始発で移動。

どぶろっくの出身地基山って、甘木鐵道分岐の鹿児島本線の駅だった。
この辺は3号線と並走。
 

鳥栖の手前、田代駅、貨物駅併用だった。

鳥栖貨物ターミナル駅
佐賀で30分待ち。
特急連絡も多い。

江北でも待ち。

どおりで鳥栖からの時間が長いわけだ。

 

有田駅で松浦鉄道に。

松浦鉄道
改札なしの連絡
駅の説明がよい
アジフライ列車強烈。吊り革にもアジフライ。

 

 

そういえば、ニチテンでプレゼントしていたの松浦のだったはず。

 

 

 


伊万里駅、線路切断

2002年(平成14年)に伊万里駅の駅舎改築とともに線路も分断された。

筑肥線の歴史たのしい。

調川、アジ・サバ名産?

調川駅の近くに松浦魚市場があり、アジやサバの水揚げが多い

 

松浦から発電所こえて御厨
駅間長かった。区間移動もあり

松浦発電所の建設・運転開始に合わせて1989年3月11日に新設された駅です。
発電所へのアクセス確保と、周辺の通勤・業務利用を見込んで作られたと考えられます。

部活やってる高校生がクーラーボックス持ち歩いてる
清峰高校から乗客増えた
大学駅多数乗車

 

佐世保からの列車乗客多し(本日は多いらしい)
若者もたくさん。
ハウステンボスで少し入れ替え
彼杵駅(そのぎ)読めない
大村湾の眺め良好
水質はよかなさそう
千綿駅、海そば

 

向陽高等学校

大村市。

 

島原鉄道
高校生多く定員の6割くらいの乗車で立っている乗客もでている
愛野駅で半分降りた

島原の田んぼ
土手が石垣だったりコンクリートだったりする。

 

途中、国見高校のモニュメント

長崎県雲仙市国見町多比良なのか。

2005年(平成17年)10月11日 - 国見町・瑞穂町・吾妻町・愛野町・千々石町・小浜町・南串山町が新設合併し市制施行、雲仙市が発足。

 

島原港でお土産調達し、セブンイレブンでそうめん&かしわめし
諫早に戻ったら駅弁なかった。
買える時に買っておくの大切。

佐世保からの大村線でみた乗客が武雄温泉から乗車する列車から降りてきた。びっくり。

鍋島貨物駅,コンテナたくさん
 

小倉の新幹線駅では 博多通りもん なかった。

JR小倉駅3階の「小倉銘品蔵」で博多通りもんの販売情報

そっか。時間ぎりぎりで よらなかったところだ。

 

わたあめ日和聴いて多幸感溢れた。

 

 

 

「答えは1つ」という教育からの離脱

選択肢があることを知る読書。

 

知らない人も知っている人も同じ世界に生きているということだ。ただ、見えているものが違うだけ。
同じ環境にいながら、見えているものが違う。つまり、チャンスが目の前にあるのに見えていない。

身近な人の変化には拒絶反応を示すのが「通常」 なのだ。これが「通常」だということを知っておくこと。
移動には物理的な移動だけでなく、「知識の移動」や「視点の移動」も含まれる。

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本を読む人はうまくいく



読書で得た知識は一度きりの消費では終わらない。  実務で使い、文章でアウトプットし、人に教えるたびに価値が雪だるま式に 膨らむ。

行動しない理由も「答えが1つ」洗脳のせいだ。  答えが1つだと思っているから、やたらと選択するときに考え込む。なかなか選択できない。なかなか決断できない。そんな人がやたら多い。

他人がつくった選択肢以上に視野を広げることはできないし、なにせ答えも他人が決めるわけだから、他人の顔色をうかがう人生になる。  これでは無限の広さを持つ世界の地図を持つことができない。

知らない人も知っている人も同じ世界に生きているということだ。ただ、見えているものが違うだけ。

同じ環境にいながら、見えているものが違う。つまり、チャンスが目の前にあるのに見えていない。それ

文章を読むとき、著者の言葉をもとに自分の頭の中でイメージを形成していく。この過程で想像力が鍛えられ、創造性が育まれるのだ。

「頭の良さ」とはなんなのか?  私は「長い人間関係をつくる能力」と「環境適応能力」だと思っている。どれだけ多くの人を知っているか、時代の変化に対応できるか。

信頼は一夜にして築かれるものではなく、約束を守ったり、お礼を言うなど無数の小さな行動の積み重ねの結果だ。  不確実性が高い現代においては、長い関係の中で培われた信頼は心理的安全を

そろそろそういう生き方を変えてみないか。  結局、「やったような気になって終わり」になってしまうのは、地図を持っていないのが原因だ。  簡単に言えば、自分を 俯瞰 できていない。 自分を俯瞰できていないと、どうしても行動が情動に左右されてしまう。情動で動くと当然、長続きしない。だから、地図が必要だ という

