知らないことが たくさんだった。
中高の地理やクイズでは、京都といえば、西陣織と友禅染だったけど
実際京都に来てみたら 何にもなかった。
というのは、バブル崩壊の影響だったのか。
室町ももっと反映していたのか。
今住んでいる賃貸は染め物屋さんが家主。
そういえば、今年の斎王代も不動産業近庄ホールディングス
もともとは江戸時代から続く染色用工業糊を扱う商家「近庄製糊」。現在は「近庄ホールディングス」として不動産や建設業など多角的経営をされています。

ここ30年で大きくかわったのだな。
工場とか信金とか 全部 西陣と室町の町衆の影響があったのか。

村には 聚楽 廻、西ノ京、壬生といった大字があったので、現在の地名
なのか。

 

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『育児の百科』の著書で知られる松田道雄の居宅であることを知った。

八坂神社本来の神事である神幸祭と還幸祭に前後する「清めの行事」で、 前 祭りの巡行は、神幸祭で四条通にある 御旅所 に(八坂神社からの) 神を迎えるための「準備作業」といえるものであり、後祭りは、還幸祭で神が御旅所を出て八坂神社に戻った後に行われる「後片付け」ともいえる行事である。

合併前の町村名を頭に配し、旧町名を繫げるスタイルになっていることにも注目したい。朱雀地区は上に記したように合併前には葛野郡朱雀野村であったが、村には 聚楽 廻、西ノ京、壬生といった大字があったので、現在の地名は、聚楽廻を冠するもの5町、西ノ京を冠するもの 62 町など

町組では、町人居住区と寺社や公家は分離されてそれぞれが町組を形成した。明治維新後、町組は再編成され、 26 ~ 27 の町を一単位として、上京は 33、下京は 32 の番組に再編成

小学校の財政も番組単位で行われた。「学区は、起債権も認められた法人団体」(松下上掲論文) であった。

鴨川東岸の荒神口川端の御料牧場跡地に大規模工場が建設され(建物の一部は京都大学東南アジア研究所として現存)、蒸気を動力とする織機300台、手織り機100台を擁し撚糸・染色・織物を一貫生産する、日本で初めての近代的な生産システムを持った。

京都織物のような例外はあったものの、西陣の生産体制は賃機を中心とするもので、各織機は下請けをする職人の自宅に貸し出され、家内制工業の性格は戦後も続いた。そのため、急速に力織機の導入と工場化が進捗した福井の羽二重生産などに比べ、物的労働生産性の伸びは鈍かった(橋野 2019)。

技術や生産組織の選択は、高級先染め絹織物という製品を主力とする限り必然的なもの

京都銀行は1941年丹和銀行として創立され、当時は福知山に本店があったことから類推できるように、京都市内に本拠があった銀行ではない。

1916年から1953年に京都銀行が本店を京都市内に移すまで、京都市には市内に本店を置く商業銀行は存在しなかった。

京都に本店を構える銀行は一時(日清戦争後の銀行設立ブームの頃)、 19 行を数えましたが、その後の恐慌や、東京・大阪を本拠とする大手銀行の支店の大攻勢に遭遇したうえ、有力な貸出先となる地場産業企業群が育たなかったことで地元銀行成長の基盤が整わず、次々と姿を消していきました

西陣や友禅の染織業者が市場取引に慎重で、長期の取引関係に基づく相対取引に重心があり、その関係のもとでの商業信用に依存して、銀行を媒介とする商取引を避けた傾向が強かったことではないか。

切 屋 などは、事実上独自ブランドを持つ製造卸の性格を強く持っていた。

七禁令に象徴される戦時経済体制への移行とそれに伴う整理統合であり、数次にわたる強制的な整理統合により室町は西陣・友禅と並び壊滅的な打撃を被り、2500を数えた室町の卸売業者は1943年の企業整備により、わずか 21 店が日本織物統制会社の業務代行店として存続が許された。

1990年代以降は急激で回復の見込みのない減少が続き、1990年のピークに比べて生産高は2割未満にまで激減している。絹織物は、西陣・友禅共に、名実ともに伝統産業となり、産業の表舞台から消えようとしている。

戦前既に繊維全般の卸業から絹織物呉服の卸に専業化していた室町の問屋の多くは、戦後さらに「つぶし問屋」あるいは「染加工問屋」として、呉服のプロデューサーとしての機能を強め、白生地に染色し、「前売り問屋」に販売、前売り問屋が(場合によっては需要地問屋を経由して) 百貨店や専門呉服店などに販売する、という経路が主流となった。

鐘紡京都工場が左京区高野に、同じく左京区川端には京都織物が、山陰線のそば四条通には、京都綿ネル(後の辻紡績) と京都紡績の紡績工場があり、多くの女工が働いた。

結果としてみれば、これらの新興企業は、電子や電気機械及びその部品といった分野に集中したが、それはとりもなおさずこれらの分野での製造業の成長が最も高く、新製品、新製造技術に対する潜在需要が大きかったことを反映すると考えられる。これらの企業は、既存の企業や生産技術の空隙に進出したため、それぞれが孤立した、しかし強い競争力を持つ企業体として成長した。

