政治・人物・外交・暮らし・経済 の観点から日本史を見る


365章長かった
教科書を読んでいるようだった。
大正以降1945年までが詳しかった
この期間の章が多かった

昔から思うが、通訳ってどうやったの?
と思ったら 書いてあった。



1596年、土佐国に漂着したスペイン船の乗組員が、「スペインは宣教師を利用して領土を拡張しようとしている」と証言したサン=フェリペ号事件が起きた。これを知った秀吉は宣教師と信者26名を捕らえ、長崎で処刑している(二十六聖人殉教)。この事件により、秀吉ら支配者層はキリスト教への警戒心を強く持つこととなる。


朝廷と武家をつなぐ窓口となる武家伝奏 の役割も大きかった。武家伝奏は公家から2人選ばれる朝廷の役職だが、江戸時代には幕府寄りの行動を見せ、伝奏に就任する際に老中・京都所司代あてに起請文(誓約書)を提出したり、幕府から役料が支給されるようになったりした。
                

街道には関所が設けられ、通行人や荷物をチェックした。東海道には箱根と 新居、中山道には 碓氷 と木曽福島、甲州道中には 小仏、日光・奥州道中には 栗橋 に置かれ、ほかの街道もあわせ50数カ所あった。
                

大坂はまた、上方(京都や大坂といった畿内地方)で生産され江戸で消費されるいわゆる「下りもの」(品質の良いものが多く「下らない」=「品質が悪い」の語源になった)をのせて江戸へ向かう、 菱垣廻船 や 樽廻船 など 千石船 の出発地でもあり、水上交通の拠点として全国の物資の集散地となり、諸藩の蔵屋敷が多く置かれて「天下の台所」となった。
                

日本人漂流民を保護して日本語や文化を心得ていたロシアの女帝・エカテリーナ2世は東洋の日本に関心を持っていた。漂流民であった船頭・大黒屋光太夫(1751~1828)は、ロシアに来て10年がたとうというとき、女帝への謁見がかない帰国を許された。1792年に通商をもとめる使節・ラクスマン(1766~1796?)にともなわれて、帆船エカテリーナ号で根室に送還された。
                

岩倉使節団
他には、 金子堅太郎、 団琢磨、 中江兆民 らがおり、多彩な顔ぶれだった。
                

1949年2月、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが羽田空港に降り立った。来日会見で、ドッジは「日本経済は地に着いていない2本の竹馬に乗っているようなものだ」と述べた。両足の1本は政府の補助金、もう1本はアメリカの援助である。ドッジは九原則に基づく具体策(ドッジ・ライン)を第3次吉田茂内閣(1949年2月~1952年10月)に示し、赤字を許さない超均衡予算の編成、1ドル=360円の固定相場の導入、傾斜生産方式から集中生産方式への転換などを求めた。固定相場は、日本をドル経済圏に組み込むことがねらいだった。