牧師室から
『彼女を記念して』
マルコの福音書14章1節〜9節
小泉智牧師
主は重い皮膚病を患う病人の家で食卓を囲まれます。これが主イエスの地上での最後の日々の一コマです。主は地上の歩みの最初から最後まで社会が見捨てた者とともにおられたいと望まれます。主イエスだけは私たちを見放しも見捨てもされません。
それどころか主は愛する者に全てを捧げようとされます。女性が高額なナルドの香油を惜しげなく全て主に注ぐのも主の自分への愛に感動してです。1年分の給与に匹敵する香油です。無駄な浪費と言うなら、その通りです。しかし主への愛は損得勘定の計算も超えてしまうものです。
実際、福音のために無数の人が無駄とも思える働きに身を粉にしてきました。ひとりの人の救いにどれほどの人が犠牲を惜しまなかったことでしょう。費用対効果で割り切るならこれほどコスパの悪い話はない。その愚直な行動の動機は自分にとって福音がどれほど価値を持つかに深く突き動かされてとしか言えません。
主のためにすることなら良いことなのです。主のために精一杯をなすことこそ良いことです。それは彼女の意図さえ離れて主の受難の葬りの備えの記念となる。実際、香油の香りは裁判の席にもピラトの前でも十字架に向かう道でも香り続けます。主のためになすことは、どれほど拙く、小さなわざであろうとも本人の預かり知らないところまで大きく用いられるのです。
問題は主のために何をなすのかではありません。主の愛と恵みが自分の人生にどれほどの比重を占めるかです。福音の値打ちに気づく者は自分自身を主にお捧げすることも惜しまない。受難週です。十字架の値打ちに思いを向けるとき、彼女のような献身は次々起こされるのですから。
〜みことばの黙想と適用〜
今日の礼拝メッセージを通して福音の価値について考えさせられました。この女性は高額なナルドの香油を惜しげもなく、すべて主に注ぎました。それほどこの女性にとって主への愛は損得勘定を超えてしまうほど絶大なものだったのです。その動機は、ただただ主を愛するがゆえの愚直な行動だったのです。それは、まず先に主がこの女性を愛されたその自分への深い愛を知りその感動に突き動かされての行動としか言いようがありません。福音が自分にとってどれほどの価値があるかによって、その人の行動が決まってくるのです。ただただ主のために、主を愛するがゆえに・・・なのです。人間的に見れば愚かに見えるかも知れません。しかし、信じる者にとっては、いえ、その主の深い愛を知った者にとっては、福音は損得勘定を超えてしまうほどのすごい力を持っているのです。実際、福音のために無数の人が一見無駄とも思える働きに身を粉にしてきました。その原動力は、やはりこの女性と同じ主への愛だと思います。主の愛と恵みが自分の人生にどれほどの比重を占めるか?なのです。主の十字架の贖いの価値に今一度思いを向けたいと思います。主のために何をなすのか?ではなく、主が私のために何をしてくださったのか?もっともっと主の愛と恵みを深く知りたいと強く思わされました。そこから彼女のような献身が生まれて来るのですから!
ハレルヤ❣️
主よ、感謝します🙏✨✝️