すBGM:Survivor『Eye Of The Tiger』
昨年の『アントニオ猪木をさがして』、現在公開中の『無理しない ケガしない 明日も仕事! 新根室プロレス物語』に続き4月5日よりプロレスを題材とした作品『アイアンクロー/原題:THE IRON CLAW』が全国ロードショー封切りとなる。12月22日より北米2774館で公開されるや3日間で505万ドル(約7億4200万円)のゲートをはじき出し、初登場で興行ランキング6位に。観客の満足度も96%と高評価された実績を引っさげて“来日”を果たす。
熱心なプロレスファンでなくともアイアンクロー(鉄の爪)がフリッツ・フォン・エリック、あるいはその家族を表す技名であるのは知っているだろう。この一家の歴史については、日本人が想像する以上にアメリカ国民の中へ深く刻まれた80年代の出来事なのだと、前述した数字を見るにつけ推測できる。
スポーツエンターテインメントとして、カルチャーとして身近にあるPRO-WRESTLINGは、アメリカの時代性や空気感とともに記憶の中へとアーカイブされる。本作の中で描かれるプロレスという魔物に憑りつかれたエリックファミリーの悲劇は、夢と成功を求める自分たちの人生と遠く離れたところで起こった“ニュース”とは認識されていないはずだ。
本作の監督・脚本を務めたショーン・ダーキンはカナダ出身ながら1980年末から1990年初頭の幼少時代をイギリスで過ごし、そのタイミングでWWF(現WWE)を入り口にプロレスなる沼へハマったという。同じ英語圏でありながらアメリカとは違った文化と環境にありながらどんどん浸かっていき、気がつけば“エリックランド”と称されたテキサスの団体・WCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング=のちにWWFのライバルとなるWCWとは別のプロモーション)の虜になっていた。
ビデオを入手するのも困難な時代、ダーキンは数ヵ月遅れで書店に並ぶアメリカの専門誌「プロレスリング・イラストレーテッド」をむさぶるように読んでは写真一枚からパンパンに想像を膨らませていた。ある日、中華料理屋で食事をしながら最初のページを開くと、そこには「ケリー・フォン・エリック死去」とあった。
1981年よりダラスのローカル局がスタートさせたケーブルテレビ放送番組「ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング」が録画されたビデオテープでテキサスの試合を見ていたダーキンは、ファミリーの大ファンだった。ショックと哀しみは深く、またそれがエリック一家探求の旅のはじまりとなる。子どもの頃に強く深く刻み込まれたアメリカ・テキサスの日常感と匂いは、やがて映像記録メディアやネットの発達によってより具現化され、脳内で育まれていった。
ダラスと7648kmも離れたロンドンに住んでいたダーキンが、あの頃のアメリカを忠実に描いているのは、このような原体験があったから。プロレス名門一家の史実に基づく、ドキュメンタリーに近いドラマというだけでなく、スクリーンに広がる情景によってファン以外もまず物語へ引き込まれるに違いない。
こうした監督自身の経歴を書き連ねると登場するプロレスラーたちの再現度の高さや、ダラスのプロレスのメッカ・スポータトリアム(映画字幕ではスポルタトリアム)が現代に蘇ったかのようなセット、ホンモノと見間違えるようなNWA世界ヘビー級のベルトといったマニアを唸らせるディテールも当然となる。中でもハーリー・レイスとリック・フレアーは“わかっていなければこうはならない”クオリティー。個人的にレイスが映画に登場するならジョン・C・ライリーしかいないと思っていたが、ほかにもハマリ役がいたのは衝撃だった。
だが、ダーキンが伝えようとしたのはそうした自身のマニア気質やプオタとしてのこだわりを満たすためのものではなかったことも、ストーリーを追ううちに伝わるはず。それらの列記したものは、すべてエリックファミリーを描く上で礼を尽くすためのパーツにすぎない。
物語はアイアンクローの元祖・フリッツの息子であり、デビッド、ケリー、マイクの兄であるケビンを主人公として紡がれていく。1959年、ケビンがまだ幼かった時に長男のジャック・アドキッセンJr(ジャック・アドキッセンはフリッツの本名)が雨の日に誤って高圧電流に触れ、6歳で感電死。
そのことから、ケビンは大好きな弟たちのために長男のポジションを全うするのがアイデンティティーとなる。父に顔つきも気性も似ていた一つ下の弟・デビッドと比べると穏やかで堅実な性格、何よりもファミリー全体を考える姿勢が宿命づけられていた。
これまで「呪われた一家」として世界中で何度となくドキュメンタリー化されたが、それらは悲劇的な描かれ方だった。真実とされるものを忠実になぞれば、当然そうなる。
そうした中、ダーキンが映画の手法によるドラマ仕立てでエリック一家を伝えようとしたのは、真実に基づいた物語とすることでそこへ“救い”を描けると思ったからではないか。それが一家の中で唯一人存命するケビンと自身の間合いであり、子どもの頃に多くのポジティブな感情を与えてくれたエリックファミリーへの情愛によるものと思えてならない。
どのような映画にしたいかが固まるまでダーキンはケビンとコンタクトをとらず、自分の中で方向性が決まったタイミングに連絡をしたというから、その点に関しては最初から最後までブレなかったはず。デビッドの来日中の急死、マイクの服毒自殺、ケリーのピストル自殺と、史実に基づくだけにストーリーが進むごと華やかさや栄光(ケリーのNWA世界ヘビー級王座奪取)との対比が凄まじすぎて重く突き刺さる。
