「愛と絆の物語」、、「愛犬物語」 

1)愛犬が雲に乗った

夕焼雲に乗った愛犬「ゴンとチャッピー」の姿が雲の上に大きく浮かんでいた。
「さようなら、、、いつまでもみんなでなかよくね、、、」
と、、言っているような。
そんな「ゴンとチャッピー」が先日亡くなった、、、日にちをたがえずに旅たっていった。毎日、一緒に遊んで、昼寝をしていた子犬たちだった。
朝な夕なに出迎え送ってくれていた「ゴンとチャッピー」が、今はもういない。
不思議だった、、、
「ゴン」は亡くなる2年ぐらい前から「後ろ足」を引きずって歩いていた。そして、18年も生きてくれて、可愛い目をぐるぐる回して愛嬌を振舞ってくれていたのである。人間で言えば老後生活であり、、汚い話であるがおしっこも便もやりパなしであった。。
それでも動かない後ろ足を引きずって必死に生きていたのである。
人間なら大変だよ、、、
「足が痛いよ、、、腰が痛いよ」と、、きっと、文句ばかり言ってたような気がする。それを何も言わずに生きていたのである。
ときたま、怒る時もあった、、そんな時には小さいからだで大きな目に、涙をいっぱい浮かべて、、俺たちの顔を見上げていた。
黙ってみていたのである、、、
今、思うと人間とは勝手ものだ、、、可愛い盛りの時には「ゴン、、ゴン、、」と言って、頬ずりして抱き上げる。
病気になった「ゴン」はついつい、、、寝かしぱなしにする、、なんて酷いことをしたものだと反省している、、そんな時でも一言も文句を言わずに、黙って寝ていた。
そして、、、おむつを取り替えてきれいにしてやると、、苦しいのに、、笑いを浮かべて、嬉しい表情を見せてくれるのであった。
「ゴン」は嬉しいときの涙を浮かべていたのである。亡くなる間際には苦しかったと思うのに手を差し伸べて、一緒にベットで寝ると甘えて、俺の腕枕で寝た。
不思議なことに「ゴン」の最後の頃には、大人ばっかりの味気ない会話しかない家で家族が協力して看護していたのである。。
何故か「ゴン」が結び付けてくれているようなきがした。
「ゴン」を中心に家族が集まって話をして、なんかほのぼのとした家族がそこにはいたのである。
「ゴン」がなくなった日には長女の櫻と次女の桃が「ゴン」連れて火葬場に行ってくれた。
また、いつも不愛想な長男の光が亡くなる前日は抱いていてくれたのである。
そして、「チャッピー」はまだ元気だったので飛び跳ねていた、、、しかし、本当は「ガン」を患っていたので辛かったはずである。
長女の櫻と次女の桃が目をはらして帰ってきた、、、今はもういない、「ゴン」の思い出を話しながら「チャッピー」抱いていた。
何故か大人ばかりの殺風景な家に,ポツリと灯りがともったような夜だった。
「ありがとう、、、ゴン」と心から感謝した夜でもあったのである。



2)小さな体でガンと戦う

いま俺の家には、小さな体でガンと戦ったパピヨンの「チャッピー」がいた。ゴンと一緒に我が家に喜びをふりまいてくれた愛犬である。16年間の間、長い脚で飛びはねてきた「チャッピー」もいつのころからガンを患っていた。
亡くなる前は次女の桃がお腹の具合が悪いと言っては病院へ行っていたが最終的には治らなかったのである。
チャッピーはずっと痛みを堪えて活きていた。よく頑張っていたと思う。
亡、くなるころには食欲もなくなり、、みんなで交代に食事を「チャッピー」の口にい」いれていた。
人も同じで高齢者になり、自分では何にも出来ない時が来ることを知らされたのである。
「チャッピー」が亡くなった朝、長女の櫻と次女の桃が送ってくれた。帰っt来た二人の娘の目には涙があふえていたのでる。
「ありがとう、、、チャッピー、我が家にくれた愛の喜びをいつまでも忘れないよ。。」
あの夕焼雲まで走って行って「ゴン」と仲良くして欲しいと願う。
「チャッピー」も俺たちに教えてくれたような、家族の愛を,絆が大事なことを、、、。
我が家には「ゴンとチャッピー」が居なくなり、、、寂しさが訪れた。
朝になると元気なころの「ゴン」と「チャッピー」は俺のベットの上に飛び乗ってきたのである。
そんな小さな、ささやかな家族が暮らす家にも過去には荒れた荒んだ時があった。
それが「ゴンとチャッピー」は和らいでくれたのであるから、、、感謝しかない。
あの夕焼雲に乗って、ゆったりとゆっくりと安らかに過ごしてくださいと祈るばかりであった。



3)ゴンが来てくれた日に

俺の家族がごたごたがあって、東京北区に住んでいた頃だった。北区に住んだのも俺が馬鹿をやって家族に迷惑をかけて、、かみさんが子供を連れて実家に帰ってしまったことが原因であった。
子供たちが小学4年生、6年生で長女が中学1年生の時の頃は、俺は仕事にかこつけて毎晩「酒」を飲んで遊んで歩いていたのだ。
今から考えると酷かった、、仕事はしていたので生活費は入れていたが、夜の帰りはいつも午前様であったのである。。。「酷い父親であり、酷い亭主であった」親不孝ではないが「子供不幸、女房不幸」を尽くしていたのだった。愛想をつかしたかみさんが子供たちを連れて実家に帰り、、誰もいない空き家の家で一人憮然としたのである。
後で言われたのであるが、、、長男の光がしみじみと話してくれた。
「親父は何でも金で解決をしていたと、、金を渡して金で済ませようとしていたと」
それが堪らなく嫌であり、親として、父親としての信頼感が無くなったのだと。。。
そうだと思う、、、
今は反省ばかりだ、、何故、早く正さなかったこと後悔している。
その積み重ねが今に蓄積しているようだ。
東京での生活で反省して、、やり直したはずであったが、、生来の「遊び癖」は治らなかったのである。
何度か立ち直り、生活を安定させたが、、、今度は仕事で何度か失敗して旨く行かなかった、、、それでもやり直しては前進し、後退してはやり直して生きてきた。
その間、家族にはつらい思いをさせてしまったようだった。
自分では家族を大事にしてたつもりだったが、そうではなかったのである。
東京での生活もマンション3LDKを2つ買ったりしたのであったが、いずれも失敗してしまった。
子供たちはどんどん成長していった、、俺は焦ってもいたのであるが、空回りをしていたのである。
東京での生活にはいいことは一つもなかったような、、、嫌な思い出ばかり作ってしまった。そんなある日「ゴン」がやってきたのである。
始めて「ゴン」を見た時に小さいと思った、、、こんな小さな犬がいたのかと、、、
でも、可愛かったのである。
抱こうとするとマンションの部屋の隅に逃げて行った。
その小さな「ゴン」が何年か後に精神的な救いの手を差し伸べてくれたのである。
俺の心に灯りをくれたのだった。
家族には嫌な思い出ばかりの父親で、どうしようもない悪い手本のような親父だと、、今も反省している。



