昭和の教育は 明治新政府が作った歴史を学んでいる
という感覚はあったのだけど
全然しらない世界があった。
一番気になったのが
維新で最も利益を得たのは戦争のスペシャリストである国際金融資本家たちであった。
明治になった途端、頻繁に戦争が起きるようになってしまう。
たしかに、明治以降戦争増えている。こわい。
グラバー園行ったけど倒産したこと見えてなかった。
英国公使ハリー・パークスから戦争を長引かせるなという指示が西郷のもとに伝えられていた。
貿易って どう儲けているのか、どのくらい儲かるのか、だれが儲かるのか
ちゃんと理解できていなかったのだけど
ジャーディン・マセソン商会を例に取ると、
簿価わずか7000ドルの自前の中古船を2万ドルという法外な値段で売っている。
萩藩 に 12 万ドルで売ったランスフィールド号の簿価などはたった5000ドルであった。
減価償却がほとんど終わったような船が簿価どころか、買値以上で売れていく
儲かるね。
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明治維新という名の洗脳
馬関海峡を通過した外国船舶に向けて無通告で無差別発砲した萩藩。
年間でミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁、木造蒸気船3隻、鉄製蒸気船1隻などを購入。
そのための資金として、少なくとも 15 万205両の支出があった
藩主毛利敬親 が当主に就いた1837年( 天保 8年)の時点で「8万貫の大敵」大きな借金を抱えた。8万貫はおよそ114万両。なんと敬親は外国から買った武器弾薬費に匹敵する負債を最初から抱えたまま維新に臨んでいたのである。
ヨーロッパの銀行家たちが信用するに足る資産をこの2藩が持っていたことにほかならない。
鉄製蒸気船ランスフィールド号を購入したいといってきた時には現金一括での支払いを要求し
萩藩はこれを全額即金で払っている。 これを可能にしたのが御手置銀だった。
毛利家では再検地や新田開発をたびたび行っている。同時に、3500人いた家臣を最も少ない時で600人にまで削ってしまう。
毛利重就は1763年(宝暦 13 年)、宝暦検地を行い、石高を一気に6万石分もアップさせた。
表向きには2万石の石高増とし、残った4万石を密かに別会計としたのである。
撫育局は1840年( 天保 11 年)、馬関(下関) と 室積(現在の光市)の港に越荷方を創設した。これは日本各地からやって来る商人たちのための倉庫業。
倉庫業と金融業と密貿易。この3つで稼ぎだした金を使って、萩藩は維新のための戦費を稼ぎだした。
撫育資金とは、現在の特別会計なのだ。
「裁判」という言葉もそうだ。これはもともと萩藩の行政区分である「 宰判」が語源になっている。
http://gioan-awk.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-6d2f.html
長州藩という表現は出てこない。公式文書では“萩藩”、普段は“長藩”とするのが正しいのである。
パークス は 幼い頃に両親を亡くし、 13 歳 で 清国に渡り、 15 歳 で 広東 領事館の通訳の仕事をするようになっていた。広東領事になってからはアヘン戦争(1840~1842)に深く介入
ロッシュはフランス革命で活躍したジロンド派の指導者の1人、ロラン夫人を大叔母に持つ、富豪の息子。青春時代をアルジェリアで過ごし、
パークスは最後に「江戸で信頼できる人物(寺島宗則)をとおして、薩摩と連絡をたもちたい意向」まで示したという
薩長を陰からバックアップしていた人間はパークスでもロッシュでもなかった。 それはイギリス駐日通訳官のアーネスト・サトウであった。
サトウはドイツ人を父に、イギリス人を母に持ち、「サトウ」という姓はスラブ系の姓で、日本の「佐藤」姓とは関係ない。
幕末の日本は攘夷派が突然開国派に変わり、佐幕派が突如倒幕派に変わる 混沌 とした時期。