まわりの人間があなたを自然に邪魔してくる。それは、「読書ができない人間」と設定しているからだ。  彼らにとってあなたが変わってしまうのは不快だ。彼らにとっては絶妙にバランスが取れている関係性を乱すことになるから、そんなのは不快でしかないのだ。

身近な人の変化には拒絶反応を示すのが「通常」 なのだ。これが「通常」だということを知っておくこと。

移動には物理的な移動だけでなく、「知識の移動」や「視点の移動」も含まれる。

読書によって別の時代や別の国、別の文化に意識を飛ばすことだって「移動」 なのだ。  そうやって頭の中でさまざまな場所を旅し、さまざまな人物や考え方と出会う。それが環境適応能力を養う大きなきっかけになる。

小説を読むことは、他者の心を理解する能力(共感力)を高める」という結果が示されている。  小説を読むと、物語理解や共感に関連する脳領域(中心溝・左側頭葉など)が活性化するのだ。

小説は単なる娯楽ではなく、 複雑な人間理解、創造性の向上、ストレス軽減、集中力向上など、現代社会を生き抜くために必要な多くの能力を育んでくれる のだ。


 

 

目次を読むだけでよさそうだった。
あまりにも抜粋しすぎて、著者オリジナルの考えを知るまでに至らなかった。


発想のおもしろさは、化合物のおもしろさである。元素をつくり出すことではない。

指導性が強すぎるのです。もっと読むものの心にひびく低い声でものを言ってくれないかと不満をいだいています。  叱られるために読むというのはありがたくないと思うのです。

 

 

 

国語がなぜ大切なのか

というか、言葉を知っていることの重要性を知る。

「人間は言葉を使ったときにだけ、ちゃんと考えることができるのだ。」

言葉を正しく知らないのなら、意思疎通の障碍であるし、理解の障壁でもある。

 

 

「心配している」と言う。けれども、心配の中身は妄想である。
本当に人に信頼を置いている人は、安心して待っているだけである。 心配症の人は悪が好きである。心配の中身は、うまくいかないことを想像していること。

自分が関わりたずさわることによってのみ、その仕事に初めて独特の個性が生まれてくるのである。
これこそが自分の仕事だと言えるようになる。
仕事の本当のおもしろさはそれに深くたずさわっている人にしかわからない。

 

頭がよくなる思考術 頭がよくなるシリーズ

1 利己的選択の思考……どういう手段や方法が自分にとってもっとも多い利益をもたらすかを考える。典型はゲームで勝つための考え方だが、現実においてもこの打算的思考によって態度や手段を決めることが多い。 
2 経験の反省にもとづいた思考……次に何が起きたら事態がどうなるかを自分のこれまでの経験や現在の情実からシミュレーション的に想像する。これには性格と個人的経験や文化が強く影響してくる。 
3 感情的混乱の妄想……怒り、悲しみ、忿懣、などのために感情が乱れているときの妄想的考え。事実と想像が混在しているのが特徴。くよくよする性格やある種の心配もまた妄想から生まれている場合が多い。 
4 知識の連絡による思考……読書をして内容を理解しようとしているときの思考。また、仕事などにおいてデータや情報を理解するとき、一般的な状況理解のときの考え方。 
5 本質把握のための思考……何が本質なのか、何がもっとも重要なことなのかを資料を基礎に洞察して抽出する思考。哲学などの学問研究における思考がこれである。
6 論理的思考……論理のみによる思考。もっぱら数学や論理学の範疇における抽象的思考であり、現実の人間関係や状況判断に用いられることはない。

人間は言葉を使ったときにだけ、ちゃんと考えることができるのだ。 わたしたちはぼんやり考えることもあると漠然と思っているけれど、それは考えることではない。

意思疎通の障碍であるし、理解の障壁でもある。

言葉を正しく知らないのなら、聞いたこと、読んだことを正確に理解できていないのはあたりまえ

正しく表現できてもいない。それは同時に、世界をちゃんと理解していないことであり、また自分の意見が正しく伝わっていないことを意味するのである。

自分の考えを厳しく批判してみるべきだ。決して非難するのではなく、批判するのだ。

自転車の乗り方にしても、体による経験がなければ身につかない。頭も同じことで、いったん自分の中で咀嚼して考え直さなければ、理解というステージに上がることができない。

「心配している」と言う。けれども、あなたの心配の中身は妄想である。

本当に人に信頼を置いている人は、安心して待っているだけである。 心配症の人は悪が好きである。心配の中身

グチが愚かであるのは、グチを言うことによって、あなた自身の思考がその場で凍結してしまうからである。

自分が関わりたずさわることによってのみ、その仕事に初めて独特の個性が生まれてくるのである。
これこそが自分の仕事だと言えるようになる。

真摯に、積極的に、熱意をこめて、注意深く、たずさわりさえすれば、仕事はやりがいと生きがいを与えてくれるのである。 だから、それぞれの仕事の本当のおもしろさはそれに深くたずさわっている人にしかわからない。