4)親子関係は日ごろの積み重ね

最近、俺は思う、、、親子関係とは俺の子供に生まれたから「親子」と思うのは間違っているような、、、
ただ、親だから子供だからでは違う、、、血統が同じだからでは済まない、、、親と子供、一緒に生活して、お互い理解して、分かりあって、思いやりが通じ合って初めて親子を名乗り上げることができる。
俺は無謀だった、、、「俺は父親だ、、、だから言うことを聴けとか、、、俺が言ったらだめはダメと命令する、、」
そして、話し合いが通じなくなると、、怒鳴る。
そんな時にいつも家に帰ってくると傍に来て、、、「うーーうーー」と言いながらすり寄ってくる。
怒っても怒鳴っても近寄ってくる「ゴン」は可愛い。
そうだな、、、人間とはそんな時に、ちょっと気になり、、口答えをしたり、、注意したことも文句になってしまう。。。口が利けるということは始末が悪い。
いつも家族に注文や小言を言ってから反省していることが多い。
どうして、親子とはもっと、ゆっくり、分かりあえるまで話し合いができないのかと思う。
何かあると、、、「忙しい、、、後にしてくれ」と、、、先延ばしすることが多いのである。
ところが「ゴン」は違う、、、その時その時を分かりあっているようだった。
怒れば涙を浮かべて謝るような、、、その素振りを見ていると、なんとなく許している。
俺はどうして、、、もっともっと、話があるという子供たちと、かみさんと話を聞くことが出来なかったのか。と、、反省して後悔している。
余りにも自分勝手なことに、、、今は嫌気がさしている。
親子関係は日頃の付き合いの積み重ねが無いと、、、その関係は薄れていくようだった。
今更、親子関係を強調しても遅いのであった。
そのことをつくづく思うのである。それでも取り戻したい気持ちがいっぱいなので、これから日々、努力をしていきたい





5)親の勝手な思惑

親子の関係とは不思議なものだ、、、時代とともにその関係は変わっていくようだ。
当たり前と言えば当然の理かも知れない。時代により時により、人により変わっていくものだ。
それを分からずに、理解することなく親子関係を続けていくとに間違いが起こる、」
俺の場合もそうだった、愛犬を育てるようにはいかないのである。
愛犬はどちらかと言えば、飼い主に絶対服従のような、、、逆らえば大変だよ、、、ご飯がもらえない、食べれないということがあるからだ。
ところが人は違う、、家族は違う、、、成長した大人になった人間は「自分の意見、自分の主張」があるからだ。
それを捻じ伏せて、無理やり「親だから、言うことを聴けは無い」、、、
それを擦れば親子の間に溝が出来て、、、深い傷が残る、、、その積み重ねで気持ちが通じなく
なって、親子が、本来のおや子で無くなるような。
俺はこれをやってきたかも知れない。「俺の言うことを聞いていろ、、子供なんだからと」と、、
子供も主張するのだから、、その時は前を向いて聞いてやらないと、、、
愛犬「ゴン」のようにはいかない。「ゴン」は怒られると眼に涙を一杯ためて我慢している。
こんなことがあった、、、長男の光が高校三年性の時だった、、「俺は生まれたくて生まれて来たんじゃない、、、勝手に生んどいて、ふざけれな」と啖呵をきった。
その時にきちんと話をきけばよかったのに、、、俺も若かったので喧嘩を買ってしまったのである。
「おう、、上等だ、、勝手に生んだんだから、、勝手に殺してやるよ」と言って、金属バットを振りかざして向かっていた、、、
しかし、その時にいた長女の櫻が二人の間に入って、その喧嘩を止めたのである。
その時の姉弟の愛は凄いと思った、、、長男の光は身を引いて「ごめん」と言って部屋から出て行った。
あの時の「ごめん」は二人のどっちに言ったのか。。。その時の俺は勘違いをしたのである。
そんな親子の会話を理解も出来ず、、、「親父面」してた自分が、今は恥ずかしい。
今の親子関係がずれて、うまくいかないのも、すべて「親父面」のせいだと反省している。
時間をかけた溝は、なかなか修復が出来ない。でも、しないといけないことだと思っている。



6)姉、弟、妹のチームワーク

東京から田舎暮らしがいいと、筑波山ろくの山里に引っ越したのであった。
かみさんが「喘息持ち」で、都会にいると喘息も治らないということもあって、空気のいい、自然の中での生活がいいのではないかと、、、
しかし、、、なかなか治らず,いい方向には向かなかった。冬などは3か月も発作を起こして苦しんでいた。
家の中に病人がいるとなんとなく、暗くなるようだった。少しでも生活の雰囲気を変えようと思い、、愛犬「ゴン」のほかに、、
パピヨンの「チャッピー」が来たのであった。
愛犬が増えて、、、家の中が賑やかになり、、あかるくなったようである。
小さな犬であるが、、、家族を和ましてくれるのであった。
そして、家族が「ゴン、ゴンと、、チャッピーと呼ぶと」尾っぽを振って体を摺り寄せてくるのである、、、
その人と気が家族にとっての救いえある。
そんなある日、、、突然に長男の光が俺に文句を、、、苦情を言ってきたのであった。
そして、喧嘩になったのである、、
その時も父親風を吹かずに、身をひておけばよかったのに、虫の居所が悪かったのか逆らってむかっていってしまったのである。
長女の櫻も次女の桃もいたのであったが、、、長男の光とは喧嘩になり、、「殺してやるーー」と言って、包丁を持って殴りかかってきたのであった。
俺も昔取ったつもりで「やれるものならやってみな、、」と向かってしまったのである。
長女の桜が「やめなよ、、、やめなよ」と言って中に入ってくれたのだが、、、長男の光は襲まらに襲ってきた。
その時に次女の桃が俺の上に覆いかぶさり、俺を体を呈して守ってくれた。
そして、長女の桜が喧嘩を収めたんである。。。
俺は二人の娘に助けられた。
姉と妹が必死に止めてくれたので、殺人事件にならずに済んだのである。
「馬鹿なダメ親父」ではあるが、、娘二人ん守られ、、今、こうして生きていらることを感謝したい。
「ダメな父親』はどこまで行っても「ダメ親父」であった。



