おはようございます。

 

幾つに見える?という質問に

22歳くらいですか?って

見えもしないのに

めっちゃ若めに答えておいて

 

実は46歳でした、と言われて

マジすか!45歳くらいに見えてました。

と畳み掛けて、

場を微妙な空気にするよしけんです。

#空調は大切ですね

 

さて、今朝は。

年齢という符号について。

 

今年46歳になりました。

自分が15歳の時に、

本当にそんな時が来るのか

想像を絶したし

 

30歳の頃同僚に

「あんたはこのままの生き方なら

 35歳でこの世を去る」と

あやふやな予言をされて

それを間に受けてたら

本当に虫垂炎で死にかけるし

 

その35歳ごろには

大好きだった会社の中に、

目標となるキャリアプランを

見つけることが出来なくなって

足元がぐらついたことを

今もリアルに覚えているし

 

今は、年齢というものって、

ちゃんと数えておいて良かったな

と思う上に、

 

数字が見えるからこそ

残酷なもんだな、と思ってしまいます。

 

1年を365日に、1日を24時間に

1時間を60分に、と細かく切り分け

管理しやすくしてくれている現代社会の

恩恵の一つが、この年齢であり

 

人生のペースメーカーを

誰もが簡単に

当たり前に持てていることを

もっと感謝してもいい。

 

年齢なんて、ただの数字、

そこに縛られる意味はない。

 

思い立ったが吉日、

いつでも

今日が一番若い。

 

そういった話を聞くたびに

そうだそうだ!と思う自分と

 

だからこそ、年齢って大切だ

と思う自分が共存していて

 

不惑の40から、

致命の50に向けて、

ちゃんと生きてるのかな、と

自問することは、今日も明日も

忘れることはありません。

 

だから、かもしれませんが。

 

「年相応」というフレーズは

実は結構大切で重要な尺度だと

思っているのです。

 

若いのに、〇〇といった

説教じみたことではなくて

 

今の、46歳の、僕にとって

何が本当に必要で

何が本当に相応しいか

 

この尺度をぶらしたらダメだと

マジで思っているんです。

 

わか鶏と、ひね鶏では

利点が全く違うじゃないですか。

 

採れたてのきゅうりと

漬物のきゅうりを

 

多くの人は、

同じ評価軸では比べないはずです。

 

10代には10代の

40代には40代の

 

その年代相応の良さと足りなさが

混在する、わけなのです。

 

そして、年相応というのは、

この年齢という符号が積み重ねれば

 

積み重ねるほどに

非常に難しくなっていきます。

 

僕が、10代の真似事をすると

たちまちに「痛々しい」ことになる。

 

同じようなトレーニングを

積んでいたとしても、

 

もう、彼らに敵うことは、絶対にない。

(そもそもトレーニングしてない)

 

ただ、40年来の知恵と

言語化に向き合った時間、

経験を積んだ歴史という意味では

彼らも簡単には追い付けない。

(たまに抜かされるけど笑)

 

ただ、面白いことに、

僕が並べた強みというのは

年齢とは比例しない、ことが多い。

 

20代までにかけたリソースの多さで

30代以後の能力差が出てくるように

 

30代の挑戦の量質で

40代の人脈と強度が変わるように

 

そして、40代の責任と本気で

50代の運命が変わるように、

 

年齢という符号の裏側には

こんな残酷なストーリーが

隠されているのです。

 

そんな歳でみっともない。

そんなことを言ってくれる人は

40を過ぎるとまず現れません。

 

だからこそ審美眼を自分で持ち続け、

真摯に日々研鑽する、他にないのです。

 

連続した日常の中で

昨日も今日も同じことをして

明日も同じことをするだろうな、と

生きる人生も、いいでしょう。

 

ただ、その間にも

年齢というカウンターは進み

年相応の基準は変わっていきます。

 

サイズアウトする洋服のように

ある日いつの間にか、

「らしく」無くなる。

 

そういった大人を目にする度に

年齢という符号の残酷さが

身に染みるのでした。