぐらいのものであった、、、だから、暗くなるまで外で遊んだのである、、、
そん頃は遊びを子供同士で考えた、、必ず、遊び上手な奴がいて、遊びを作り出していた。
金もない、物もない、、今、傍にあるものを使っての遊びであった。
昔の子供たちは「遊びの天才」だったのだ。

1)釘倒し

一平の子供の頃は鉄くず拾いが遊びの中にあった、、近くの戦時中の兵学校の宿舎の縁の下に潜って探すと、、釘やかすがいなどが出てきたのである、、、そして、「真ちゅう」という銅線のようなものが高く売れたのであった。
金が無い子供たちは鉄くずを売って,小遣いを稼いでいた。。その他にも「ウサギ」特に「アングラウサギ」がそのウサギの毛が売れたので「昔の林檎箱」を改造して飼育していた、、、エサは野原や山に行って草を取ってきて食べさせていたので「ただ」であったので。。。。
鉄くず拾いをした中の「6寸釘(10cmから15cm)」で地面に指して、お互いに倒しっこをして取り合った、、
これも「子供博打」であった。
考えてみたら可笑しな現象である、、錆びた、たかが釘を真剣に奪い合ったのであるから、、、

2)エビガニ釣り「田んぼでタニシ採り」「ドジョウ採り」とよく遊んだ、、、

天海一平が小学2,3年の頃、、昭和26年ぐらいか、、まだ、田んぼには薬品除草が蒔かれていなかったので、「タニシ」「ドジョウ」が採れた。田植え前とか、稲刈り後の田んぼで「小さな穴」が開いていると「ドジョウ」が採れたのだった。
ひとつの穴に指や細い篠を押し込むと、別の穴から「ドジョウ」が出てくる、、面白いよに採れた。
「タニシ」はまだ水があるころに田んぼにはいっぱいいたのである、
「ドジョウ」や「タニシ」は家で、お袋に煮てもらって食べていた、、多く採れると食卓におかずとして並ぶ、、、食べ物がないころの話だ。
「タニシ」は煮てから、カイの入り口に蓋の様なものが付いているので、、マッチ棒で取りはずして食べるのであるが、、美味しかった。
るろ、鍋に入れて、、昔は七輪という焼く道具「今ではコンロのようなもの」で煮て食べる。
子供のおやつであった、、小さいけど、、今で言う「ロブスター」の味がして旨かった。

一平の小学生の頃には「昭和26年ぐらいから昭和31年ぐらいの間」その間は自然あるもので食べれるのは何でも食べていた。。
その採り方にはいろいろあったが、子供なりに工夫して考えて採っていた。
そんなことで自然が先生であったような、、自然から学んだことが多かった。
そのころの子供たちは逞しく強く育ったようだ。
その遊びと自然の環境をいくつか話して見たいような、、、、



 

3)霞ヶ浦で「たんかい」採り、、雨期に田んぼで「鮒手掴み」、、小川で堰き止めて「川魚、淡水エビ」採りなど、、、

小学6年生の頃になると霞ヶ浦で「たんかい」採りをする、、、背の立たない深いところまで泳いで行って潜って採るのであった、、、道具は浮き輪の代わりに「孟宗竹」を3mぐらいに斬ったものと、それに袋を付けて泳いでいくのである。
そして、最初、足で「たんかい」を探して、場所がわかったら頭から潜って手で採るのであるが、「たんかい」の大きさは20cmぐらいある上に、砂の中に三分の二は埋まっている、、とりだすまでに2回は潜らなければならないのだ。
やっと、採った「たんかい」を2,3個、家に持って帰り「切り干し大根」と一緒に煮てもらい、食事の時におかずとして並ぶのであった。
一平が子供の頃には、霞ケ浦には堤防が無かったので、雨季になって大水になると、眞籠(魚の卵)を持った「鮒」が霞ヶ浦に隣接した田んぼに上がってくるのであった。その鮒を手づかみで捕って、それも又、家で煮てもらい、家のおかずになったのである。
その田んぼに上がってきた「鮒」を捕るのには、ザル籠の大きい奴の「底」を脱いだもので、鮒をかぶせるようにして捕まえるのであった。
全て、あるものを使って利用する、、工夫するのである、、、
それから小さな小川の部分を「泥」を積んで堰き止めて、、バケツで堰き止めた中の水を掻きだして、中に残った、川魚や川エビを捕る遊びもした。捕った獲物は家に持ち帰り、煮たり焼いたりして食べた、、これは「おやつ」代わりだった。
堰き止めをした「泥」を、終わったら壊さなかったので大人に怒れらたものだった。
それから「ハスの実」が旨かった、、ハスの実を取って怒られたことがある、、、それはハスの実は取ってもいいが、、取ってらその元の茎を折っておくように言われた。。ハスの実を取りっぱなしにすると,その折った茎の先から雨水が入って、根っこの「はす」が腐ると、怒られたのであった。
そして、一平が子供の頃には何でも食べた。
「スズメ」も霞網で捕ってた、、禁止になったが、、、「スズメの焼き鳥」であるが、余り旨くはなかった。
「カエル」も食べた、、ただし「赤ガエル」だけで「七輪」で焼く前に皮を剥いて、叩いて伸ばして焼くのであった、、、
山の物では[しいのみ」「山栗」「あけび」と、、、何でも食べれるものは子供のおやつであった。
それから「きのこ」も採った。
遊びと実益をかねていたような、、、時代であった。