薩摩の五代才助、 松木 弘安(寺島宗則)、萩藩の伊藤俊輔、井上聞多と胸襟を開いて会話ができるのも彼だけ。
『英国策論』というコラムだ。これは日本の元首は将軍ではなく天皇であると説き、将軍が貿易を独占しているのは不当であり、諸藩は自由貿易を行う権利を持っていると主張するもので、
サトウについては、当時彼の上司であった駐日英国公使館の書記官アルジャーノン・ミットフォードが詳しく書いている。本書でもすでに彼の著書『英国外国官の見た幕末維新』からいくつか引用している
年齢が6つ上(サトウは当時 23 歳)であることも一切 頓着 せず、サトウを信頼し、時に尊敬の目で見ていた。
エージェントは薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)だが、彼は留学中にクラレンドン外相のもとを訪ね、薩摩がいかに自由貿易を望んでいるのか、そして幕府がそういった雄藩たちの意思を邪魔しているのかを訴えている
尊皇倒幕派は決して尊王攘夷派ではないということだ。基本的な構成員は変わっていないのに、彼らは数年もしないうちに攘夷派から開国派へと変わっている
船舶保険の世界的大手ロイドレジスターグループ
マセソン商会の支配人ヒュー・マセソンの斡旋で、下宿先を探してもらう。
全員が分析化学をとっている。どういうわけか井上の名前がない。おそらくなんらかの理由で授業料の支払いが遅れたのであろう。ちなみにその他の科目では一八六五年二月七日付けで野村と遠藤が地質鉱物学を、山尾が土木工学をそれぞれ選び、同年十月十八日付けでは野村だけが数理物理学だけをとっている
日本人を統治するのは侍階級に任せるべきであり、イギリスは侍階級だけを統治すれば日本を掌握できる。サトウははっきりそういっている。 これはハモンド外務次官の「日本人から端を発したように見えなければいけない」と同じ意味であり、謀略の度合いはサトウのほうがより深い。
日本人が多少反発してきても圧倒的な戦力でもって 潰してしまえばいい。一度彼我の力の差を見せつけておけば、日本はその後、従順になり、 尻尾 を振ってくる。これが当時のイギリス人たちが経験的に学んだ日本統治法であった。
日本の官僚たちをアメリカやイギリスに留学させて、彼らの考え方を学ばせるとともにその国の政治家、有力者とのパイプを作る。それが日本に帰った時の力となり、外国からすれば、日本における 楔 となるのだ。 そう。留学生はそもそもエージェントであり、それ は 21 世紀の現代でも変わらないのである。
イギリス公使書記官アルジャーノン・ミットフォード
ジャーディン・マセソン商会だろう。同社は現在タックスヘイブンであるバミューダ島に本社を置き、フォーチュン500にもランクインする世界最大級のコングロマリットとなっている。
イギリス人のフレデリック・コーンズとウィリアム・G・アスピナルが横浜で創業した商社アスピナル・コーンズ社は最初、茶と絹の輸出を手がけていたが、1863年からP&O社( Peninsular and Oriental Steam Navigation Company =当時の郵便航路を独占する英国海軍省肝いりの勅許会社)の代理店となり、1868年にはロンドンの海上保険会社のシンジケート、ロイズのエージェントになることで世界の海の情報にも精通するようになる。ロイズの情報網はいまでも米英の情報機関 を 凌ぐと言われているほどで、アスピナル・コーンズ社は安定収入の確保と正確な情報をいち早く取り込むことで、商社として成功したのである。 そして同社は現在、社名をコーンズに変え、東京青山にショールームを構えてロールスロイスやフェラーリ
グラバーは薩摩に大量に戦艦、武器弾薬を売る一方で幕府からの武器発注の仕事も受けていた。それも当時、最強の大砲といわれたアームストロング 砲 35 門と砲弾 10 万発を、だ。総額 18 万3847ドルの大取引
幕府から支払われた手付金6万ドルのうちの半分、3万ドルを薩摩藩に貸し付けていたことだろう。
