おはようございます。
実家ってこんなにも
快適なんだと
改めて感じている
よしけんです。
その快適さにかまけて
ブログのアップ時間が遅くなったことを
まずここにお詫びします。
さて、今朝は。
枠組みについて。
昨日、長男の卒業式に
出席しました。
コロナ対策もあり、
プログラムも少なめに
設計されていたようでした。
そんな中
生徒代表の答辞が
心を揺さぶられる素敵な文書で。
コロナの影響で、
やりたいことが出来なかった2年間が
いかに自分たちを苦しめたのか。
そしてそんな中でも工夫して
いかに青春を謳歌したのか。
涙混じりに訥々と、
確実に一つ一つの言葉を伝える
その様子が
胸に迫るものがありました。
学生の自分達は
お金を稼ぎ、育ててくれる
という意味を
十分に理解できていない。
答辞の終盤には、親への有り難みを
そんな言葉が並びます。
進学校ではあるものの
高校を卒業して、すぐに働く人も
確かに一定数存在していて
学生というモラトリアムな時間の終焉が
どういう意味なのか
卒業というのは、
どんな意味なのか。
最後までより丁寧に伝え
丁寧に読み終えました。
優秀な彼女が残した有終の美。
高校生のリアルが
とても素晴らしかったです。
そんな素敵な答辞を聞きながら、
改めてこんな事を考えます。
社会に出るというのは
何者でもない自分になる、
という事です。
学生という束縛は窮屈なのですが、
その人たちを表すためには
とても便利なものなのです。
これまで6・3・3と
勝手に与えられた称号の中で
生きてきた毎日は、
図らずしもその人々にとって
『自分は何者なのか』という
根本的な問いと
向き合わせにくい環境でもあります。
学生、という枠があるから
自由という権利がわかりやすいわけで
その枠を解き放たれると
自由の定義がたちまちに
わからなくなってしまいます。
自己研鑽の進学にせよ
就職して社会に飛び出すにせよ
今までの比べ物にならない
自由な環境に
学生という枠の中に居た時と比べ
喜びつつも戸惑うことでしょう。
自由とは、束縛や抑制があるから
見つけやすい。
ただ、3/31を過ぎた時点で
その枠は自動的に外されて
全てのことが自己責任に
帰結する人生が待っています。
卒業はおめでたい。
ただしかし、それはゴールでは無く
いわばプールから
大海原に解き放たれた
瞬間でもあるわけで。
ここからは自分のコンパスで
進む方向を決めて
自分のオールで
漕いでいく事を求められます。
そう考えると、彼女の流した
大粒の涙の意味は少し変わってくる。
数百人の子供たちの
何人がそんな事実に気づいているのかな
そんな事を考えつつ
雨音に包まれる体育館で
震える彼女の背中を
ぽんやりと眺めていた
よしけんでした。
モラトリアムの終焉は
美しくも残酷で
とても素敵でした。