やりがいのある仕事がそこにあるのではなく、自分の姿勢と取り組み方だけが仕事に生気を吹き込むことができる。

怠け者は自分がしたいことをするのを環境や周囲の人間が妨害していると言い張るものだ。しかし、彼は自分をあざむいているだけにすぎない。そして、その代償を不満というやりきれない気分としてもらい続けているのである。

 

 

 

昭和の教育は 明治新政府が作った歴史を学んでいる

という感覚はあったのだけど

全然しらない世界があった。

 

一番気になったのが

維新で最も利益を得たのは戦争のスペシャリストである国際金融資本家たちであった。
明治になった途端、頻繁に戦争が起きるようになってしまう。
 

たしかに、明治以降戦争増えている。こわい。
 

グラバー園行ったけど倒産したこと見えてなかった。

 

英国公使ハリー・パークスから戦争を長引かせるなという指示が西郷のもとに伝えられていた。
 

貿易って どう儲けているのか、どのくらい儲かるのか、だれが儲かるのか

ちゃんと理解できていなかったのだけど

 

ジャーディン・マセソン商会を例に取ると、

簿価わずか7000ドルの自前の中古船を2万ドルという法外な値段で売っている。

萩藩 に 12 万ドルで売ったランスフィールド号の簿価などはたった5000ドルであった。

減価償却がほとんど終わったような船が簿価どころか、買値以上で売れていく

儲かるね。

 

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明治維新という名の洗脳


馬関海峡を通過した外国船舶に向けて無通告で無差別発砲した萩藩。

年間でミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁、木造蒸気船3隻、鉄製蒸気船1隻などを購入。
そのための資金として、少なくとも 15 万205両の支出があった

藩主毛利敬親 が当主に就いた1837年( 天保 8年)の時点で「8万貫の大敵」大きな借金を抱えた。8万貫はおよそ114万両。なんと敬親は外国から買った武器弾薬費に匹敵する負債を最初から抱えたまま維新に臨んでいたのである。

ヨーロッパの銀行家たちが信用するに足る資産をこの2藩が持っていたことにほかならない。 

鉄製蒸気船ランスフィールド号を購入したいといってきた時には現金一括での支払いを要求し
萩藩はこれを全額即金で払っている。 これを可能にしたのが御手置銀だった。

毛利家では再検地や新田開発をたびたび行っている。同時に、3500人いた家臣を最も少ない時で600人にまで削ってしまう。

毛利重就は1763年(宝暦 13 年)、宝暦検地を行い、石高を一気に6万石分もアップさせた。
表向きには2万石の石高増とし、残った4万石を密かに別会計としたのである。

撫育局は1840年( 天保 11 年)、馬関(下関) と 室積(現在の光市)の港に越荷方を創設した。これは日本各地からやって来る商人たちのための倉庫業。

倉庫業と金融業と密貿易。この3つで稼ぎだした金を使って、萩藩は維新のための戦費を稼ぎだした。

撫育資金とは、現在の特別会計なのだ。

「裁判」という言葉もそうだ。これはもともと萩藩の行政区分である「 宰判」が語源になっている。
http://gioan-awk.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-6d2f.html

長州藩という表現は出てこない。公式文書では“萩藩”、普段は“長藩”とするのが正しいのである。

パークス は 幼い頃に両親を亡くし、 13 歳 で 清国に渡り、 15 歳 で 広東 領事館の通訳の仕事をするようになっていた。広東領事になってからはアヘン戦争(1840~1842)に深く介入

ロッシュはフランス革命で活躍したジロンド派の指導者の1人、ロラン夫人を大叔母に持つ、富豪の息子。青春時代をアルジェリアで過ごし、

パークスは最後に「江戸で信頼できる人物(寺島宗則)をとおして、薩摩と連絡をたもちたい意向」まで示したという

薩長を陰からバックアップしていた人間はパークスでもロッシュでもなかった。 それはイギリス駐日通訳官のアーネスト・サトウであった。

サトウはドイツ人を父に、イギリス人を母に持ち、「サトウ」という姓はスラブ系の姓で、日本の「佐藤」姓とは関係ない。

幕末の日本は攘夷派が突然開国派に変わり、佐幕派が突如倒幕派に変わる 混沌 とした時期。

薩摩の五代才助、 松木 弘安(寺島宗則)、萩藩の伊藤俊輔、井上聞多と胸襟を開いて会話ができるのも彼だけ。

『英国策論』というコラムだ。これは日本の元首は将軍ではなく天皇であると説き、将軍が貿易を独占しているのは不当であり、諸藩は自由貿易を行う権利を持っていると主張するもので、