7)ダメ親父はダメ亭主でもあった。

俺のかみさんは子供の頃から「喘息」を持っており、、それが大人までひきずっていたのである。。。冬などは3か月間位「発作」を連続して起こしていた。
苦しいはずであるが「気が強い女」なので、我慢をしてしまう。そのために「喘息」の症状を長引かしてしまうのであった。
そんな時、やさしく気づかってやればいいものを、、、かみさんが気が強いので、これまた我慢というか、突っ張ってくるのである。
本当はやさしく扱って欲しいと思っているとだとは思うのであるが、、、かみさんの強気が「思いやり、やさしさ」を吹き飛ばしてしまう、、、
そして、俺も「すまなかった、、、もっと、やさしくすればよかった」と、、思うのであるが、言葉と行動は逆な方向へと進んでしまう。。。
後で、反省と後悔がのこるのであった。
分かってはいるのだが、、、本人は苦しいので「薬」を飲んでも整理来ないことが多い、、、、そして、次に飲むときに困るのである。
そんな時に「なんで、、、整理が出来ない」と怒ってしまう、、、本人は発作が起きて苦しいのだから、、、飲むのが精いっぱいであった。
そんな思いやりが出来ずに怒る自分が行けないと思いながら繰り返す、馬鹿なダメ亭主がいたのである。
喘息で発作が起きると苦しいのが一番で、、他のことには気が行かないのが現実であった、、、そのことを分かっているのに、部屋が散らかっていると怒ってしまう。。。
まったくの反省である。
また,時計などのものが無くなる、、、本人は分からないうちに無くなるので、家族を疑う、、、正気に戻ると「ない、、、誰がとったと」
と、、、家族同士での喧嘩もおきる。
家庭の中に病人がいると、、、それも重病人がいるだけで家庭争議になるのであった。
其のたびに怒るのではなく、、注意するのではなく,親身になって行動を起こすことが大事だと思うことが多かった。
すべてが後で振り返ると反省であった。
もっともっと、、、家族を「かみさん」を大事にすればよかったと、、「どうして、もっと、やさしく出来なかったと。。」そんな家族人生であった。



8)謝っても取りかえしの出来ない「かみさん不幸」

夫婦とは不思議なものだ、、、一緒になる時は「必ず、幸せにするぞ」と、思いながら家庭をもつものえあるが、、、時間が経つと、なぜか甘えが出てしまう。
このくらいはいいかという甘えである。
子供も3歳,2歳とか小さいときは可愛い、、、そのあとも子供が生まれて、、、4歳、3歳、1歳となるとかみさんも大変だと思い、、、仕事が終わると家に帰り、、、お風呂などへ入れることをやっていたのである。
ずっと、、家庭を大事にしていたら、、、いつもやっていたはずであった。
子供たち3人と入るお風呂は大変だけど楽しい、、、そして、湯上りはかみさんが子供たちをタオルで拭いて、パジャマを着せるのであった。
そんな日々が続いていたのであるが、、、ある時に、子供たちをお風呂に入れてから、付き合いで「酒」を飲みに行ったのである。。。
男とは馬鹿であるのかもしれない。。。その「酒のみ」「夜遊び」が面白くなり、、ついつい、仕事だ、付き合いだと託けて呑む回数が増えていった。
いつも子供たちはお風呂には入れたのであるが、、、そのあとに飲みに行く、、、そして、、
「何時には帰る、、、」と言いながら、午前様になってしまう。
そんな亭主の酒のみを、午前様帰りを面白いとは喜べないはずだった、、、馬鹿な亭主の甘えというか、、、馬鹿行状に呆れたかみさんが、いろいろ、危険信号を出してくれていたのも分からずに、、、
何度もかみさんが爆発を起こした。
馬鹿亭主がける時間を守らないと、、、玄関先に「細切れになった背広の山」があったり、、、玄関ホールに「俺の好きなカレーの具」がまき散らしてあったのである。
ある時には、朝支度を仕様と思い、タンスを開けたら背広が一枚もなかったので、、かみさんを見ると指を指していたお風呂の湯の中にびしょぬれになっていた。
最悪は出かけようと思ったら車がなくなっていたのである、、、すべて、かみさんの危険信号であった。
「気が付けよ、、、馬鹿亭主」と、、、言ってるのだった。
馬鹿な亭主は気が付くのが遅かったのである、、、何年、馬鹿をやったか、、、子供たちが小学4年、6年、中学1年の時に愛想を付かされた。
本当にかみさんには不幸をし過ぎたのである。謝っても謝れ切れないことをしてしまった。
そんな不始末、不行幸をしたことが「かみさんの喘息」を悪化させてと思っている。
反省と後悔がいっぱい残るのであった。



9)意気洋々と、、、

ダメ親父も商売繁盛、毎日が意気盛んであった。平成15年の初めに「太陽光発電施設」の設置販売をしていた頃である。。そのころは、まだ、太陽光発電の販売事業をしているものが少なかったからであった。東京電力の買い上げ価格が「1kw42円」のときだったのである。
50kを設置すると「21万円」の収入になり、、、設置土地を借地であっても「利益」が出たのであった、、、
材料を仕入れて「パネルやパワコン」そして「鉄鋼材」「電線(銅線)「生コン」などを用意して、設置するための労働力を準備して、、販売しても「利益」は相当出たにである。
更に土地を売買したり、賃貸しての手数料が収入となるので、、、すべてをダメ親父は自社でやるkとにしたので儲かった。
太陽光発電を1施設を「2500万円」で販売、、、現金で購入してくれたお客には割引をするのであるから、、、売れた。
営業社員に土地を探させ、、、「売買でも賃貸でも」土地をよういさせたのである。
そして、販売した、、、
太陽光発電施設が数多くあって、他社より安いのであるから、、、自分で持っていない、販売営業会社にまとめて売れたのである。。
一社に「5000万円」「2億円」と現金で売れたのである。。
工事も自社で賄うシステムを作りあげて「社員」も増えた、、、営業、事務よりも現場作業員が増えたのである。
少しばかり、資金も回るようになり、、本社ビルを「競売」で安く手に入れた。
なんとなく、見てくれは会社らしくなっていったのである。そして、現場事務所兼営業所を借地でてにいれたのである、、、「3600坪あり」事務所にはプレハブを用意した。
仕事が増え、現場作業員も100人を超えていた、、、そのための設備、建設機械やダンプなどの車両も中古ではあるが増やして、、、すべて、自社で行うシステムを作りあげたのである。
本社業務も事務員を4人にしての業務体制であった、、営業面、すなわち販売はダメ親父一人でやっていた、、、其の売り上げは目をみはったものである。
急成長ではあったが、、、売り上げがあったのでやる気がおきていたのである、、、
つくれば売れるという状態だった。
反省だけど、、、「茨城県内」だけを市場としてやっていればよかったものとおもうのである、、、
すこし、、いい気になって「手を伸ばしすぎた」ような、、、今では後悔している。