4)一平たち子供は「おやつ」も自分たちで集めた。遊びも考えた。

その1)竹馬

一平たちは山から竹を切ってきて、、勿論、竹林の持ち主からもらうのである。
その竹を自分の背丈に合うように二本用意する、、そして、昔はどこの家にも燃料にするための「薪」があったので,その薪を半分わって、縄を使い、竹に人が乗れるように縛り付けるのであった。そして、二本の足で乗って歩く遊びで子供同士で、、いかに高い竹馬に乗れるかを競ったのであった。


その2)竹スキー

一平が子供の頃は、茨城のつくば辺りに冬になると雪が降り、、1mぐらいは積もったのであった。
そして、孟宗竹(太い竹)を竹林から切って、スキーの板の長さにして、、
その竹の先端を火であぶって曲げる、、スキー靴の代わりにゴム長靴を竹板の上に載せて,ひもで固定したのであった。
ストックは篠の太いのを使って作り、、雪の積もった坂道を滑って遊んだ。
何もない時代の工夫した遊びであった。

その3)竹トンボ

孟宗竹を15cmから20cmに切って、、小刀「一平の子供の頃は鉛筆を削るためにほとんどが持っていた」で、、薄く削って、、竹トンボの羽を作った。
そして、その羽を回すための心棒を細く,丸く削って作り、、誰が遠くまで、または高く飛ばすかを競った遊びである。


その4)杉鉄砲,紙鉄砲、水鉄砲遊び

杉鉄砲も紙鉄砲も、、水鉄砲もそれらを作る材料は山から「篠」を取ってきて、
太い篠、細い篠、、使い方によって篠を選り分ける、、、
杉鉄砲は「杉の実」を細い篠の筒の中に詰める、、そして、その実を筒の中に押し込む心棒をつくり、勢いよく押し込むと「杉の実」が飛び出すのであった。
ただし、、筒の篠の部分には先端と入り口にひとつづつ、、「杉の実」を押し込んでおく、、そうしないと「杉の実」は飛び出さない、、、ここが大事なやり方であった。
紙鉄砲は太めの篠を使い、、やり方は「杉鉄砲」と同じであった。
水鉄砲の作り方のコツは筒の部分と水を押し出す心棒を隙間なくつくることである、、、後は水を吸い上げて押し出すだけであったが、、、削ったりして少しだけ、子供ながらの技術が必要だった。



その5)缶缶馬遊び

開いた缶詰めの蓋を斬り落として、逆さまにした缶缶に穴を空けて、、縄を通す、、、手の届く範囲で縄を切って足に履かせる、、
足の親指と人差し指で縄を挟んで、缶に乗るのである、、
道を歩くと馬のように「ぱかぱか」と音を立てるのであった。
そんな遊びであるが、、その缶缶馬で走って競争をするのであった。
これもあれも、ある物での工夫遊びであった。


その6)自転車三角乗り遊び

一平が子供の頃には子供用の自転車などは贅沢品で買ってもらうことなどは出来なかったので、、大人用の自転車のサドルには座れなかったけど、、その大人用の自転車を使って遊んだのである。。。
サドルの下の三角部分のフレームの間に足を入れて、ペダルをこいで動かしたのであった、、、それでもよく走った、、
子供同士では「三角乗り」と言って、、、
昭和20年ごろから遊んだ子供なら知っているはずだ。