サトウについては、当時彼の上司であった駐日英国公使館の書記官アルジャーノン・ミットフォードが詳しく書いている。本書でもすでに彼の著書『英国外国官の見た幕末維新』からいくつか引用している

年齢が6つ上(サトウは当時 23 歳)であることも一切 頓着 せず、サトウを信頼し、時に尊敬の目で見ていた。

エージェントは薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)だが、彼は留学中にクラレンドン外相のもとを訪ね、薩摩がいかに自由貿易を望んでいるのか、そして幕府がそういった雄藩たちの意思を邪魔しているのかを訴えている

尊皇倒幕派は決して尊王攘夷派ではないということだ。基本的な構成員は変わっていないのに、彼らは数年もしないうちに攘夷派から開国派へと変わっている

船舶保険の世界的大手ロイドレジスターグループ

マセソン商会の支配人ヒュー・マセソンの斡旋で、下宿先を探してもらう。

全員が分析化学をとっている。どういうわけか井上の名前がない。おそらくなんらかの理由で授業料の支払いが遅れたのであろう。ちなみにその他の科目では一八六五年二月七日付けで野村と遠藤が地質鉱物学を、山尾が土木工学をそれぞれ選び、同年十月十八日付けでは野村だけが数理物理学だけをとっている

日本人を統治するのは侍階級に任せるべきであり、イギリスは侍階級だけを統治すれば日本を掌握できる。サトウははっきりそういっている。 これはハモンド外務次官の「日本人から端を発したように見えなければいけない」と同じ意味であり、謀略の度合いはサトウのほうがより深い。

日本人が多少反発してきても圧倒的な戦力でもって 潰してしまえばいい。一度彼我の力の差を見せつけておけば、日本はその後、従順になり、 尻尾 を振ってくる。これが当時のイギリス人たちが経験的に学んだ日本統治法であった。

日本の官僚たちをアメリカやイギリスに留学させて、彼らの考え方を学ばせるとともにその国の政治家、有力者とのパイプを作る。それが日本に帰った時の力となり、外国からすれば、日本における 楔 となるのだ。 そう。留学生はそもそもエージェントであり、それ は 21 世紀の現代でも変わらないのである。

イギリス公使書記官アルジャーノン・ミットフォード

ジャーディン・マセソン商会だろう。同社は現在タックスヘイブンであるバミューダ島に本社を置き、フォーチュン500にもランクインする世界最大級のコングロマリットとなっている。

イギリス人のフレデリック・コーンズとウィリアム・G・アスピナルが横浜で創業した商社アスピナル・コーンズ社は最初、茶と絹の輸出を手がけていたが、1863年からP&O社( Peninsular and Oriental Steam Navigation Company =当時の郵便航路を独占する英国海軍省肝いりの勅許会社)の代理店となり、1868年にはロンドンの海上保険会社のシンジケート、ロイズのエージェントになることで世界の海の情報にも精通するようになる。ロイズの情報網はいまでも米英の情報機関 を 凌ぐと言われているほどで、アスピナル・コーンズ社は安定収入の確保と正確な情報をいち早く取り込むことで、商社として成功したのである。 そして同社は現在、社名をコーンズに変え、東京青山にショールームを構えてロールスロイスやフェラーリ

グラバーは薩摩に大量に戦艦、武器弾薬を売る一方で幕府からの武器発注の仕事も受けていた。それも当時、最強の大砲といわれたアームストロング 砲 35 門と砲弾 10 万発を、だ。総額 18 万3847ドルの大取引

幕府から支払われた手付金6万ドルのうちの半分、3万ドルを薩摩藩に貸し付けていたことだろう。

幕府も反幕府の雄藩たちも武器の買い過ぎで資金がショートし始めていた。これを補うためにも具体的な資金供給システムが必要だったのである。ただし、このシステムはかなり投機的なことは否めず、ちょっとしたきっかけ で 瓦解 する可能性を常にはらんでいた。 ちなみに幕府発注のアームストロング砲だが、その一部は1867年の夏頃には長崎に到着していた。これをただちに引き渡していれば、翌年開戦する鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたが、グラバーは残金との引き換えを要求し、受け渡しを拒否していた。

幕府側がウォルシュ商会から受け渡されたばかりの艦船陽春艦を担保に入れるまでアームストロング砲は引き渡さなかった。

契約が成立した直後に鳥羽・伏見の戦いが始まり、長崎まで砲を取りにいくことができなくなってしまったこと

日本に届いたのは1870年前後で既に戊辰戦争も終わろうか、もしくは終わっている時期。発注元の藩も既に使う必要のない軍艦に代金を払うモチベーションは下がっており、その多くが焦げ付いてしまう。