10)仕事が伸びると、人は「いい気になる、、うぬぼれを生む」

人とは面白いものだ、、、時には忘れてしまう自分を、、、自分の能力を過信してしまうのである。
そして、仕事が自分で考える以上に伸びてしまう時もあるのだ、、、その時に「うぬぼれ」が生まれて、「いい気になって」、、出来もしない仕事を増やしてしまう、、、「金が入り」出すと人とは我を忘れてしまうのかも知れない。
今までに入ってこない金が手元に入るのだ、、、勘違いをしてしまう。
「入ってくる金が」すべて儲けのような錯覚を起こすのだった。
確かに儲かったのである、、、太陽光発電施設を材料を自分でメーカーから直接に仕入れて、工事もすべて自社で施工するのだから、、
正直言って売り上げの半分とはいかなくても「4割」は儲かったのである。。。
一番大きな取引では10億円ということもあった、、、5000万円から1億円という取引はに日常茶飯事であるから、、凡人なら錯覚を起こすはずである、、、、そうなんだな、、、ダメ親父は「凡人」だったのだ。
それが一番の「誤算」だったのである。
現金が動くから、、、ダメ親父はいい気になって「長女桜に8000万円を出してやり」筑波学園都市にマンションを二つ、、、そして「次女も5000万円現金を用意して」筑波学園都市にマンションを一つを購入したのであった。
長女桜に買ったマンションひとつは長男光に分けて、、、それぞれに住まわせて、、、中に入れる家具類もすべて用意したのであったが、、、「不動産取得税金」を払うために,策を弄したが、結果的には騙されてうしなったのである、、、子供たちには済まないと思っている。。。心から反省している、後悔している、、「残念無念」である。
結果的には「1億3千万円を3000万円の目先の金」に騙されたことになったのである。
このことは「悔しい」本当に「悔しい」事であった、、、しかし、、人を騙していいことは無いのだ、、、この人たちには「京都の太陽光発電施設80施設」金額にして「20億円」も騙されたのである、、、騙されたダメ親父が馬鹿野郎なのだが「悔しかった」
その人間たちの先頭に立って「旨い口車」で人を陥れた罰は受けたのであった。
人の金を騙して儲けた罰は「死」だった、、、山谷でのモーターバイクによるモトクロスで谷に落ちて死亡したのである。
ダメ親父の馬鹿野郎が騙された結末であった。
しかし、子供たちには2年ぐらいは毎月「70万円」を、かみさんには「100万円」を渡していたのが、せめてもの救いであった。
ダメ親父の子供は甘かったような、、、現在は貯蓄ゼロであった。
結果的には「かみさんに1億円の3階立ての家」をプレゼントしただけであった。
今,住んでいる家である、、、ダメ親父が精いっぱい仕事をした結果としては「家」が残っただけである、、、
九州地区での事業投資での失敗は、、不動産資産だけで「3億円」、大阪地区で「1億円」、京都地区で「20億円」であった。
そのほかに営業経費として14年間で「10億円」であった。。。
馬鹿なダメ親父のばか投資である、、、無駄な人世、、、無駄な時間を使ったものだった。
そのほかに最終的に始めた「シイタケ栽培」「その施設の販売」での損失があった。
この「シイタケ栽培」では長男の光に迷惑をかけてしまっている、、、謝っても償いきれないことであった。
すべての事業失敗は自分の「アホー」のしでかしたことであった、
自分では考えて慎重にやってたつもりであったが、、「己の愚かさ」に尽きるようだ、、、
一言と言えば、、、坂本龍馬ではないが「残念無念」である。




11)失敗の後にくる「後始末」

ダメ親父の直接の失敗は「国税の監査」が突然に入ったためである。
ある朝、、ダメ親父が「ピーンポーン」となったので、取り憑けた有る「監視カメラ」を覗いた。
門の前に「黒背広の男たち」が立っていたのである、、、門のシャッターを開けると数台の車が入ってきのである。「おはようございます、、、国税ですので玄関を開けてください、、」と言って、ずかずかと部屋な中に入ってきた、、、入ってきたというより,勢いよく乗り込んできたという感じだった。
猟師が獲物を狙うような、鋭い目をして、、部屋中を歩き回っていたのである、、、そして、、何物も触りるなという風な口調で、ダメ親父に張り付いた、、、
「今から、、、脱税容疑で家宅捜査を始めますので、社長は動かないでください」と、、指示を出した。」
国税は初めから「脱税」を疑っており、、、家族のかみさんの部屋までいき、、「じっとしてください」と、、かみさんにも見張りが付いたのである。
なにも仕事のことを知らないかみさんはびっくりしていた、、ダメ親父が国税の担当の一人に言ったのである。。。「すまないけど、、、かみさんは重度の喘息患者なので、、考えてください」
国税の人も人間であるから、、て病人のことは分かってくれた、、、誰が見ても分かるので。
分からなかったら、傑をまくったやろうかと思ったダメ親父であった。
余りにも、20人からの国税の人間たちが勢いが良かったのであったためである。
かみさんのことは分かってくれて、彼女専用の2階部分の部屋にはこだわらなかった、、、誰が見えても
病院の部屋と分かるからであった。
ダメ親父の家は3階建てなので,3階も隅から隅まで見て回ったのであるが、、、何一つ出てこなかったので、1階のダメ親父の部屋に集まった、、、。
ダメ親父は言った、、、「仕事は家に持ち込まないんで、、、何もないよ、、、すべて会社にあるから」と、、、国税が調査して調べたがダメ親父の言うとりになったのである。
そして、、国税の人間が20人で探したが、紙一枚の関係書類がでてこなかった。
家にある金庫も4つあったかな、、、すべて、中身は空だった、、、仕事関係のものはなかったのである。。
最終的には国税の人間がダメ親父の本社にも50人ぐらい来たので、、会社にすべたがあることがわかり、「脱税捜査」は本社でということになった。
我が家の愛犬「ろれとチャッピー」は珍しい人がたちがたくさん入ってきたので、おろおろしながらうろついていたのである。。
それでも愛犬である「心配そうに」ダメ親父を見あげていた、、、ダメ親父は心の中で、、それを知り「ありがとう、ろれ、チャッピー」とつぶやいたのである、、、それを知ってか、知らないのか、かみさんの部屋に入って行った。
国税の凄さは、同時の捜査で、娘二人のマンションを訪ね、権利証、預金通帳を没収していった、、、、捜査完了時には戻ったけれど、、、
そんなことで娘たちは驚いていたが,さすが、ダメ親父の娘たちであり、、驚きはしたが毅然としていた.
長男は東京在住であり捜査は行ったのであるが、、、まだ、、その時には仕事を一緒にしていなかったので、、、息子は
「俺は関係ないと、、突っ張り」、、国税を跳ね返したいたのである。
一日の「国税来日」はそんなことでおわった。
そして、本社や九州福岡へ来た国税とは日を改めて話合いをしたのである。




