荒井昌一さんお墓参りと、愚乱・浪花さん納骨式のご報告 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

昨日5月16日は、元FMW社長・荒井昌一さん10回目の命日だった。埼玉県三郷市にある荒井家御先祖様のお墓の方に6年、2009年に現在の埼玉県「メモリアルガーデン川口」に移っていたことが判明してからは3度訪れているが、5月16日の命日に来られたのは今回が初めてと記憶している。こういう仕事だ、なかなか思うように日にちを合わせることができず、いつも前後してしまっていた。でも、故人を偲ぶと同時に思いを伝えにいくものなのだから、いつであってもいいのだと思う。来られる時に、来られる人間が訪れてはFMWへ携わった人間の近況を荒井さんに伝えれば、喜んでもらえるはずなのだ。

私がずっと間違った認識で御先祖様のお墓へいった時は、まるで荒井さんが「ここじゃないですよ、ほかのところに私のお墓はあるんですよ」と知らせていたかのように、その時間帯だけにわか雨が直撃することが何度となくあったのが、現在のお墓へいくようになってからは常に好天へ恵まれている。この日も、ちょうどいい暖かさの穏やかな昼下がりだった。

命日なので誰かと会うかとも思ったが、自分が着いた時には人影はなかった。だが直後に当時、FMWオフィシャルカメラマンを務めていた平工(ひらく)幸雄さんが現れた。平工さんには、前日の全日本プロレス後楽園大会で顔を合わせたさいに「明日、荒井さんの御命日なのでお墓参りにいってきます」と報告したところ、御自身もずっと気に留めていながら場所がわからずいけなかったというので、お教えした。

その時は「いける時にいっていただければ、荒井さんも喜びますよ」と言ったのだが、平工さんも命日に顔を見せるべく足を運んだのだった。そしてお線香に火をつけるさいに取り出したのが…エンターテインメントFMWのロゴマークが入ったライターだった。「家を出る前に偶然出てきたから持ってきたんだよ」と言っていた。そして、2人で手を合わせた。私は、FMWにゆかりのある選手と関係者のこの一年をひとりひとり荒井さんへ報告した。その分、手を合わせる時間が長くなるわけだが平工さんにはずっと待っていただいた。

そして、3月28日に当ブログで書いた「前略、荒井昌一様。ご報告がありますを出力したものを封筒に入れて、お墓に供えさせていただいた。報告すると書いたからには、形だけではなく御本人にお持ちしなければと思ったのだ。

 


お墓参りを済ませ、川口駅までのバスの中では平工さんとFMWの思い出話、さらには誰がどうしているかの情報交換に終始。選手は今でも活躍している人たちがいる中で、フロント陣は数えるほどしか業界に残っていないことを改めて実感し合った。それと同時に、来年で亡くなられて10年が経つという時の速さも――。


 
そして本日は栃木県下都賀郡の浄土真宗本願寺派・法得寺で執りおこなわれる愚乱・浪花さんの納骨式に参列。朝、東川口駅前で日高郁人、藤田ミノルと待ち合わせし、パンチ田原リングアナウンサーの車に同乗させていただいてから一路お寺を目指した。式が始まる11時30分前に到着すると、めいめいに集まってきた顔触れが徐々に増えていく。

昨年10月6日に他界した浪花さんの御遺骨をお墓に納めるのは、もともと3月17日に予定されていた。だが直前に東日本大震災があったため延期され、この日改めて日本全国からゆかりのある者たちが集った。参列者の名前を、ここに記しておく。

ザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィン、新崎人生、気仙沼二郎、TAKAみちのく、マッチョ☆パンプ、西田秀樹、薬師寺正人(写真後列右から2番目)、日高郁人、藤田ミノル、小坪弘良、みちのくプロレスフロント・滝澤許浚、同・宇田川公延、パンチ田原、元週刊ゴング誌・清水勉、同カメラマン・神谷繁美、同カメラマン・ペペ田中、JCTV・森真実(順不同、敬称略)

 



今回参列した関係者以外では、昨年おこなわれた四十九日法要のさいにディック東郷、カズ・ハヤシ、中島半蔵といった選手たちが参列している。本堂で御住職様がお経を唱え、参列者が焼香したあと、お骨がお墓まで運ばれる。今年の3月に建立されたそのお墓には、阪神タイガースのハッピを着ながらカニのポーズをして笑う浪花さんの写真が2個所に刻まれていた。法名は、釋公淨(しゃくこうじょう)。

「私どもは2人とも七十を越えていますから、いついなくなるかもしれません。私どもがいなくなってからでも、すぐによしクン(浪花さんの本名は木村吉公=よしくに)のお墓だと訪れていただいた方がわかるようにと思い、こうしました」

お母様である美江子さんは、そう語った。プロレスラーになって以来、実家には数えるほどしか戻ってこなかった息子だったが、亡くなるまでの最期の10カ月間は父・光孝さんとともに親子3人で暮らせたという。お墓にお骨を納める時、献花にカナブンが「ブンブン」と羽根音をたてて止まると、お母様はそのカナブンをよしクンと呼び「サスケさんが来てくれたよ。デルフィンさんが来てくれたよ。よかったねえ…」と言って涙ぐんだ。

 


 

式を終えると、我々は御両親によるおもてなしを受けた。顔を見渡すと、全員が三十代より上だと言っては笑い合った。

「みんな、そういうトシになったんだよね」

普段は寡黙な人生が率先して場を盛り上げ、つぼちゃんが調子に乗り、サスケが膨らます。TAKAはニコニコしてその様子を眺め、沖縄から東京まで飛んできてそこからさらに電車を乗り継いでやってきたデルフィンも、こういう場を懐かしむかのように微笑んでいた。浪花さんの同級生の皆様に集合写真を求められると、ごく自然にサスケとデルフィンが隣同士となった。

 


これこそが、ボンちゃんこと浪花さんが愛したみちのくの風景だった。きっと、本人がこの場にいたら誰よりも早く酔っ払い、上機嫌になっていたのだろう。所用により式を終えたところで帰っていったが、わずかな時間でも久々にヤックンこと薬師寺さんと再会できたのは、私にとっても無上の喜びだった。ボンちゃんが、会わせてくれたのだ。

 



「また、会いに来るから」

みんな、そう心の中で唱えて浪花さんの故郷をあとにした。偶然にも2日続けて、自分にとってかけがえのない方へ会いにいけた。6月にはテッド・タナベさん、7月には石川一雄カメラマンにも会いにいく。そして、そういう方々に心を支えていただくことによって自分が生かされているという、けっして忘れてはならぬ真理を噛み締めるのである。