1870年8月、グラバー商会は負債総額 68 万1567ドル、資産総額 59 万4148ドル、最終的な負債額は8万7418ドルで倒産した。グラバー商会への債権はオランダ貿易会社 が 34 万8477ドル、グラバー・ブラザーズ社 が 12 万5430ドルと大きく、ジャーディン・マセソン商会が2万4066ドルと小額だったのはオランダ貿易会社が同商会の負債 13 万ドルを肩代わりしていたからだ。

英国公使ハリー・パークスの思惑であった。イギリスの利益を代表する公使としては戦争が長引けば、それだけ貿易もできず、市場の育成開拓もできない。儲かるのは武器商人だけだ。

江戸城無血開城にしても勝海舟の知恵と西郷隆盛の英断があったとされているが、本当のところはハリー・パークスから戦争を長引かせるなという指示が西郷のもとに伝えられていた。

戦争が始まった途端、グラバーは本国イギリスから切り捨てられていたのだ。 それは、グラバー発注の新造艦が遅れたことでも証明できる。

わずか3万ドル。この程度の金ならば、ジャーディン・マセソン商会が手を貸そうと思えば簡単に貸せただろう。しかし、彼らはそれをせず、高島炭鉱も破産させてしまった。 さて、高島炭鉱だが、一旦官営となるものの、たった 10 カ月後には後藤象二郎率いる蓬莱社に払い下げられる。価格 は 55 万円で前納金 は 20 万円。 ところが、後藤はその金がなかった。払ったのはなんとジャーディン・マセソン商会だったのだ。 こうやってグラバーは高島炭鉱まで奪われてしまったのである。

冒険とロマンを求めて大海原を渡ってきたといえば聞こえはいいが、要は海賊まがいの荒くれ者たちであった。 そんな彼らを本国では、ある種 の 畏怖 の思いを込めて“冒険商人”と呼んでいたが、彼らと直接やりとりをしていたイギリスの初代駐日全権総領事ラザフォード・オールコックは「ヨーロッパのクズ」、横浜の外人居留地を「ヨーロッパの掃き溜め」とまで呼んでいた。

文久3年(1863年)、イギリスの長崎領事であったモリソンはイギリス本国にこんな通信を送っている。 「薩摩藩プリンスは当港にエージェントをおき、イギリス政府にかわって実施されるであろう実力行使に関する情報収集を本格化させております。高級将校の何人かは居留外国人と不断の提携をすすめておりますが特筆すべきはグラバー商会のグラバーです」(『トーマス・B・グラバー始末』

この時期、イギリスは、生麦事件の報復を考えていた時で、薩摩藩のほうでもイギリス艦隊を迎撃するべく艦船と武器弾薬の調達に余念がなかった。 その調達に一役買っていたのがグラバーであった。彼は薩摩藩の五代才助とともに上海に向かい、青鷹丸、天祐丸、白鳳丸といった3隻の蒸気船を購入していた。よって、この時のグラバーはイギリスの裏切り者だった。 

外資系銀行はこの翌年1863年3月、インドのボンベイに本店を持つイギリス資本のセントラル・バンクが横浜に上陸したのが 嚆矢 となる。同行は外国資本の銀行というだけでなく、日本で最初に設立された銀行でもあった。

銀行群の中で最も新政府に食い込んだのが東洋銀行であった。

東洋銀行は鉄道建設、造幣寮及び紙幣寮の創設、外債募集などで、新政府にがっちり食い込んでいくのだが、この当時の外資系商社、外資系銀行は安政期に交わした通商条約によって保護されていた。よって、現在の大使館と同じで、まったくの治外法権の中にあり、新政府は常に彼らに振り回されることになった。

戦争直前あるいは戦争直後に次々とやって来た外資系銀行たち。 彼らはこの時を狙っていたかのようにやって来たと、いま書いたが、事実、彼らは狙ってやって来たのだ。 戦争勃発を彼らは安政年間の通商条約が結ばれた時から待ち望み、ついにその時を摑み、横浜に上陸したのである。

ジャーディン・マセソン商会を例に取ると、この時期、簿価わずか7000ドルの自前の中古船を2万ドルという法外な値段で売っている。萩藩 に 12 万ドルで売ったランスフィールド号の簿価などはたった5000ドルであった。減価償却がほとんど終わったような船が簿価どころか、買値以上で売れていくのだからこんなおいしい話はない。 外国商社はここぞとばかりに大取引を展開。彼らはそのための資金や本店への送金などで外資系銀行を必要としたのである。

答えは戦争が起きた瞬間、当事国の通貨が暴落するからである。

当時国の通貨が使えなくなるとどうなるのだろうか? それは外資系銀行が貸し出す、国際流通通貨を使用する以外に道はないということだ。当時でいえばメキシコ・ドル。基本的にこれを使わなければ、銃1丁、弾1発買えない状況が訪れたということである。