12)ダメ親父の本社での後始末

国税の「脱税監査」の調査は本社の経理上の取り調べとなった。国税はダメ親父の会社が脱税をしたということで来ているので、、、初日は自宅の調査がとらっ行われた。
何ひとつ会社関係のものが「紙一枚、」」勿論「金も」出てこなかったので本社に集中したのである。
ダメ親父は「脱税」」などしていなかったので安心して会社内の調査をさせた。
会社には経理上の書類は全て、、、4階の諸庫室に整理して保管してあるのでそれらをオープンでみせたのである。書庫室の広さは66平方メ無かったートル(20坪)の中に書棚を作って保管してあるのでわかりやすかったのである。
国税は2トントラック一台に人係で積み込んで持っていった、、、経理上の書類をすべて、持ち出したので書庫は空っぽになった。
ダメ親父は尋ねたのである、、、「仕事で必要になったら、どうするんだよ、、、」と、、、
そしたらすべて面倒くさい、、、時間がかかったので」仕事にならなかったのである。
完全にダメ親父の会社の仕事は止まった状態になった。
しかし、相手が国税である、何を言っても無駄だったのである。
そして、、今度は定期的に調査の終わった帳簿を持ってきて、まる一日質問攻めであった。
本社事務所で「かんずめ状態」であり、自分の仕事はできなかったのである、、、これが一回や弐回ならいいよ、、なんと「一年間」かかったのであるから堪らないよ、、、月に3回くらい調査に来てからだから、、壱日6時間ぐらいだからきつかった。
しかし、其のおかげですっかり顔なじみ成りというか、、「お友達」な成ったようだったのである。役人とは不思議だ「お茶」は飲むけど、、食事の接待は絶対に受けなかったから、、、
それは凄い。
そして、、一年間ダメ親父を束縛して、業務をほとんど休止させたのだから、、要求をだしたのである。
それから面白い結果が出た、、、ダメ親父は「脱税はしていなかった」のである、、、さらに「還付金が1000万円出たから笑うよ」ふざけた話だった。
その代わりといって、業務を一年間も止めたのだから、「その年の決算」もやらせ、、決算書をつくらせたのである、、、そのくらいは当然と、、、ダメ親父は「そうだよな、、、作って、、、税務署へ申告までやってくれ、、」と、、やらせたのである。
しかし、国税の脱税騒ぎの代償は大きかった。
事実上の倒産であったのである。現場社員を100名ほど解雇しての縮小であったのである。 早い話が「国税に倒産をさせられた」ようなものだった。
相手が国税であり、、国のやることなので責めはできなかったのである。
国税の担当者も、、「謝ってはくれたが、、、個人的には同情はするけど、、俺たちも国の役人なので、、ごめんなさい」と、、、せめても救いであった。
その後、書類関係は2トントラックで戻ったが、、整理されておらず、とても仕事ができる状態ではなかったのである。
仕事をやめるより仕方がなかった、、、一年間束縛されていたのだから、、、
ダメ親父は思った、、、「世間でいう国税の企業潰しだな」と、、、
考えてみたら「頭にくるぜー」だった、、
まだ。」と取り調べは、管轄違いの「福岡」が残っていたのである。


13)ダメ親父の福岡の後始末

ダメ親父は事業拡張で九州福岡に事務所を構えた、、、その事務所も「4000万円をかけて」購入したのであった。ダメ親父は本社での取り調べが終わったので、、、同じ会社だから福岡も終了したと、ダメ親父は思っていた。
国税が要求した書類関を提出しなかったために時間がかかったのである。
時間はかかったが解決はしたのである。下請け会社が独自で脱税をしていたのであった。
しかし、、福岡国税の調査が時間がかかったので、福岡営業所の責任者の購入マンションでの「不動産取得税」のからくりがあぶりだされてしまったのである。
その結果、国税にわかり、、「がっぽり」とられた。
ダメ親父として踏んだり蹴ったりであった。

九州福岡営業所の担当に任せて、茨城県内や京都府内の現場、、、太陽光発電施設の土木工事をやらせていたのであるが、
後で分かったのであるが、、、工事作業員の人数があわなかったのであった。
請求金額と工事内容に食い違いが出たのである、、、
それを福岡国税から指摘されて、、、調査をしたら、、、あわなかったのある。。
その違いを確認するために、、、工事内容を記した図面と、見積もりを請求したら、なかなかでてこなかったので。。。。
ダメ親父もうたがったのである、、、営業所の担当と、取り期先の人間で、何かを操作したと始めはおもったのであった。
結果的には処理ミスであり、、、ダメ親父の管理不行き届きであった。。
しかし、、、本当のところは不明であり、、少々、頭に来たので福岡営業所はしめたしまったのである




14)京都事業所の閉鎖。。。

ダメ親父は京都府丹波地区に太陽光発電80施設を設置販売する計画で土地を購入して、設置事業を進めていました、、、関西電力との打ち合わせもクリアして、工事着工を手掛けていましたが、、
駄目親父にしては規模が大きすぎたかもしれませんが、、、販売も順調に進み、旨く行くかと思い京都事業所まで作ったのですが、、現場責任者の選択に誤り、無駄な経費を費やしました。
気が付いた時には様々な障害がでて、、、作業の無駄も多くなり、、資金的な弊いきとd害まで出てしまい、、作業を一旦中止したのである。、
余りにも人任せが過ぎて、管理が甘くなり、無駄が多くなって、事業継続が困難になっていったのであった、、、
ダメ親父は売り上げに応じて、京都丹波に事務所兼社宅を購入したり,送迎用のマイクロバスや建設機械「バックホーンやダンプ」などを現地で調達したりしてたのである。
更には現場近くに事務所を購入して無駄が多く、見栄を張りすぎたようだった。
また、現地採用で社員を雇い入れたりしたために、管理が行き届かなかったのでというある。
気が付いたら稼いだ資金「20億円」を京都事業所に投資してしまっていたので、、、
京都事業所を土地付きで売却する方向で話を進めたのであるが、、、見事に結果的には「騙された」
のである、、、一文にもならず、、整理して、儲かるはずの業務引継ぎが「ゼロ」という「口車」に乗ってしまい、、、次々に騙されてしまったのであった。
ダメ親父が馬鹿だと言えばそれまでだが、、、後で気が付いたが、巧妙であり、、ついつい口車に載せられていたのであった、、、最終的には「20億円」は早い話が「ぱあー」になってしまった。
その後も、これをやったら、、これが終わったらと言われて信じたダメ親父が悪いのであったのである。。。
その後もダメ親父は金が欲しいから、、、持ってた太陽光発電を低価格でゆずっていったのである。。企業がゆきづまり、、金が欲しいと弱腰になると、ダメなものであった。
随分と損をしたのである、、、所有していた太陽光発電施設。。許可取得施設をタダ同然の金で騙されたのだった。。。
弱り目につける薬はなかったのである。。。
しかし、、人を利用して騙した人間は「天罰」があったのであった。その人間は事故で死んだのである、、、、
ダメ親父にしてみれば「残念無念」である、、、人の死を喜ぶわけではないが、、、せめてもの救いであったような、、、騙されパなしでは惨めすぎるのである。


