シサコショウって聞いたことあるかい?もう直ぐ壊れますよ、買い替えないとダメですよ。って事だって?そりゃお前、故障を示唆してるだけだな。指差呼称って書くんだよ。指差し確認って奴。駅員さんや電車の運転手さん、車掌さんがやってるところを見たことがない?『よーし』という時の真剣な目と声の響きは、何かその文化的なものを含んでるように思うよね。

そんな話を大阪の中心をグルグルまわる電車の中で、少し煤けたジャケットを羽織った前歯が2本だけあるおじさんが、そのおじさんには見えてるであろう誰かに向かって話してたのを聞いて、中々面白い事を言うなぁと目的地に着くまでの間耳だけをそちらの方に向けていた事がある。人生ってのは本当に誰から学ぶかわからない。信号よーし。運転室の中で指を指しつつ、誰に言うわけでもなく発しては、空気中に溶けていくその熱意に、文化的な趣を感じながら、小気味良い線路のリズムに揺られていたあの日。僕にとってまだまだ他人事だった指差し確認。

『発進よし』

と無機質に言うロボットTの合図で記憶が現代に繋がる。まさか、自分たちがその指差呼称をやる側になるなんて夢にも思わなかった。安全レベルを引き上げるために取り入れられたこの指差し確認は、いつの間にか社用車に乗る時は必ず行わないといけないルールになった。当時としては珍しく、ドライブレコーダーも積んでいた。万一の際に、ドライバーの俺たちが、『指差確認出来ているか』を確認するために。さすが情報化社会、素晴らしい管理徹底ぶりだ。そして、一つだけ言える。この指差し確認にそんなに文化的なものは含まれてない。おじさんにはすっかり騙された。

地下鉄

辞世の句のような趣のある発進確認の合図。ゆっくりと動き出す軽自動車。大の男が二人で乗るにははっきり言って狭苦しいが、運転技能に不安のあるTを思うと、この車以外は乗らせる訳にはいかない。助手席の窓を少し開ける。外の音を聞くためと、この重い空気を逃すためだ。

T、まずは左に出よう。そう声をかける。わかりました。『左!巻き込み!よし!』必殺技でも繰り出すのかという音量とアクセント。それと同時に忙しなく動き出すワイパー。この時点で気づけば良かったんだよな。俺も見通しが甘い。昔、中古のワーゲンに乗った少し年上のお姉さんと付き合ってた時に、『外車はウインカーとワイパーを動かすレバーが逆になってるんだよ』ということと、そのご自慢のドイツ車と一緒にチェックインするときには暖簾のようなとこから入るんだ、という事を教えてもらった記憶から、あぁきっとTの家の車は外車なんだろうな。と早合点してしまった。乗るならボルボだろう。事故しても車体が強いんだから。そんなことを思いながら軽自動車は法定速度で進んでいく。季節は昼間でも長袖で心地よい時期。走り出して物の数分で、既にTの額に玉のように光るモノを見逃していた俺の見通しは、今流行りのダルゴナコーヒーよりも甘っちょろかった。

車

事務所を背に左に曲がり、初めの交差点で左。次の信号を越えて、その次の信号でまた左。その二つ先の信号でさらに左に曲がる。安全第一を鑑みて、事務所からの右折での進行は禁止されている。なので、南北に走る国道を北に向かう時には必ず左に折れるのがルールになっている。『信号、良しっ!』『信号、注意っ!良し!』隣のドライバーは相変わらず沢山の雑魚キャラと向かい合うスーパー戦隊の様に、必殺技を繰り出しながら進んでいた。ここまではそう悪くない。いけるいける。少し安心した俺は、今日のトラブル先の資料でも目を通そうと鞄から資料を引っ張り出した。『T、次の信号右折、よろしくね』と声をかける。その直後流れる不穏な空気。ん、なんだ?ふと運転席のTに目をやる。開いた口、曇るメガネの奥には、点になった目、朦朧とした表情。とうやら、彼は右折がこの上なく苦手なようだ。いや、右折が苦手で何??心の中で見取り図のツッコミばりに声を張る。Tの思考は相当右に寄ってるのに、なんて奴だ。

車

『……っす』不意に口を開く、いや開きっぱなしの口から何かが漏れるT。『どうした?』と聞くと、『む、無理っす』と帰ってくる。いやいや、右折レーンに入った後にそれ言われても。いやいやいや、右折無理って何?どんな教え?とにかく落ち着け、落ち着け、T。そして、俺。『ゆっくり曲がれば大丈夫だから』そう言って右折の順番を待つ。片側1車線の道路から二車線の国道への右折。Tのシャツの襟ぐりは汗に塗れ、さらに深いブルーに変わっている。『この車が過ぎたらいこか』と俺が声をかける。そろりそろりと右折していく車。不意に対向車が、黄色信号で突っ込んでくる!危ない!!俺はとっさにブレーキペダルを踏むが、そこにはペダルがない!なぜ!?そう、助手席だから!!!!!

『キュウブレーキヲサッチシマシタ』

ドライブレコーダーなのか、Tが発したのかわからない機械的な音声とともに、間一髪のタイミングで止まることが出来た。変わる信号。二人の乗った軽自動車は、交差点に取り残される。立ち往生。交差点を避けるべく、一車線潰れた国道にミニ渋滞が発生する。その先頭は、中途半端な位置に止まった軽自動車。事故にならずによかった。と言う安堵よりも、ここで止まったの?という驚きの方が勝り、えええ、おいおい、どうするんだよ。俺は嘆く。サングラスのように曇るTのメガネ。その横顔は、よく見ると鈴木雅之に似ている。

ほんの数分の待ち時間なのに、何時間にも感じられ、信号が変わったと同時に、速やかに左車線に移動する。ミニ渋滞を引き起こした犯人は、素知らぬ顔で車を進めていく。他のドライバーさん、すみません。でも今は、僕の命を案じて下さい。

ノロノロと北上し始めた軽自動車とは対照的に、俺の鼓動はドッドッドッと早く打ち続けていた。目的地まであと数キロ。左手で掴む助手席の取っ手が軋む。このままどうか無事に着いてくれ、神様仏様、頼んます。。

そんなはかない願いは、次の瞬間脆くも崩れ去るのだった。