外資系銀行はこの金と銀にも狙いをつけていたのだ。

武器を買うには必ず洋銀を用いるか、金銀を使用しなければならない事態が訪れる。しかし、これらには限りがある。洋銀は船で運んでこなければならず、金銀の産出も無限ではない。そこで 俄然 存在感が高まるのが外資系銀行による融資だった

長州ファイブ全員で、ある場所を見学していることだけはわかっている。 それがイングランド銀行だ。

彼らは見学者名簿に名前を記載しており、幕府の遣欧使節団(1867年)の幕臣がそれを見つけて色めきたっている。その際、幕臣たちは薩摩藩の新納刑部、五代才助、堀壮十郎の名も見つけており、それらの名を書き留めて日本に戻っている。

幕府使節団、薩長の留学生たちを陰から支援していたのはイギリス政府でもフランス政府でもない。彼ら国際金融家たちだったのだ。

イギリス側とは“イギリス政府”のエージェントではなく、“イギリスの銀行家たち”のエージェントであったのだ。また、

開国派であった高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らがなぜ品川の御殿山に建設中のイギリス公使館の焼き討ち事件を起こしたのか、だ。 そもそも、これは1863年1月 31 日の出来事で、この4カ月後、伊藤と井上は向学心に燃えてイギリスに向けて旅立つのである。

彼ら改革派は外国勢と戦っても勝ち目がないとわかっていた。だから、いまはその文明を学び、富国強兵を成し遂げたところで攘夷を行えばいい、と考えていたから」などという苦しい言い訳をしている。 しかし、そんなもの は 詭弁 だろう。 相手側の文明を学べば相手側に取り込まれるのがオチであり、それ以前に最強の武器を相手側がおいそれと手放すわけがない。現代の日本に原爆がないのがその証拠だ。

ロスチャイルド家は初代マイヤー・アムシェルの時代から 傭兵 を使うことに長けていた。彼を最初に宮廷代理人にとりたてたヘッセン・カッセル公ヴィルヘルムは自分の家来をイギリスに賃貸しをすることで巨万の富を得ていた。兵士が戦死した場合は2倍の賃貸料を請求するのである。

幕末にも傭兵部隊は来ていただろう。直接戦わなくても彼らに戦争の仕方を教えたのではないかと考えられる

実は奇兵隊の強さの秘密は火力の強さではなく、火力の使い方が巧みだった点なのだ

実は金本位制は国際金融家たちが推進する制度で、通貨発行権をより強化できる仕組み。このあたりのカラクリは『洗脳経済150年の呪縛』(ビジネス社刊)を参照してほしいのだが、伊藤はその尖兵になってしまって

国際金融家たちのほうが権謀術数にかけては何枚も上。志士たちは自分たちの理想も夢もまるごと金融家たちに飲み込まれ、明治という新しい時代を迎えるのである。

維新で最も利益を得たのは戦争のスペシャリストである国際金融資本家たちであった。

明治になった途端、頻繁に戦争が起きるようになってしまう。

明治時代の戦争の火種はすべて朝鮮半島だったということ。前述したとおり、日清、日露の戦争のきっかけは半島であったし、西南戦争にしても、その遠因 は 征韓論 を巡って新政府内部が二分したためだ。

1866年英国公使ハリー・パークスが鹿児島を訪問したこの年、英国公使付き通訳官アーネスト・サトウは朝鮮語の勉強を始めていた。

使節団の団長、岩倉以下、木戸、大久保、伊藤、山口は基本的に征韓論には反対の立場。逆に留守政府を守る西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らは全員征韓論者ばかり。そんな状況下で2年も日本を留守にすれば政府内が征韓論に傾くのは至極当然であっただろうし、そんな結果になることぐらい木戸にしても大久保にしても容易に想像がついただろう。

何度もいうが明治政府には金がなかった。 ということはどこかの誰かが金を貸したのだ。 その誰かはなんらかのメリットが期待できると踏んだから彼らに融資したのだろ

薩長同盟の締結では縦横無尽に動いたように小説の中では描かれているが、死ぬまで脱藩浪士だった龍馬を薩長の西郷隆盛、木戸孝允がまともに相手にする理由などない。西郷、木戸が坂本と会ったのは彼のバックにトーマス・グラバーがいたからだ。 坂本はグラバーの名代でしかなく、グラバーと薩長のつなぎ役もしくは監視役といったものが主な仕事だったというのが本当のところだろう。

馬が殺された理由だが、最後の最後でグラバーを裏切ったためだ。 しかし、この裏切りは日本に内戦が勃発するのを阻止するためであり、龍馬の動きがあったからこそ、あのタイミングで土佐藩藩主 山内容堂 が 大政奉還 の建白書を出せたのだ。