15)事業をやめる準備をするダメ親父の心境は、、、

ダメ親父は国税がはいり、、経理関係や事業関係の契約書等がバラバラになり、、国税から2トントラックに積まれて戻ってきた、、、
押収された書類関係を見た時に思ったのである、、、とても整理が可能のようには見えなかった。
余りにもバラバラであったので、、、
その時、決断したのであった。「商いをやめる」と、、、
そして、太陽光発電施設販売とそれにともなう不動産業を整理たのである、、、まず初めに「人員整理」であった。
太陽光発電施設の工事部門の社員の「150名」に対して、、、会社事情を説明してから、「解雇通知」をしたのであった。が
全社員に「2か月分の給与」を支給して、次の仕事を見つけるように、ダメ親父は頭を下げて頼んだのである。
それから本社の事務社員の「解雇通知」を行い、、、ダメ親父は営業と留守番型の数名を残して、顧客整理をした。
今までに取引のあった販売会社に、、工事途中の施設を譲渡して、、引き継いでもらったが、、、ダメ親父としては相当の損害を出したが整理をしてのである。
下請け工事会社への支払いは済ませていたのでトラブルはなかった。
問題は契約途中での顧客に対しては「契約金の返還」を行ったりしたが、、未決の部分も残こったのである。
その部分の返済には残っている不動産「施設設置土地」などの返還や、その部分だけ工事を第三者に依頼して仕上げての返済であったから、、「赤字決済」をしていった。
それでもの残った「顧客の契約返済金」については分割返済を行ったのである、、、
そして、残った土地でアイデアを駆使した「シイタケ栽培」をおこなった、、、太陽光発電工事で使っていた、、各事業所の「仮設事務所」を一か所に集めての利用をおこなった。京都事事業所、、下館事業所、土浦出島事業所、九州福岡事業所、九州大分事業所からとプレハブ事務所を集めたのである。
当初は大型トラック2台、4トンロングトラックがあり、、大型のバックホーンも4台、、フォークリフト2台あったので、何でも輸送移動ができたのである、、、
そして、、、「シイタケ栽培」も旨く出来て、、、農協関係に納めることも出来て販路もひろがったが、、、販売料金が安くて採算が取れずに悩んだ、、、思うように軌道に乗せることが出来ずに、資金ショートを起こしてやめたのであった。
この商売で長男の光を巻き添えにしてしまい、、迷惑をかけたのである、、、すまないとおもって、今でも反省と後悔がのこっているのであった。
ダメ親父は絶対にやっては活けないと仕事をしていたのであるが、、、ある取引で裁判になり、、保証人に長男光を建ててしまったのである。これは失敗であり、残念無念であった。
当時は返済できる保証金で在り、金額であったが、事業が失敗するとできなかったのである、、「一生の不覚」であった。
ダメ親父は金では返済できないので「法律的に保護」だけは行ったのであるが、、本人してみれば、それは「許せないこと」だった。
済まないと思っているが、、ダメ親父にしてみれば金が出来ないと、その「法律的しばり」は解けないのであり、後悔しても後悔しきれないことであった。
それでもダメ親父としては死ぬまで努力はしていくつもりで生きている。
駄目おやじの失敗は事業が失敗して金が稼げなくなったことと、、少しでも稼いだ金を残しておくことであったが、、すべて、ぎりぎりまで仕事と返済金に当ててしまったことで、事業が終わった時には「すってんすってん」になっていたこである。
金庫の中が空っぽになるまで、仕事に使い果たしてしまったことであった。


16)後始末の後の生活を考えなかった「ダメ親父」

ダメ親父の駄目なところは、、、家族のことを考えていなかったことであった。
事業を縮小していた頃には、、家族の世話をするぐらいは稼げると思っていたのである、、、自分の置かれた立場を甘く見ていたようだった。しかし、、整理していくうちに、、どんどん収入の道がなくなり、、予定通りにはいかなかった。
事業を縮小しても半年ぐらいは何とかなっていたのであるが、、、ダメ親父が「病」になったのである。
73歳のころから「糖尿病」が発覚して、、病院でいろいろ検査をしているうちに、、他の内臓に欠陥がみつかった。
そのうちに歩いていると「前かがみになり」常に坂道を下っているようになり、、、家で倒れるようになったのである。
そして、倒れると起きられなくなってしまった、、、
それで、、、娘たちが「おかしい、、病院へ行こう」といってくれて、、、「総合病院」で頭(エムアール)の検査をしたのであった。
病院へ行く頃には「歩行困難」を起こしていて、車から降りてからは「車椅子」でのいどうであり、、、娘二人の世話になったのである。その結果「パーキンソン病」と分かり、、、その後は治療を受けているのであった。
ダメ親父もパソコン情報で調べたが、、、ダメ親父は「とんでもない病気」になったものと、、思ったのだった。
「パーキンソン病は不治の病」であり、、現在は直すことが不可能で、、薬で和らげるというか、延命をするだけということがわかったのである、、
一時は家の中でも歩行が出来なくなり、、、「芋虫」のように床をはっていたのであった。
庭などで倒れると起き上がれずに、、、「ある雨の日には、娘が帰ってきて起こしてもらうまで雨の中で倒れていた」事もある。。。
また、お風呂の中で倒れた時は、二人の娘に起こして助けてもらったこともあった。
それで「介護保険」を使って、最初は出張介護で「入浴」を手伝ってもらっていたが、、、
ダメ親父は踏ん張った、、、「なにくそーー」と思いながら、、、まずが「食生活の改善」をしたのである、、、
総合病院の栄養士の指導で「食べてはダメな食べもの」、、、「野菜、、、野菜ジュース、カリウム類をすべてやめた」のであった、、
その結果1年後には「糖尿病」の治療である「インシュリンの朝昼晩の注射」が中止になり、、、糖尿病がなおったのである、、、
奇跡がおきたのであった。
腎臓も「末期の腎臓炎」であったが、、「カリウム類」を禁止してから、、、「腎臓機能」も回復して、、、「透析」と言われていたが、今は食事療法で「透析治療」をやらないで住んでいる。
不治の病「パーキンス病」にかかった、ダメ親父は「またまた踏ん張った」のである。。
「こんちくしょうの精神で」頑張り、、、歩行困難になったダメ親じは「杖から、、掴まり歩きから」今ではゆっくりではあるが、歩けるようになり、、、一人でバスで病院まで行けるようになった。
腎臓関係の総合病院まではつくばセンターでの乗り換えをして、「雨親父は片道30分、歩きで40分」がかるが行けるようになったのである。。
パーキンス病の記念病院までもバスで通院ができるようになったのである。
ダメ親父は病の面ではがんばった、、、天気により気圧の変化で、パーキンス病の痛みは「手脚」にでて、、苦しい時もある、、、それは仕方のないことだ、、、病なのだから、
そして、、、働くことが出来なくなったダメ親父は経済的には困ったが、、、今までの資産的なものを「売却して収入を得た」。。。
その結果で77歳からは生活がなりたったのである。。病気になったばかりには3年ぐらいは収入を何とか稼いでいた。
後はわずかな「年金収入」にたすけられている。
家族には本当にすまないと思っている、、、「貧乏生活」をさせているので、、、なんと詫びたらいいか分からない。