戦前屈指の大工場であった、鐘紡京都工場(左京区高野など4工場) でも多くの朝鮮半島出身者が勤務したといわれる。

土木関連事業の大半が新規編入地域とその周辺に集中したため、自然と流入人口の居住地も周辺地域に集中することとなった。

1937年に実施された京都市の調査によれば、旧朱雀野村地域が5000人余の朝鮮半島出身者を抱え最大、次いで陶化学区(東九条) 地域に2000人余など顕著な集中が見られ、市全体で当時の人口の3%弱、3万1000人程度であったという

朱雀地区の工業化の皮切りは辻紡績の設立

1937年には島津製作所に買収された。

道路も新規あるいは拡築工事が進められ、また市電の路線敷設工事が並行した。これらの土木工事には多くの朝鮮半島出身者と被差別部落の住民が人夫請負業者により雇用された。

旧西院村の人口は1935年版『京都市統計書』によれば1万2600人余り、性比が126と極端に男性人口比率が高い。また人口の 11・4%が内地外の出生者

1918年に実現する隣接市域の編入は、東西南北、京都市域のほぼ全方向で隣接し、その多くが既に市街化していた町村(の一部) を市域に編入するもので、その時点で隣接町村は殆んど全てが家屋税に移行していた。  編入町村の中でも紀伊郡の柳原町、上鳥羽村、深草村、東九条村、葛野郡の衣笠村、花園村、西院村、七条村、大内村、朱雀野村はその殆どが既に市街化が進み、特に朱雀野村は人口2万8000人を抱え急速な人口増の途上にあった

町衆は自営して生業を持ち、持ち家に住み、奉公人や下女を雇う家族である。

1942年の段階でさえ、従業員500人を超える事業所はただ一つ、現在は同志社大学の新町キャンパスになっている日本電池(現GSユアサ) の蓄電池工場のみであった。

蜷川は、京大教授の後、中小企業庁の初代長官を務めたが、1950年に府知事に初当選、それ以来1978年まで府知事を務めた。

第一に西陣などの中小企業は、蜷川の当初からの中小企業の支援や保護策を背景に一貫して強力な支持母体となった。
第二に、市内中心部の多くの住民団体からの支持を受けたが、その背景には市中心部の様々な開発反対運動に蜷川が理解を示したことも見逃せない。
中心部に住む自営業者にとってはこれ以上を望むことが難しいような理想的知事であった。

産業構造の変化の推進者こそ南西回廊に立地した企業群である。  それでは1990年代を境に、都心とそれ以外の移動率が逆転した原因は何であろうか? 容易に考えられる仮説は高齢化の影響である。

都心部に町家を壊してペンシルビルを建てるのが目立つようになったのが1970年代以降で、そのピークが1990年代半ばのマンションブームである。

京都府の大学在学者のうち京都府外の高校の出身者は 75%程度に上る。
凡そ毎年2万人程度の府外出身者が京都の大学に入学すると推定される。

京都の上場企業が南西回廊に広く分布していること、そして市内中心部ではその過半が烏丸通に沿って分布することを示す。

京都市のオフィスビルのストックは107万㎡で、これは人口100万規模以上の主要 11 都市(東京都区部含む) で、さいたま市の106万㎡に次ぐ最下位から2番目、人口108万の仙台の224万㎡に比べると異常ともいえる少なさである。しかも、1000㎡を超える新築の賃貸用オフィスビルは2010年以降1棟も建設されておらず、今後も計画はない

2005年から 15 年の 10 年間で京都市は市内での雇用が 15%も減少し、他方市民の京都市外での就業者はこの間 65%増加している。

その中でも碍子メーカーとして大企業に成長したのが松風工業である。京セラの創業者稲盛和夫は、松風工業に当初勤務しながら、仲間を募って独立し、LSI用のセラミックパッケージの開発に成功した。

友禅の 捺染 技術を応用して捺染用スクリーンを開発した京写や、幕末に銅版美術印刷で大成した石田旭山印刷所は、道路標識の星和電機や、半導体洗浄・製造装置のSCREENを生んでいる。

開発には京都大学工学部との共同研究が大きな貢献となっている。  西陣出身では、川島織物(現川島織物セルコン) が緞帳を中心とした美術織物で代表的なメーカーとして知られ、また織機から繊維機械全般に進出した村田機械がある。

京都に決定的に欠けているのは、市場への道案内と協力者といった役割を持つ、VCや、証券会社などの仲介機関、そしてそれらのプレイヤーが恒常的なコンタクトを持つ場であることが分かる。

KRPは1989年大阪ガスの工場があった五条通の南沿いの跡地に建設された複合施設で、産業の研究開発やベンチャー企業の支援を行う。創設以来増築を繰り返し、現在では 18 棟のビルを持ち、500社が入居する。

烏丸線の北大路─JR京都間が開通したのは1981年であり、竹田までの延伸は1988年、東西線の一部開通は1997年である。