徳川慶喜が大政奉還を行った慶応3年(1867年) 10 月 14 日、岩倉具視が画策したニセの討幕の密勅が薩長(薩摩には 13 日)にくだされていた。だから、

龍馬暗殺の真相は謎なのではなく、彼の裏切りの理由が新政府の禁忌に触れてしまうから謎にせざるをえなかっただけだったのだ。

日本人 の 99%が知らない戦後洗脳史』(ヒカルランド刊)でも書いたがアメリカの占領軍GHQは、占領中の約7年間に日本人に対する洗脳教育を徹底的に行っている。それがウォーギルトインフォメーションプログラム

ウォーギルトインフォメーションプログラムの効果だ。日本人は「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえつかない」ほど罪の意識を刷り込まれてしまっているのである。 そして、このプログラムを推進したと言われるのがGHQの民間情報教育局で、あまり知られていないが、NHKはこの民間情報教育局によって作られたのだ。

民放局日本テレビ放送網を作ったのは正力松太郎で、彼はアメリカCIAのエージェントだったことが公開されたアメリカの公文書によって判明している。

軍艦島で話題になった「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されたことも政権の意向が働いている。

世界遺産のノミネートが内閣府が担当したということ。

文化庁による推薦であったのが、今回だけ突如内閣府が産業革命遺産の保護に適用する法律を拡大して推薦していた。内閣府はなりふり構わず、明治を讃え、薩長を礼賛しようとしているのである。

坪井九右衛門だ。

栄作兄弟の曽祖父である元萩藩士、佐藤 信 寛 は長沼流兵学を修めた学者で、なんと吉田松陰に兵要禄を授けている。坪井九右衛門と違い、信寛は正義派のほうについており、維新後は浜田県権知事、島根県令を歴任している。

 

福岡で人に会うついでに「旅名人の九州満喫きっぷ」を使ってみる。

Day1 は 筑豊地区。

筑豊って 筑前と豊前 からだと思うけど

筑前ってどこ?

豊前は駅名に残るけど 筑前って

糸島・飯塚って福北ゆたか線あたりだね。

 

朝、予定より3分早い快速にのって
1本早いのぞみで小倉
小倉で切符調達。
日豊本線も1本早いのに乗れた。
 

行橋での乗り換えは改札内改札で迷いなし。
さすが国鉄路線。
 

金田駅のちかくで ランチ。

にゅうめん 食べた。

ホーム直結の歩道橋

改札なくホームなので

跨線橋と歩道橋が合体したような感じ。

 

赤駅から旧線跡のようなの 見えたけど廃線ではなかった。

 

筑豊電気鉄道は、なんで電化?複線だし。

と思ったけど戦後作られた路線なのね。


輸送密度は?まあまあありそうだったけど

令和4年度データでは 6.3千人キロ/日キロ、約6,300人/日 です。
西黒崎廃止

https://www.chikutetsu.co.jp/data/topics/408_20260528nishikurosakihaishi.pdf

7月31日ってなっているけど、もう営業してなかったし

看板もなかった。

 

その後、JR快速で1時間で博多。

 

空港線で天神へ

天神
可愛い人多いし、活気ある
七隈線で博多に戻る。

 


 

 

 

しらない情報が多く、面白かった。

調べるきっかけになった。

「大坂城主となった松平忠明」

大坂城主?

大坂藩というのがあったのか。豊臣秀頼と松平忠明でおわっている。

なるほど。

 

3つの分水嶺

本州(甲武信ヶ岳)と北海道(北海道大分水点)がのっていた

 

九州は?

英彦山?

四国は 3つは ないのかな?

 

名前を残すって すごく 大切にされてきたのだな。

 

 

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おもしろ雑学 日本地図のすごい読み方―――県境・地名・交通・歴史・ライバル対決…仰天ネタが満載 (知的生きかた文庫)

瀬戸内海の島のなかには岡山県と香川県の境界線が走る島
大槌島と井島(石島)

北山村の収入の糧、杉の木材を北山川と熊野川の流れに頼って熊野川町へと運搬していた。
ので和歌山に編入
北山村、人口減少傾向と高齢化
1947(昭和 22)年の約2600人が、2019(令和元)年では435人、65 歳以上の住民も半分近い。

下宮地区の人々は埼玉県加須市への編入を望んできた。2010(平成 22)年に合併の動きがあった

元湯「鹿の湯」を発見。
大丸温泉、北温泉、弁天温泉、高雄温泉、八幡温泉、三斗小屋温泉は「那須七湯」と形容される

銀座がある中央区、有楽町の千代田区、新橋の港区の3区が接する場所
川の中心線が境界線となるはずだが、すでに埋め立ててしまったため、かつての川の上に建つことになった商業施設が、どこの区に属するのかはっきりしなくなってしまった。