幕府も反幕府の雄藩たちも武器の買い過ぎで資金がショートし始めていた。これを補うためにも具体的な資金供給システムが必要だったのである。ただし、このシステムはかなり投機的なことは否めず、ちょっとしたきっかけ で 瓦解 する可能性を常にはらんでいた。 ちなみに幕府発注のアームストロング砲だが、その一部は1867年の夏頃には長崎に到着していた。これをただちに引き渡していれば、翌年開戦する鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたが、グラバーは残金との引き換えを要求し、受け渡しを拒否していた。
幕府側がウォルシュ商会から受け渡されたばかりの艦船陽春艦を担保に入れるまでアームストロング砲は引き渡さなかった。
契約が成立した直後に鳥羽・伏見の戦いが始まり、長崎まで砲を取りにいくことができなくなってしまったこと
日本に届いたのは1870年前後で既に戊辰戦争も終わろうか、もしくは終わっている時期。発注元の藩も既に使う必要のない軍艦に代金を払うモチベーションは下がっており、その多くが焦げ付いてしまう。
1870年8月、グラバー商会は負債総額 68 万1567ドル、資産総額 59 万4148ドル、最終的な負債額は8万7418ドルで倒産した。グラバー商会への債権はオランダ貿易会社 が 34 万8477ドル、グラバー・ブラザーズ社 が 12 万5430ドルと大きく、ジャーディン・マセソン商会が2万4066ドルと小額だったのはオランダ貿易会社が同商会の負債 13 万ドルを肩代わりしていたからだ。
英国公使ハリー・パークスの思惑であった。イギリスの利益を代表する公使としては戦争が長引けば、それだけ貿易もできず、市場の育成開拓もできない。儲かるのは武器商人だけだ。
江戸城無血開城にしても勝海舟の知恵と西郷隆盛の英断があったとされているが、本当のところはハリー・パークスから戦争を長引かせるなという指示が西郷のもとに伝えられていた。
戦争が始まった途端、グラバーは本国イギリスから切り捨てられていたのだ。 それは、グラバー発注の新造艦が遅れたことでも証明できる。
わずか3万ドル。この程度の金ならば、ジャーディン・マセソン商会が手を貸そうと思えば簡単に貸せただろう。しかし、彼らはそれをせず、高島炭鉱も破産させてしまった。 さて、高島炭鉱だが、一旦官営となるものの、たった 10 カ月後には後藤象二郎率いる蓬莱社に払い下げられる。価格 は 55 万円で前納金 は 20 万円。 ところが、後藤はその金がなかった。払ったのはなんとジャーディン・マセソン商会だったのだ。 こうやってグラバーは高島炭鉱まで奪われてしまったのである。
冒険とロマンを求めて大海原を渡ってきたといえば聞こえはいいが、要は海賊まがいの荒くれ者たちであった。 そんな彼らを本国では、ある種 の 畏怖 の思いを込めて“冒険商人”と呼んでいたが、彼らと直接やりとりをしていたイギリスの初代駐日全権総領事ラザフォード・オールコックは「ヨーロッパのクズ」、横浜の外人居留地を「ヨーロッパの掃き溜め」とまで呼んでいた。
文久3年(1863年)、イギリスの長崎領事であったモリソンはイギリス本国にこんな通信を送っている。 「薩摩藩プリンスは当港にエージェントをおき、イギリス政府にかわって実施されるであろう実力行使に関する情報収集を本格化させております。高級将校の何人かは居留外国人と不断の提携をすすめておりますが特筆すべきはグラバー商会のグラバーです」(『トーマス・B・グラバー始末』
この時期、イギリスは、生麦事件の報復を考えていた時で、薩摩藩のほうでもイギリス艦隊を迎撃するべく艦船と武器弾薬の調達に余念がなかった。 その調達に一役買っていたのがグラバーであった。彼は薩摩藩の五代才助とともに上海に向かい、青鷹丸、天祐丸、白鳳丸といった3隻の蒸気船を購入していた。よって、この時のグラバーはイギリスの裏切り者だった。
外資系銀行はこの翌年1863年3月、インドのボンベイに本店を持つイギリス資本のセントラル・バンクが横浜に上陸したのが 嚆矢 となる。同行は外国資本の銀行というだけでなく、日本で最初に設立された銀行でもあった。