17)これからの夢「小説家」を目指して、、、「これでもかと踏ん張る覚悟だ」

ダメ親父には事業に関しては何も残ってはいない、、、失敗という名のもとにすべてを失ったようだ。
人間という生き物はだらしがないのか、、、健康という大事な財産を失うことが一番の痛である。
体あってのものだ、、、健康が無くては何もできないような、、、情けない、、、本当に情けない。
まず、「パーキンソン病」であるために「歩行」が困難であり、、どこへ行くにも支障をきたす。人は歩くことの出来ない
悩みは大きい、、、そして、足が悪いと手足も動きが鈍くなり、、しまいには「しびれ」が起きて、痛みが襲う。
本当に健康でないことを恨むことがある。。。その病も自分が、、自分の不注意でおきたことであり、誰も恨むことは出来ない。
ひとつの病気から次の病気を招くようだ。まったく「病始末が悪
注意はしている積りであるが、、、その注意が足りないのかも知れないのだ。
肝硬変の次んは糖尿病、、、そして、一緒に腎臓炎をおこいていたから、、、食事制限が始まった。
「透析治療」は嫌だから、「カリウム」関係の野菜、野菜ジュースなどをすべてやめての食事療法だった。
病気になると辛いことばかりである。それでも、ダメ親父は頑張った。
しなくてはならないことが残っていたので、、、それは「かみさん孝行」と「子供たちへの孝行」だ。
余りにも粗末な家族への奉仕だった。。。なぜにもっと、出来る時にしなかったのかと、毎日、後悔している。
この家族への愛の務めを果たさなければ死んでも死にきれない、、、
やらなけらばならない、、、ダメ親父の「夢」なのだ。
体が言うことをきかなくなった今、、、最後に残った「唯一の財産」である、、ダメ親父の「頭」というか「頭脳の知恵」を使い果たして出来ることは、、、「物書き」である。
この2年間、下手な小説を書き続けている、、、
「下手な鉄砲も数うちゃあ当たる」「犬も歩けば棒にあたる」の例えではないが、、書き方が少しづつ旨くなってきたような、、、
そして、原稿の字数が増えてきたのである、、、「今では2万字~3万字」に。。。
そんなダメ親父に「頑張れ」と声援を送るダメ親父であった。


18)人生は諦めずに、、、命続く限り。


償いは一生をかけて償うもの、、、そう思って後悔した分を償っていこうと思っている。
ダメ親父は反省して後悔して、それでも償いきれるものではないほどの妻不幸、子供不幸をしていた。
しかし、生きている限り、してきた不義理を帰さないと、、、
そんなことを思いながら、ダメ親父は生きていた。
何を帰せばいいのか、、もしかしたら返せ切れないで、人生を終るかもしれない。
それでも日々、、心掛けないと罰が当たるのだと思う。
父親としてやるべきことをやらないで、、怠けて、過ごした日々は帰ってこない。
また、亭主として勤めることもサボり、、いい加減に生きてきたダメ亭主だった。
帰せなくても、、、少しでも償うことが出来たらやらないとな、、、、
そう思って、、、当たり前だけども、、、病気なってからは自分の身の回りのことは自分でやることにしている。
せめてもの行動である。
今までに何もしてやれなかった分、してやろうと思っているがなかなか、出来ないことが歯がゆい。
ダメ親父は働くことも出来ず、、、金を稼ぐことも出来ない。
なんとも哀れな父親である。
出来ることは「夢」である、物書きで少しでも稼げれようになることであった。
今は出来ることと言えば、「知恵」を貸すことぐらいだ。
何もできない父親だけど、気持ちはあるのだ、、、すまなかったという心だけは。



19)「愛犬物語」、、、外伝

「1」小さな愛の思い出

ダメ親父に残ったものは「子供たちへの思い出」だった。。。勿論「かみさんへの思い出もいっぱいである、後ほど夫婦道を辿っていく」
色々ある、、、長女桜とは一緒にお風呂に入っていた。そして、駄目おやじの布団に入って、いつも待っていてくれた。
3歳か4歳の頃だったかな、、布団の真ん中に寝ていたので、ダメ親父は布団のはじに小さくなって寝ていたものだが、一緒にねた寝顔は可愛かった。
次女の桃は寝る時に、よくぐずっていたな、、、ベビーベットを広げていたが、、暴れまくっていた。しかし、丸々と太って、かわいかったよ、、、長男の光は静かに寝ていた。。。
しかし、長女と次女が保育所の遠足があった時には、、長男の光は二人を追いかけて泣いて騒いでたな、、
それで「リユック」を背負わせて、、当時あったオートバイで近くを一回りして宥めたこともあった。
本当に思い出はいっぱいだ、、、一時それを顧みないで仕事にかまけていたことがあったな、、、あの時にもっと、子供たちを見れば、、、遊んでやればよかったと反省しているが、、、過去の人生はとりもどせない。
長女の桜は駄目親父がちょと、、買い物などに出かける時には車にのってきた、、そして,ダメ親父の膝の上に、ちょこんと乗るので、片手運転ででかけたものだった。
ダメ親父は引っ越しを繰り返していた、、、仕事で失敗しての移動が多かった。
長男の光が生まれる前に、かみさんと娘二人を連れて、百合丘に住んでい居る時に「よみうりランド」という遊園地にお弁当をつくって、遊びに行ったことがあった。
あの頃が楽しいひと時であったような、、、
ダメ親父も子供が生まれた時には、長女桜も次女桃も、長男光も手形、足形を取って子供たちに「贈る詩」を作っていた。
そんな父親をずっと、続けていればよかったのだが、、、
何時のころから、付き合いと称して酒飲み遊びがはじまったしまったのである。馬鹿親父の始まりであった。
つくば市に引っ越してからは、、家族中心で生活しようと決心したのである。。
長男の光はつくば市で生まれた。二人の娘たちは生まれた光を見て、、病院で顔を見合わせて笑顔を見せて笑ってくれた。
あの頃は駄目親父も幸せだったような、、、
家にも早く帰り、、、子供たちをお風呂に入れて、、かみさんとも幸せな日々を送っていた。


「2}小さな愛の思い出、、、その2


駄目親父が勘当をされてから、両親と話をしたのは長女の桜を連れて実家に帰った時だった。長女桜が3歳のとき、、、子供が親子の縁を戻してくれたのだった、、、可愛い娘が助けてくれたのである。
孫を見た両親は笑顔で迎えてくれた、、、そして、長女桜は弟の子供たちと無邪気に遊んでいたのである。一晩泊まってダメ親父はかみさんと次女桃の居る百合丘に帰った。帰りの電車では立ちパなしであったので、娘のさくらは駄目親父が抱っこしていたが、、、そのまま寝てしまった娘桜は可愛かった。
駄目親父は仕事を失敗ばかりしていたので、、、長女桜が3歳と次女桃2歳の時につくばに引っ越したのである。
そして、つくばで長男光が生まれた。
駄目親父はアホーだな、、、かみさんは3人の子供を産んでくれて、育ててくれたことを忘れて、、一度はかみさんに辛い思いをさせて、実家に戻るという馬鹿なことをさせてしまっている。
その前にもかみさんには辛い思いをいっぱいさせたことを、反省している、反省では足りない後悔の懺悔があった。
とびとびの思い出ではあるが、、、長女桜は小学1年生の時、、、次女の桃と長男の光の保育所の遠足だった、、、
駄目親父は付き添いで行った事がある、、、遠足先の遊園地で次女桃が迷子になり、探しても見つからない時には慌てた。
本当に子どもがひと時でも行方不明になることは辛いものであり、、心配したことがあった。
子供たちとは傍にいれば可愛いと言ってられるが、、、いなくなるといてもたってもいられないほどである。
不思議なものだ、、、