その7)凧揚げ遊び

一平の子供の頃には「四角凧」が多かった、、、「奴凧」などもあったが、、茨城で遊んだいた一平たちにはそんな凧がおおかったのである。
凧の足には新聞紙を切って、細く長くつないで飛ばした。
凧の糸は「凧糸」という糸があった、、、
そして、、今のように電線なども多くなかったので、空高く飛ばせた。
以下に、高く飛ばせるかが子供の頃の自慢であったのである。。
小学の高学年になるころには「凧」を「ひご」というものを作って、自分で組み立て、和紙を貼って作った斧であった、、、それも又、自慢であったのである。
一平の子供の頃には何でも自分で作るという、、創意工夫も自慢であった。


その8)メンコ遊び

メンコには「四角なメンコ」一平が子供の頃は「角ぱあ」と言い、、「丸いメンコ」のことを「丸ぱあ」と呼んでいた。
ほとんど遊びは「角ぱあ」で遊んだ。。
勝負をして、取ったり取られたりしていたので「子供の博打」であった。
勝負も一枚二枚の勝負では面白くないので、、、「ぶ」という遊びと「ちょう」という勝負があった。
今、思うと意味が分からなかったけど、、、「ぶ」は一度に「20枚も40枚も掛けての勝負」であった。
子供にしては大きな博打であった、、、「ちょう」の勝負は初めから枚数を決めての勝負であったので、、意外と安心して遊べた。
「部」の遊びは制限がないので、、こども心にも熱くなると「負け」が大きくなった。
そんな博打遊びをしていた一平であった。



その9)ベーゴマ遊び

この遊びも結論から言うと、、これも「子供の博打}だ、、、ベーゴマを回すとこ「限定した場所(50cm)四方の丸い台」を作る、、その「とこ」は樽かなんかの上にシートかゴムでできた布を張って、そのシートが動かないように紐で縛って作るのであった。
その「とこ」の上でベーゴマを回して,ぶつかり合わせて、「とこ」から落ちたら勝負は負けであった。
勝負に負けたら、ベーゴマは相手に取られてしまうという博打である。
只、ベーゴマを回すのにも子供ながらの技術が必要だった。
また、ベーゴマにいろいろな細工をして、、そのベーゴマを強くする工夫をしたのであった。
その細工にはやすりを使って、磨いたり、先を尖らせたり、、いろいろな手段を講じた。
ベーゴマにも始めから「平ベーゴマ」「高ベーゴマ」があって、そのベーゴマの回し方、使い方でも「勝ち負け」が決まる。
一平は「ベーゴマ遊び」が強かった、、、ことを思い出す。


その10)駒遊び

駒遊びは「お正月の遊び」と、、普通は決まっているように言われているが、、普段でも駒遊びをした。
駒は出来ている駒を使うが、、、これも「子供の博打」であった。
駒を回す紐は「麻」や「布」を編んで自分で作るのである。
そして、駒を回す順番を決めて、じゃんけんで負けた者から回すのであった、その駒をめがけて、駒をぶっけて相手の駒を倒して、なおかつ、自分の駒が回っていれば、ぶっけた方が勝ちである、、、
この勝負も勝てば駒をもらえるのであった。
一平が子供の頃の遊びはほとんどが「博打遊び」である、、、だから、夢中で真剣に遊んだ。



11)ビー玉遊び

この遊びは「ビー玉」を使って遊ぶのであるが、、これも「博打」である。。。取ったり取られたりする勝負であった。
地面に三角の形を書いて、、その中にビー玉をそれぞれに入れて、、外へ出すことから始まる。
順番を決めて、ビー玉を三角の中のビー玉に当てて、外に弾き出して、、今度はそのビー玉を一個ずつ決められた場所から当てて,当たったら、そのビー玉が自分の物になるのであった。
こんな単純な遊ぶ日に夢中になった日々があったのである。


12)おはじき遊び

この遊びも「博打」である、、子供の小遣いで買ったおはじきを取りっこするのであった.
決められた台の上で、指で弾いて、台の外に出せば勝ちであり、、そのおはじきが自分の物になった。
しかし、一平が子供の頃は「博打遊び」が多く、、夢中で遊んだものだった、、、いつの時代も大人も子供も、、この浮世では博打が好きなようだ、、、