銀行群の中で最も新政府に食い込んだのが東洋銀行であった。
東洋銀行は鉄道建設、造幣寮及び紙幣寮の創設、外債募集などで、新政府にがっちり食い込んでいくのだが、この当時の外資系商社、外資系銀行は安政期に交わした通商条約によって保護されていた。よって、現在の大使館と同じで、まったくの治外法権の中にあり、新政府は常に彼らに振り回されることになった。
戦争直前あるいは戦争直後に次々とやって来た外資系銀行たち。 彼らはこの時を狙っていたかのようにやって来たと、いま書いたが、事実、彼らは狙ってやって来たのだ。 戦争勃発を彼らは安政年間の通商条約が結ばれた時から待ち望み、ついにその時を摑み、横浜に上陸したのである。
ジャーディン・マセソン商会を例に取ると、この時期、簿価わずか7000ドルの自前の中古船を2万ドルという法外な値段で売っている。萩藩 に 12 万ドルで売ったランスフィールド号の簿価などはたった5000ドルであった。減価償却がほとんど終わったような船が簿価どころか、買値以上で売れていくのだからこんなおいしい話はない。 外国商社はここぞとばかりに大取引を展開。彼らはそのための資金や本店への送金などで外資系銀行を必要としたのである。
答えは戦争が起きた瞬間、当事国の通貨が暴落するからである。
当時国の通貨が使えなくなるとどうなるのだろうか? それは外資系銀行が貸し出す、国際流通通貨を使用する以外に道はないということだ。当時でいえばメキシコ・ドル。基本的にこれを使わなければ、銃1丁、弾1発買えない状況が訪れたということである。
外資系銀行はこの金と銀にも狙いをつけていたのだ。
武器を買うには必ず洋銀を用いるか、金銀を使用しなければならない事態が訪れる。しかし、これらには限りがある。洋銀は船で運んでこなければならず、金銀の産出も無限ではない。そこで 俄然 存在感が高まるのが外資系銀行による融資だった
長州ファイブ全員で、ある場所を見学していることだけはわかっている。 それがイングランド銀行だ。
彼らは見学者名簿に名前を記載しており、幕府の遣欧使節団(1867年)の幕臣がそれを見つけて色めきたっている。その際、幕臣たちは薩摩藩の新納刑部、五代才助、堀壮十郎の名も見つけており、それらの名を書き留めて日本に戻っている。
幕府使節団、薩長の留学生たちを陰から支援していたのはイギリス政府でもフランス政府でもない。彼ら国際金融家たちだったのだ。
イギリス側とは“イギリス政府”のエージェントではなく、“イギリスの銀行家たち”のエージェントであったのだ。また、
開国派であった高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らがなぜ品川の御殿山に建設中のイギリス公使館の焼き討ち事件を起こしたのか、だ。 そもそも、これは1863年1月 31 日の出来事で、この4カ月後、伊藤と井上は向学心に燃えてイギリスに向けて旅立つのである。
彼ら改革派は外国勢と戦っても勝ち目がないとわかっていた。だから、いまはその文明を学び、富国強兵を成し遂げたところで攘夷を行えばいい、と考えていたから」などという苦しい言い訳をしている。 しかし、そんなもの は 詭弁 だろう。 相手側の文明を学べば相手側に取り込まれるのがオチであり、それ以前に最強の武器を相手側がおいそれと手放すわけがない。現代の日本に原爆がないのがその証拠だ。
ロスチャイルド家は初代マイヤー・アムシェルの時代から 傭兵 を使うことに長けていた。彼を最初に宮廷代理人にとりたてたヘッセン・カッセル公ヴィルヘルムは自分の家来をイギリスに賃貸しをすることで巨万の富を得ていた。兵士が戦死した場合は2倍の賃貸料を請求するのである。
幕末にも傭兵部隊は来ていただろう。直接戦わなくても彼らに戦争の仕方を教えたのではないかと考えられる
実は奇兵隊の強さの秘密は火力の強さではなく、火力の使い方が巧みだった点なのだ
実は金本位制は国際金融家たちが推進する制度で、通貨発行権をより強化できる仕組み。このあたりのカラクリは『洗脳経済150年の呪縛』(ビジネス社刊)を参照してほしいのだが、伊藤はその尖兵になってしまって
