喉を焼く、という歌を最近知った。

 

都市圏での通勤時間帯で起きた

凄惨な事故と、

 

その事故の原因を見ようともせず

目の前の結果だけに

腹を立てる大衆心理

 

そして、そこには

何度も何度も助けてほしいと

祈った人が

 

吐き出せなくとも

吐き出せなかった言葉が

 

喉を焼いたことが

切々と歌い上げられていた。

 

撤退というのは難しい。

元来、生き物の大多数は

後ろに進むように

設計されていないからか

 

後ろを向いて逃げ出す

というのは、

 

追っかけてくる脅威から

目を逸らす状態を

自分で作ることになり

 

そこに一抹の不安を

抱えてしまうのではないか

 

そのDNAの記憶が、

逃げ出すことを暗に拒否するのでは

なかろうか、とさえ思ってしまう。

 

自分から見たら

些細な事だと思う事も

 

その人からすると

一大事だった、という事を

学びながら人は成長していく。

 

自分が普通。自分が基準。

そう思って生きた結果、

 

集団生活で新たな

いささか滑稽な

スタンダードを植え付けられ

 

自分の普通や基準を

少しずつ否定されていく。

 

人が生まれた時に

持ち合わせた光は

仮に皆同じだったとしても

 

その人生の過程において

自分を磨くことを教えられた人種と

徹底的に汚された人種が

 

違った光と闇を抱えて

狭い教室に押し込まれ

同じ内容の話を一方的に聞く。

 

人生の実に7割の時間を

そこに割く日々を過ごし、

 

そこでの基準に身を任せた方が

楽だと気づき、

 

自分とは何か、他人とは何かを

考えるのもバカらしくなる。

 

この世の全てが

あの狭い薄汚れた古い教室に

存在するように錯覚し、

 

そこから抜け出すことを

勇気ある撤退を

考えることすら放棄する。

 

人間は過去から、

ベネフィットとリスクを

天秤にかけて生きてきている。

 

どこかの国の山奥に

瑣末な設備で隣の山に

滑り降りて通学する

子供達が存在した。

 

一瞬先は闇、死と常に

隣り合わせ。

 

しかし、利便性は極めて高く

自分に死神が睨まれることを

知る由もない。

 

光が当たると影が濃くなるように

利便性と危険性は常に隣り合わせ。

 

トレーニングの語源が

トレインだと、知った時に

なるほどそうかと思った反面、

 

そこにモラルがないのなら

トレインすらも危険だと感じた。

 

そのレールの上を

限りなく効率的に進むのが

トレインの使命である以上、

 

仕様想定外の出来事が起きると

対処の使用がないのだ。

 

その思い切りの良さが

時に仇となり

 

他人の時間を守る使命を

いいように利用して

 

自分のこれからを

断ち切ろうとする人がいる。

 

人は悲しいかな

飛び込むそれすら

前のめりでしかない。

 

だから、どうか知ってほしい。

一目散に逃げたとしても

その相手が追ってこない事を。

 

追っかけてくるのは

その人にとっての影であり

 

その影とこれからも

一緒に生活していくことを。

 

そして、誰しもが

仄暗く目を当てたくない影を

内包して背中に背負って

生きていることを。

 

あなただけが弱いわけじゃない

自分だけが正しいわけじゃない。

 

だから、逃げてほしい。

精一杯逃げてほしい。

 

捨てる神あれば

拾う神あり、と昔から言う。

 

目的地に早く着くために

作られた乗り物は

 

あなたの生きたい先に

連れて行くものであり

 

逝きたい気持ちを

叶えるものではないのだから。