子供たち3人は子供の頃に「そろばん塾」通っていた、、、長女桜も次女桃も「珠算1級」まで取得しているが、、
次女桃の方が5年生で合格していたが、長女は6年生で少し遅れたが、、二人とも凄いと思った。
次女桃の凄いことは「珠算大会」があると、、、いつも大きなバックを持っていくのである、、、帰りには優勝して「優勝カップ」を持ってくるという凄さがあったのである。。
子供の頃のそんな才能を潰してしまったようだ、、、ダメ親父は、、馬鹿な父親であった。
小学時代には二人とも明るく活発であり、、庭でローラースケートなどを、腰に座布団を巻いて、滑っていたことを思い出す。。。長男の光は友達と外で暗くなるまでよく遊んでいた元気な子供だった。
そんな素直なやさしい子供たちの人生に影を差すようなことをしてしまったダメ親父で有っのである。


「3}小さな思い出、その3

駄目親父は馬鹿な人世の失敗をしたのである。
長男光が小学4年生、次女の桃が小学6年生、長女桜が中学1年生の時に、我慢していたかみさんが爆発したのであった。
子供たち3人を連れて実家にはかえってしまったのである。
この時のショックは大きかった、、ダメ親父は参ったのだった。
家に帰ったら、ほとんど「空っぽ」になっていたのである、、、その時に立ち会った弟夫婦に聞くと、、ダメ親父は涙が溢れた、、、そして、後悔に涙が噴出していた。
家の中の畳は裏返しに、気に入ってた家財道具はタダ同然で売り払われ、、新車で買ったばかりの「飛鳥」という車もオートバイも、、、家の中のピアノ、ハードオルガンも、ただ同然で処分されていた。。。愕然としたダメ親父であった。
しかし、子供たち3人が突然に学校をやめて、東京へいってしまったことが駄目親父には大きな衝撃であったのである。。。
家の中で何もできずに呆然としていたことを思い出す。
後での話であるが、、、長男光の文集には泣かされた、、突然の引っ越しに友達が送ってくれた思い出の作文には涙が溢れた。。
次女桃も長女桜にも辛い別れがあったと思う。。。心から済まなかったと後悔の涙が溢れるのであった。
子供たちが引っ越したマンションにいってみて、、またまた、涙がわきだしたのである。
駄目親父はなんてことをしたのだと、、、
かみさんにも詫びた、、、詫びて済む問題ではなかったが、、ただ、詫びた。
あの狭いマンションに引っ越した子供たちを何とかしなくてはという一心から、、実家の近くの駅前マンション「3LDK]をかりたのである。
駄目親父もかみさんにも子供たちにも許しを請うて、、一緒に住むことにして東京で仕事も探して頑張ったのであった。
東京で約10年間頑張っていたが、、いろいろあった。。。そして、、最終的はつくばに戻ったのである。本当にいろいろありすぎたような、、、
次女の桃にはいっぱい犠牲を払ってしまった、、、かみさんの病気もあったが、、桃には犠牲を払いすぎた。。。済まないと思っている。


「4}かみさんへの数知れない不幸、、、詫びきれない不幸だ。

駄目親父はかみさんに数知れない不幸をしてしまったのである。謝っても済む問題ではなく、どれだけ償っても償いきれない不幸の数々であった。一緒になって53年になる、、、馬鹿な男によく付き合ってくれたものだと感謝する。
どれだけ感謝しても感謝しきれないことであった。
まず、3人の子供を育ててくれたことに心から感謝するのである。
そして、馬鹿なことをやってきた馬鹿亭主を許してくれて今、曲がりなりにも一緒に住んでいることであった。
ダメ亭主は自分で思っていることは、、、許してもらえると思っているのは自分だけなのかもしれないと、、、、
子供たちも自分では選べない父親だから仕方がなかったのではないのか、、、
そんなことで生きてきた馬鹿な父親で、亭主なのであるのだ。

かみさんとの夫婦喧嘩はいっぱいしたな、、、酒を飲んで帰るのが約束の時間には帰れずに、、用意してくれたかみさんの夕食を食べずに無駄なことをしてきたのだった。
本当に無駄な時間を使っていたものだ、、、数えると、どのくらいしたのか、反省と後悔の繰り返しであった。
その喧嘩には意味がいっぱいあったような、、、それを気が付いても、気が付いた時にはやってしまっていた。
酔っぱらって午前様で帰ると、、、心の中では「失敗したーー。やってしまった」と、思いながら帰るのであったが、、、
その時に悪い結果が待っていた。
まず、玄関にものが置いてあるのだ、、、そのものがいろいろあった。
それは細切れになったダメ親父の背広が山積みになっていたり、、、玄関ホールにカレーの具が蒔かれていた、、、駄目親父はカレーが好きだったので、丹精込めて作ってくれた具を鍋ごと玄関に巻いてしまうのである。
かと思えば、、、玄関にダメ親父の気に入った時計を並べて置いて、入った瞬間に、、、
かみさんが「お帰りなさい、、、早いお帰りで」と、ニコット笑って、、、持っていたトンカチですべてを割ってしまったのだった。
また、子供たちは寝ていたがかみさんが居ないのであった、、、いくら探してもいなかったが、、
探しているダメ親父の上の方から笑い声が聞こえた、、、かみさんは天袋に入っていたのであった。滑稽な抵抗もあったのである。
その他にもコートや衣類をきったり、、浴室の風呂の中に入れてあったりした。
そして、仕事に出かけようとしたら車が無かったこともあったのである。
そんなことでやめとけば良かったのに、、、懲りずに繰り返したいたのであった。
それで「家出」をしたのであった。

やり直しをしよう東京で再度の出発をしたのであった。10年間はよかったような、、
しかし、ダメ親父は馬鹿を繰り返したのである、、、、
それでも馬鹿を繰り返しながら、やり直しをして、生きてきたのであった。
駄目親父は最終的な失敗をするまでは、、それなりに半分成功をしながら生きてきて、人生最後に大失敗をしてしまったのである。
駄目親父はこれからも生きている限り、後悔人生を見つめて、家族や迷惑をかけた人々に感謝をしながら、、、心を出来る限りの尽くして生きていきたいと思っている。