「できることなら」――最後までスピードスターを全う…吉野正人の引退を前に | KEN筆.txt

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BGM:THE SPELLBOUND『はじまり』

 

 

ドラゴンゲート・吉野正人の引退試合が明日、おこなわれる。41歳のピリオドはプロレスラーとして早すぎるが、スピードスターの試合ができなくなったらやめるという信念のもと、惜しまれつつリングを去ることを決めた。

 

『月刊スカパー!』連載「鈴木健.txtの場外乱闘」で6月に取材したさいは電話によるものだったので、やめる前に顔を合わせて挨拶したいと思い7・9後楽園ホール大会へ足を運んだ。久々に会場で見るドラゴンゲートは何もかもが新鮮で、若い選手たちが中心となりつつも望月成晃、ドン・フジイ、Gamma、神田裕之、堀口元気、横須賀ススム、新井健一郎のベテラン勢がそれぞれのポジションを担うことで輝けるパッケージが確立されていた。

 

今でも「ドラゴンゲートは女性ファンに人気がある」と認識されていると思われるが、客席を見渡すと一時と比べ男性の割合が増えていたのも印象に残った。そうした中、吉野は後楽園ラストマッチとしてセミファイナルの6人タッグ戦へ登場。土井成樹&しゃちほこBOYとのトリオでKzy&横須賀&堀口のNATURAL VIBESと対戦した。

 

 

画像を見ての通り、吉野正人は吉野正人の動きを全うしていた。「正直、引退ロードも最後まで無事に出られるかわからない」と言っていたほどの体調。いつ限界が来てもおかしくなく、第一の目標が無事に8・1神戸を迎えられることという現状にもかかわらず、その歴史を描いてきたオリジナル技や土井吉連係を次々と繰り出していった。

 

 

事情を知らぬ者が見たら、とても首をはじめとする故障により引退していく人間とは思えなかったはず。みんなの中にあるスピードスターの姿をしっかりと披露する吉野に圧倒された。

 

試合後に堀口が「おまえの好きな野球もできない、ゴルフもできない。そんなのわかってたから、プライベートでよく遊ぶ俺としてはかなりキツかったわ」と明かした。激しい全身運動ではないゴルフさえもやれぬ首の状態であっても、吉野はプロレスラーとして動いていた。それを思うと、どれほどすごいことかわかるだろう。

 

 

Kzyがしゃちほこを押さえて勝負が決したあと、それぞれが吉野に対する思いをマイクで伝える。引退試合ではないのに、一足早くそのセレモニーをやっているかのようなソウルフルでハートウォーミングな空間が現出する。中でも後輩のKzyの言葉が胸を打った。

 

 

「あなたがコーチの練習で、アゴから血を流しながら腕立て伏せをしていたクソガキが、ついに神戸ワールドのメインイベントに立つところまで来ることができました」

 

吉野が引退する前夜、神戸ワールド記念ホール2DAYS初日のメインで、Kzyはシュン・スカイウォーカーのオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦する。なんという巡り合わせだろう。このタイトル戦に勝てば団体最高峰のチャンピオンとして翌日、世話になった先輩を送り出すことができる。

 

吉野本人は、引退の日はまだ先のためか仲間たちの言葉に微笑を浮かべながら聞いていた。どちらかというと送り出す方の気持ちが高ぶっていた。じつにいい空間…なのに、観客はその思いを声に出すことができなかった。

 

本来ならば、誰もが「吉野!」とその名を叫びたかったはずである。しかしながら、現在の情勢ではそれが許されない。

 

昨年夏頃から、プロレスファンはそれをずっと守ってきた。そのたびに「ここで声援や歓声を飛ばせたらどんなにいいか」と思った。明日の引退試合とセレモニーは、吉野正人に対する最後の応援と感謝の言葉を送る場となるはずが、おそらくそれさえもできぬのだろう。

 

言うまでもなく、誰よりも残念なのは吉野自身。愛するリングを去る場に、ずっと応援し続けてきてくれたファンの声が存在しないのだ。

 

コロナ禍の影響のもとおこなわれるラストマッチ。「できることなら、君ら全員を招き満開の桜の木の下で宴会を開きたかった」――これは映画『戦場のメリークリスマス』に出てくるセリフである。

 

坂本龍一演じる日本軍捕虜収容所所長・ヨノイ大尉は、捕虜に対し理不尽な仕打ちをおこなう一方でこのようなフレンドリーな言葉を発する。戦時下という状況が生み出した立場により敵対関係となるが、ひとつそれを外せば友好的にいられる。

 

けれどもそれも許されぬという、戦争の悲哀がにじみ出た描写だった。この時の「できることなら」の心境になった。現状では難しいと承知の上で吉野のために、そしてファンのために声を出せるようになれたら、と。

 

本日の初日と明日の引退試合、観客はその無念の思いを噛み殺しながら吉野のために唯一のできること…手拍子・拍手によって思いを届かせるはず。おそらく、この1年間に聞いたどの音色(ねいろ)とも違う、独特の熱量となり広い神戸ワールド記念ホールを包み込むだろう。

 

 

思えば吉野を初めて見たのはみちのくプロレスだった。当時、闘龍門の新人選手は日本へ定着する前に派遣され、経験を積むルートができていた。吉野もT2Pとして上陸する前に2001年9月の1シリーズへ“brother”YASSHI、アンソニー・W・森とともにやってきた。

 

約19年と10ヵ月前の岩手・大迫町カントリークラブにおける開幕戦。その日、吉野はメインの8人タッグマッチに出場し、ソル・ナシエンテを日本初披露。自分が開発したオリジナル技は、箕浦康太が継承することになった。

 

たとえリングを去っても、その遺伝子は受け継がれ文化として生き続ける。それを引退後の楽しみにすると、吉野は言う。みちのくに上がった頃を思い出したと本人に告げると「あの頃はついていくのがやっとで、何もできなかったですよね」と笑った。そんな何もできなかった男(もちろん謙遜だが)は、平成プロレスシーン屈指の業師として多くの功績を築いた。

 

2021年8月1日、神戸ワールド記念ホール――できることなら、こんな時代だからこそ吉野正人の心へ強く、深く刻み込まれる引退試合とセレモニーになってほしい。会場へ足を運ぶファンの皆様に、この思いを託します。

 

 

【関連リンク】

『月刊スカパー!』連載「鈴木健.txtの場外乱闘」吉野正人インタビュー全編