国際金融家たちのほうが権謀術数にかけては何枚も上。志士たちは自分たちの理想も夢もまるごと金融家たちに飲み込まれ、明治という新しい時代を迎えるのである。
維新で最も利益を得たのは戦争のスペシャリストである国際金融資本家たちであった。
明治になった途端、頻繁に戦争が起きるようになってしまう。
明治時代の戦争の火種はすべて朝鮮半島だったということ。前述したとおり、日清、日露の戦争のきっかけは半島であったし、西南戦争にしても、その遠因 は 征韓論 を巡って新政府内部が二分したためだ。
1866年英国公使ハリー・パークスが鹿児島を訪問したこの年、英国公使付き通訳官アーネスト・サトウは朝鮮語の勉強を始めていた。
使節団の団長、岩倉以下、木戸、大久保、伊藤、山口は基本的に征韓論には反対の立場。逆に留守政府を守る西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らは全員征韓論者ばかり。そんな状況下で2年も日本を留守にすれば政府内が征韓論に傾くのは至極当然であっただろうし、そんな結果になることぐらい木戸にしても大久保にしても容易に想像がついただろう。
何度もいうが明治政府には金がなかった。 ということはどこかの誰かが金を貸したのだ。 その誰かはなんらかのメリットが期待できると踏んだから彼らに融資したのだろ
薩長同盟の締結では縦横無尽に動いたように小説の中では描かれているが、死ぬまで脱藩浪士だった龍馬を薩長の西郷隆盛、木戸孝允がまともに相手にする理由などない。西郷、木戸が坂本と会ったのは彼のバックにトーマス・グラバーがいたからだ。 坂本はグラバーの名代でしかなく、グラバーと薩長のつなぎ役もしくは監視役といったものが主な仕事だったというのが本当のところだろう。
馬が殺された理由だが、最後の最後でグラバーを裏切ったためだ。 しかし、この裏切りは日本に内戦が勃発するのを阻止するためであり、龍馬の動きがあったからこそ、あのタイミングで土佐藩藩主 山内容堂 が 大政奉還 の建白書を出せたのだ。
徳川慶喜が大政奉還を行った慶応3年(1867年) 10 月 14 日、岩倉具視が画策したニセの討幕の密勅が薩長(薩摩には 13 日)にくだされていた。だから、
龍馬暗殺の真相は謎なのではなく、彼の裏切りの理由が新政府の禁忌に触れてしまうから謎にせざるをえなかっただけだったのだ。
日本人 の 99%が知らない戦後洗脳史』(ヒカルランド刊)でも書いたがアメリカの占領軍GHQは、占領中の約7年間に日本人に対する洗脳教育を徹底的に行っている。それがウォーギルトインフォメーションプログラム
ウォーギルトインフォメーションプログラムの効果だ。日本人は「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえつかない」ほど罪の意識を刷り込まれてしまっているのである。 そして、このプログラムを推進したと言われるのがGHQの民間情報教育局で、あまり知られていないが、NHKはこの民間情報教育局によって作られたのだ。
民放局日本テレビ放送網を作ったのは正力松太郎で、彼はアメリカCIAのエージェントだったことが公開されたアメリカの公文書によって判明している。
軍艦島で話題になった「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されたことも政権の意向が働いている。
世界遺産のノミネートが内閣府が担当したということ。
文化庁による推薦であったのが、今回だけ突如内閣府が産業革命遺産の保護に適用する法律を拡大して推薦していた。内閣府はなりふり構わず、明治を讃え、薩長を礼賛しようとしているのである。
坪井九右衛門だ。
栄作兄弟の曽祖父である元萩藩士、佐藤 信 寛 は長沼流兵学を修めた学者で、なんと吉田松陰に兵要禄を授けている。坪井九右衛門と違い、信寛は正義派のほうについており、維新後は浜田県権知事、島根県令を歴任している。