13)けん玉遊び

この遊びは物の取った取られたはなかった。子供同士の技術を競い合った、、、けん玉一つで、、多い時には10人でも何人でも同時に遊べたのである。
最初にじゃんけんで順番というか、、一番最後まで勝ち残ったものが「王様」となり、、後はじゃんけんで勝った者の順番で並び、、一番負けた者が「乞食」となって、けん玉の技術を競うのである。
乞食ではないものが「けん玉」をやり、、乞食がその技術に勝ったら上に上がっていくもので、、負けたら「乞食」を交代していくのであった。最後に「王様」に勝ったら、王様も乞食になり、、繰り返し遊べるものであった。


その14)馬乗り遊び

この遊びも男も女も一緒に遊べて、、人数も数多く遊べる。
親というか壁や大きな木を背にして立つ、、その親の足の股に頭を突っ込んで馬になり、、次の人間もまた、馬になった人間の股に頭を突っ込んで馬になる、、これを繰り返して10人ぐらいの長い「人間馬」が出来る。。そして、今度はその馬に乗る人間が居る、、
馬になるか乗る人間になるかは、最初はじゃんけんで決める。その次からは馬が潰れたらやり直し、、全部乗る人間が乗ったら、馬側は立っている人間と、乗る側の人間の代表がじゃんけんをして決めるのであった。この遊びは冬が多かった。

その15)Sケン遊び

この遊びは教室の中でも運動場でもできた。
床に大きな「Sの字」を書いて、そのSの字の中にいる時は両足で立っていていいが、、外に出たら、片足でケンケンして歩き、敵方と片足で倒しっこをする遊びであった。
男女一緒に遊べてたのしかったものである、、思春期の男女の美しい触れ合いあそびであった。
今考えると他愛もない遊びであるような。。。

その16)「くちくすいらい」という遊び

この遊びの字はどういう風に書くかわからない。。。
遊ぶ方法には「帽子」が必要である、、、それも「つば」ある帽子だ。
つばを前にかぶるものが「大将」で、つばを横にするものが「水兵」で、つばを後ろ向きに被るものが「陸兵」と決めての遊びである。
御互いに陣地が有るので「二組」に分かれて闘う遊びだ、、、
大将が捕まるとゲームセットで、、大将は帽子を横に被ったものを掴まえることが出来る。帽子を横に被った出ているものは帽子を後ろに被ったものを捕まえることが出来、、帽子後ろに被ったものだけが大将を捕まえることが出来る遊びである。。
大将は走るのが一番早いものがなったいた。
走ることの出来る運動を兼ねた遊びであった。


その17)後ろの正面「誰だ」という遊び

鬼を一人決めて、、順番に鬼になっていくあそびである。
鬼が一人後ろを見ないで目隠しをして、、一番先に動いた奴を当てる遊びだ。
人数は何人でも一緒に出来る遊びで、鬼以外は何人でも参加できる。
どっちかというと「女の子供か」「幼い子供」のあそびであった。


その18)下駄スケート遊び

冬の遊びで、、古くなって下駄の歯が低くなった下駄の歯に「番線」を張って、スケートの代わりにして滑って遊んだ、、、スケートリンクは氷の張った田んぼである。
氷から出ている稲の根っこは鎌で切って、平らにするとリンクのようになって、滑るのであった、、、一平たちの子供の頃の遊びの工夫のひとつであった。


その19)チャンバラ遊び

遊び道具の「刀」は自分で作るのであった、、刀はある程度の太さの木を山から切ってきて、、削って刀らしくつくった、、、そして、刀の鞘は新聞紙を固めて、のりを貼って作っていた、、、のりは「ご飯粒」で作り、、絵の具などで色を塗っていた。
結構面白い遊びであった。
自分で成りたい時代劇の剣士になって、夢を追っていたような気がした。
鞍馬天狗は好きでやっていたような。。。


その20)縄跳び遊び

長い縄を用意して、、縄を回す子供は二人で順番でやっていた、、、
縄の中に入って飛ぶものは5人ぐらいづつで、、チームを作って、どのチームが一番飛べるかを競って遊んだ。。ただ、それだけでも楽しかった、、冬が多かった。
昔の子供たちは動いて「暖」を取ったような。。