事実としては映画に登場しない六男のクリスも自ら命を絶っているが、そこは描かれていない。作品としての尺の問題もあっただろうが、ダーキンの中で心のブレーキが働いた部分もあるだろう。
独り残されたケビン――そこで終わっていたら、これまでのドキュメンタリーとさほど変わらない。ファミリーとしての悲劇を題材としながら、ダーキンが“救い”を託したのは…家族だった。
愛する兄弟を次々と失ったケビンには妻と2人の息子がいた。これも史実的な話だが彼らはやがてロス・フォン・エリック(長男)&マーシャル・フォン・エリック(次男)としてプロレスラーの道を歩み始める。
叔父の悲劇を知っているにもかかわらず同じ道を選択した彼らも、想像を絶する葛藤を超えてきたと思われる。それを頭の片隅に置いて本作を見ていただければ、また受け取り方が違ってくるはずだ。
リアルをそのまま描いていたら、悲劇のままだった。そこにダーキンは映画ならではのリアリティーを持ち込んだ。事実とは違う時系列、記録に残っていないエピソードによる脚色はドキュメンタリーとかけ離れるが、大きな問題ではない。
リアルとリアリティーはよく混同されるが、リアルをより際立たせるのがリアリティーの正しい用い方である。それを誤ると、事実をスポイルしてしまう。
そして、誤ることなく用いれるかどうかのカギは、対象への愛だ。ロンドンの自宅で、本屋でダーキンはエリック一家によってたくさんの夢とLOVEをもらった。
制作に関わったスタッフや出演者たちにもそれが伝わったから、ここまで作品とファミリーに対する愛に満ちた仕上がりとなったのだろう。クルーの面々はスポータトリアム(2003年に解体されたので跡地)だけでなく家族が実際に暮らした農場など、ケビンたちの息遣いが残る地をロケーションしたという。
また、出演者たちも監督からリクエストされるまでもなく肉体改造に励み、元WWEスーパースター、チャボ・ゲレロJrの指導のもと技を受けまくり、バンプをとった。中でもケビン役の俳優、ザック・エフロンは「過酷なトレーニングと食事制限は辛かったけれど、それによってケビンとは何者なのかという深い洞察につながった。彼が自身の運動能力やプロレス、肉体に捧げようとしたものや、完ぺきを求める姿勢が見えてきたんだ」と語る。
役を全うしようとする姿勢によって、その人生の一端を疑似体験し、より自身をケビンへ近づけていった。それが、スクリーンの中で躍動するケビン・フォン・エリックとなって表れたのだ。
自身もザ・シーク役として登場するチャボは、通常の試合とは違い何テイクも撮る必要がある映画ならではのファイトシーンの過酷さを知った。そこまで俳優たちが没入したからこそ、スポータトリアムにおける毎週金曜夜の定期戦の熱狂ぶり(4500人のキャパシティーが常にフルハウス)を再現させるに至った。
プロレスファン的には、WWFによる1984年の全米侵攻開始前のテリトリー時代(それまでは各地のプロモーターが仕切っており、そのカルテルとしてNWA=ナショナル・レスリング・アライアンスがあった)の古き良きアメリカンプロレスの風景に郷愁を刺激されるはず。TVショーならではのプロモ(アナウンサーが差し出すマイクに向かって相手を挑発、罵倒する)、ガランとした冷たいドレッシングルーム、出待ちするグルーピー…ダーキンの頭の中を覗いているような気分になる。
プロレスファンは反射的にどのシーンも現実と結びつけた上で物語を追うと思われるが、それ以外の層がこの作品を見て何を感じるか実に興味深い。また、これを機にエリックファミリーというこのジャンルに殉じた家族が存在したことを知ってもらうのも、感慨がある。
私はケリーと父・エリックの死去をアメリカで知った。いずれも週刊プロレス在籍時代、何年に一度あるかどうかの海外取材中にその報を聞いたのだ。1993年2月、フロリダへ“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチさんのもとを訪れたさいに、ケリーの訃報が飛び込んできた。
4年後の1997年9月11日には、ダラスと同じテキサス州のアマリロへいた。テリー・ファンクの地元引退興行前日にフリッツが死去したと大会当日の朝に聞かされたのだがその日の夜、会場内はそうしたものを感じさせない雰囲気で、テキサスらしく「アマリロにプロレスが帰ってきた!」と言わんばかりにショーがスタートする前から熱気に包まれていた。
そうした喧騒が、フリッツの名が告げられるやまたたく間にやんだ。驚きの声がなかったところを見ると、多くのファンはすでに知っていたようだった。たった今までビールをあおっていた男たちが、紙コップを置いて直立し始めた。
十数秒前と同じ場所とは思えぬほど、水を打ったように静まり返る中、追悼のリングベル(ゴング)が打ち鳴らされていく。この黙とうをもって、フリッツの死が現実のものであることを知らされたのだ。
テンカウントゴングが終わると、一人の観客がキャンバスへ向けてテキサスの象徴である黄色い薔薇を投げ入れたが、無常にもそれは届くことなくリング下へ落ちていったのを今でも憶えている。
デビッドの代わりにテキサス・スタジアムで3万2123人の大観衆の後押しを受け、一家の悲願だったNWA世界ヘビー級のベルトをケリーが獲得した時も(1984年5月6日)、ダラスは黄色い薔薇で包まれた。セピア色とイエローに染まったあの頃の追憶…ショーン・ダーキン監督にとって『アイアンクロー』は、どんな彩りで紡がれているのだろうか――。
【公式サイト】映画『アイアンクロー』
各TOHOシネマズ、kino cinema新宿ほか4月5日(金)より全国にて上映