国道324号は、長崎市と熊本県 宇城市を結ぶ総延長137・6キロメートルの国道である。このうちアーケードになっているのは358メートルだ。

寛永寺と神田明神、増上寺が直線状に並ぶ
浅草の浅草寺と日枝神社も直線状になる

桜の名所である「墨堤」から「墨」の一文字を、「隅田川」から「田」の一文字を持ってきて「墨田区」と決定された。墨堤は現在、姿を消している。

雨竜町の「面白内川」。読み方は「おもしろない川」。アイヌ語で「中州のある川」を意味している。

第 15 代将軍の徳川慶喜が、「永成橋」と改名した。
戎橋の架け替えは1925(大正 14)年、2007(平成 19)年。

重隆が播磨に入る前に居住していたのが、 備前国(岡山県) 邑久郡の福岡村だった。
黒田家のルーツを忘れないようにと、黒田親子は城を福岡城と命名した。

関東では割ってすぐの生卵をそばにのせる。つゆを夜空に見立て、夜空に浮かぶ満月を楽しむような風情
関西風では、ゆでたそばに、卵を中央に落とし温かいつゆをかける。卵は白みがかった凝固状、「おぼろ月夜」の雰囲気を醸し出す。

駿河国の人たちは、神社に許諾を得たうえ、用水路を整備したのだから、芦ノ湖の水利権は自国にあり、箱根にはないという思い
芦ノ湖から箱根側に流れていた川に土俵を積んで 堰止めた。

1888(明治 21)年の年の瀬。内務大臣山県有朋が香川県の自治を認め 47 都道府県が整備され、香川県は全国のなかで最も新しい県となった。

埼玉、山梨、長野の3つの県境が接する 甲武信ヶ岳 を水源
千曲川、荒川、笛吹川(富士川)の分水嶺

日本三大岩場
剱岳、穂高岳、一ノ倉沢(谷川岳) 


新潟県では「阿賀野川」と呼ばれて、福島県では「阿賀川」になるケース
和歌山県では「紀の川」、奈良県では「吉野川」と呼ぶケース

459本の国道がある。
沖縄県糸満市から那覇市へと延びている 30 キロメートルほどの国道は「国道507号」である。

オホーツク海、太平洋、日本海の海に囲まれている北海道、3つの分水嶺がある
その3つが集まる頂点が、北海道大分水点
北見市(合併前は 留辺蘂町)、上川町、 上士幌町が交わる 大雪山国立公園三国山山頂付近。
日本海へと流れる石狩川、太平洋へと流れていく十勝川、オホーツク海へと流れていく 常呂川

日本で最も短い一級河川静岡県東部を流れる柿田川だ。全長1・2キロメートル

大坂城主となった松平忠明は、遊里を一か所に集めることを条件に遊里継続を認めた。それが「ニシ」のもととなった新町遊郭だったのである。

 

週末の予定が どう動くか

刻々と確認。

3日目はキャンセルするとして

2日目の予定はどうなるか

なんとか通常通りの感じのようだ。

 

夜は 焼肉いった。

かわらず おししい。

 

#イベント抽選結果

まじかー。おそるべし、幕張。

 

戻ってきたのだけど。なんか つかえるのか?2次応募か?

 

 

 

儲けすぎじゃない?

 

 

 

 

 

 

 

雷と豪雨で 大変そうな天気だった。

夕方、熊本で震度7の地震があった。

鉄道も高速も大きな被害があった模様。

 

週末予定していた

島原鉄道も肥薩おれんじ鉄道、熊本市電

どれも 危険そうだ。

急ぎ熊本へ行く人もいるだろうから

ホテルをキャンセルした。

 

#本日の辺野古

 

 

 

 

 

#野球

 

 

#日本の教育

 

 

 

 

 

月曜。

週末の予定が決まってきた。

夕方、買い物へ。

京都駅でしか売っていないものがあったので

京都駅へ。

 

京都駅

ポイ活難易度が 高い。

 

京都駅でしか売ってないものが売っているお店は

八条口。

このあたりは、JR東海のポイントのエリア。

 

もう一度外出するの面倒だったので

あわせて買いたかったものを探しに

近鉄のおみやげエリア。

買いたい商品の扱いがなかった。

西口に移動してJR西日本のおみやげ街道

ここにも 買いたい商品の扱いがない。

銘柄は 扱っているけどね。スペースの関係かな。

 

伊勢丹へ。

ここでは 扱っていた

ここのポイントは 三越伊勢丹アプリ。

 

帰りに ミスドを チェック。

烏丸口側で 商品をみて

八条口側で 購入。

ここは、楽天かdポイント。

 

楽天ポイントを ためた。

 

伊勢丹ではなく、大丸だったら 楽天ポイントたまったのだけど

外出回数を 調整したので

いかしかたなし。

Wester でもよかったけど、たまるショップでは 買い物できなかった。

烏丸口のミスドって たまったかしら?

 

ポイ活 なやましい。

 

こちらの影響うけた。

 

#野球

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#本日の辺野古

 

 

 

着々と動いていたのね。冷静にブログで課題を表現していて

味方も増えていることだろう。

 

#政治家

 

 

#乃木坂46