お賽銭は、白、黒、穴とご準備ください。
二拍ニ礼して、お祈りです。
住所まで言って、願ってください。
そしたら、あなたの願いを
叶えてくれやすくなるそうですよ。
宝くじを買って帰りましょう。
とある旅の途中で、
バスガイドが話す内容を聞きながら
日本の神社に祀られている神様って、
なんて了見の狭いものなんだ
と、辟易とした。
僕はお参りという行為が
あまり好きでは無い。
というより、感心興味がない。
非科学的だからとか、
そんな陳腐な話では無い。
単純に軽薄だなぁと思うからだ。
そもそも、だ。
神様は忙しいはずだ。
国や宗派によっては呼び名が違う彼は
数十億人の人間のみならず
生きとし生けるもの全てのものを
見守っては、
良い行いをしたものには褒賞を
悪い行いをしたものには懲罰を
と、全て判断していくなんて
それこそ人智を超えた多忙さだろう。
絶対的な存在である神様は、
きっと1人じゃ仕事は回せないから、
自分により近い人を
神様代行だったり、神様っぽい人に
仕立て上げて、配置していったに違いない。
その代行者が
個人事業主から、商店
商店から、会社へと
スケールして行く途中で、
ある日気づくわけだ。
あれ?これって、
もう少し自分に有利な条件にしたら
利益率が上がるんじゃね?と。
だから、お賽銭の下限額を
それなりの理由、理屈で
流布して定着させたり
QRコードで支払いを
できるようにしたりする。
もう、白黒穴すら関係ない。
そんなことを考えてたら
昔よく聞いていた歌の一節を
ふと思い出した。
==
僕は見たことがないんだ
あちらこちらの絵画で見るんだ
さらに話に聞いてる神様は
どれもこれも人のカタチなんだ
偶然の一致か運命の合致
はたまた自分勝手スケッチ
あっちこっちそっちてどっち
一体どうなってるんダビンチ
===
人が人として生きていくために
何かをもとに統率を図ることが
重要であったことは
歴史を少し学べば容易に予想がつく。
拠り所がないと生きていけないほど
人が生きるのは難しいのだ。
またお天道様が見ている、
という考え方は
自分を戒めるために
効果は大きいと思うし
否定されつつある現代社会は
あまり好ましくはない。
ただ、時にその神仏信仰というのは
ある種の滑稽さを滲ませる。
人という生き物は
どうあるべきなのだろう。
どう生きるべきなのだろう。
正義とはなんだろう。
富や名声とはなんだろう。
何が幸せなのだろう。
そして、なぜ、
賽銭を投げる必要が
あるのだろう。
神様や仏様の存在について
とやかくいう立場に
僕はないし、
仏画を描く友達の絵は
それはそれは素晴らしく
いつも心が洗われるようだし
歴史的な建造物である
東寺や仁和寺、
三十三間堂を見ると、
その重厚さにいつも
圧巻するくらいに、
歴史に対して尊敬はする。
ただ、金を投げたら
願いが叶う、という
ビジネスモデルは
全くもって納得いかない。
賽銭箱泥棒を捕まるために
訴える宮司という構図は
非常にシニカルだと思うのは
僕の了見が
間違っているのだろうか。
