台風一過、雨上がりの空。薄い青と濃い青のグラデーションが素晴らしく、空の高さや地球の広さを改めて感じられる。空を見上げて歩く。心の中まで晴れ渡るような気がする。坂道を下り、平坦な道に入るところで、『パシャン』という足音が。雨上がりにはそこらじゅうにできる自然のトラップ水たまりに思いっきりハマった瞬間だった。靴下に染み込んでくる嫌な感じを抱えつつ、さっきまでの青空のような気持ちに、素早く暗雲が立ち込める。今日一日こんな状態で過ごさなきゃいけないのか、と深くため息をつく。どんな時でも、見上げた後に見るべきは足元だなぁと改めて感じる。もしくは、その手前で『危ない!』と止めてくれる後輩でもいたらなぁと、ぼんやり考えながら、ズレたリュックを背負い直して、とぼとぼと僕は歩き出す。

---おにぎ---

危ない?何がよ?お前の思想か?とつい聞きたくなる衝動を抑えつつ、俺はもう何が起こってもどーんと行こうや、という気になっていた。彼の心をこの世に表すその部屋には、そりゃ多少の危なさはつきものだろう、そうだろう。と納得しつつ、で、何が危ないのだろうと訝しがる。振り返りながら、Tに声をかける。

『多少のことでは驚かへんよ、こんな状態なんやから。何があるん?』
優しい声色を想いのままに使えるもんだなぁと自分自身に感心しつつ、Tの返答を待つ。言い淀むTと、いや、なんでもいいよ。何でもするよ。と半ば投げやりな俺は対峙する。

『そこから先は虫が湧いてます』

へぇ、虫ねぇ。そりゃこんな状況だから多少はあるでしょうねぇ。いや、虫?どういう事?俺無茶苦茶虫嫌いやねんけど!?カブトムシだろうがクワガタだろうがバッタだろうが、すべて大嫌いなんだから。まさかG?それはマジ勘弁してくれよ。一瞬フリーズした俺の傍を素早く抜けて、朝7時から晩の11時まで営業してるのが当初の売りだったコンビニからもらってきただろう白い袋を手に取り、その口を固く結んだ。なぜそんなに機敏に動けるのなら、日頃からやっておかないのか。そんな質問は彼にとっては何の役にも立ちやしない。

正確に聴くと、虫が湧いて、その虫すら死んでしまってるそのビニール袋。中にあったのは形が変形した海苔巻きおむすびが入ってたようだ。一つの生命の源が、新たな生命にリレーされ、そして、そこでそのバトンが途切れる。さながら連鎖の鎖を断ち切った世界を、軽々しく片手に持ち捨てるTはさながら破壊神のような、邪神のような様相だ。命を弄ぶとはこういうことをいうのだろう。生産農家さん、虫さん、ごめんなさい。Tの後ろ姿を睨みつつ、ありったけの感謝の気持ちを心の中で叫んだ。せめてもの罪滅ぼしのつもりで。そして、こういう『自分の日常では出会わない』ものが出てくると、いよいよ本格的な掃除のような、ライフハックのような気がしてくる。どこぞのラーメン屋みたく首にかけたタオルを頭に巻く。いらっしゃいませ、野菜マシマシで、ニンニク入れますか?

気がつくと正午を過ぎていた。床の掃除は驚くほど捗り、立派な板間が火の芽を浴びて輝いていた。それもそうだ。今まで隠されていたんだもの、日焼けなんてするわけないか。箱入りだもんな。そんな事を考えながら、部屋の隅に目をやると、明らかにゴミではなく、さながら誰かへのプレゼントらしきものが、古いフランス人形のようにちょこんと鎮座してるのに気付いた。何もかもがぐちゃぐちゃだったこの部屋で出会った唯一の可憐な物体。俄然興味が湧く。

『なぁ、T、これなんだ?もしかして彼女からのプレゼントじゃないのか?』

当時、Tは彼に勝るとも劣らない個性的な彼女とお付き合いしていた。Tがその子の事を通称呼び名で呼んでいた。あだ名は『パーシー』機関車に顔が有りますでお馴染みの、トップハム・ハット卿の愉快な仲間の一人だ。丸顔だからという理由らしいが、そういう非凡なネーミングセンスに当時から俺はTの才能を感じていた。そのパーシーは今で言う『ガチのメンヘラ』だった。まさに北摂地区でメンヘラ界のゴジラ対キングギドラのようなカップルだったのだ。その紙袋を見て、Tはハッとする。

『ここにあったんですか…』

まるで初めて赤ん坊を抱く父親のように、その紙袋をそっと両手で受け取り、慈愛を込めた瞳でそれを眺めている。扉側からの逆光と相まって、とても神々しい。破壊神改めて女神のような雰囲気すら纏っている。あぁそうか。もらったものすら埋もれてしまい、彼女に申し訳なかったんだなぁ。散らかしたのは自分だけど、どうにも出来なかった現実。無くした贈り物。彼は幾重にこの部屋で自分を傷つけていたんだなぁ。良かったね見つかって。そんな戦地の中の些細な幸せを見つめる俺は、次の言葉で現実に引き戻された。

『これ、先日の送別会で送る予定の記念品だったんですよ。M主任から渡すの頼まれてましてね』


おい!

そうだわ、この前期間満了で派遣社員が退社したけど、その人に渡す予定のものかよ!しかもM主任ってお前の元上司でガチ怖い先輩やんけ!それ無くすの?それ渡してないの?マジかよ!すげーな、お前すげー胆力だな!8周回って尊敬するわ!どやさどやさ!きーー!

関西人に負けないようにと日々鍛錬しているツッコミ力を駆使しても、多分こいつには敵わない。秀才は所詮天才には勝てない。エピソードトークの宝庫だな!カミナリばりのツッコミで、この日初めて彼を小突いた。暴力はいけない。これは可愛がりである。そしてそんな言い訳をしている時間はない。まだ、部屋は1/3しか片付いてないのだから。


ドラマなんかでよく見る殺人現場のモチーフ、白いチョーク的なもので人型を描いて、1番だの2番だのパネルを立てて鑑識が写真を撮るあの場面のように、部屋の真ん中に、人型に物が積まれていない場所がある。どうやらこれがTの寝床らしい。この寝床の掃除が、またとても興味深い結果となることを、この時俺は知りもしなかった。

第5話へ続く→